足音
それはシステム調整の為、夜勤が早めに終わった日のことだった。
まだ電車も動いていない時間に帰ることになった私は仕方なく徒歩で帰ることにした。
幸い家までの距離はそう遠くない。たった二駅程度だ、一時間も歩けばたどり着く。
私は灯りも少ない夜の道をゆっくりと歩いて行く。シンと静まり返った街に一人でいると、まるで世界中の人々がいなくなって私一人きりになってしまったかのような妄想が浮かんでくる。
普段目にする光景も、日があるのとないのとでこうも違って見えるとは中々不思議な気分だ。もっとも普段は歩いて帰ることのなど殆どないのだから見慣れない街並みをそう感じているだけなのかもしれないが。
ふと、折角なので少し遠回りして夜の散歩を楽しもうと言う考えが浮かんだ。
最近は季節がら暑くなってきたが夜は涼しくて気分がいいし、何よりちょっとした冒険のようでワクワクしている自分がいる。たまには童心に帰るのも悪くない。
ここにはこんな店があったのか、この店も面白そうだ。こっちには大きな公園がある。そんな風に自分の生活圏から少しだけ離れた場所にあるあれこれを私は見て回った。
この道を抜ければそろそろ自宅だなと思った時、足音が聞こえてきた。
コツコツコツ……。
そろそろ電車も動き始める時間なので始発に乗るために家を出たサラリーマンの革靴の音だろうと気にも止めなかったのだが、一つだけ妙な所がある。足音はするのに肝心の足音の主の姿が見えないのだ。
私がこの時歩いていたのは左右を民家に挟まれた細い一本道。前を向いても後ろを向いて足音の主の姿は見えない。それでも足音は近付いてくる。
コツコツコツコツ。
私はもう足を止めていた。だからこの足音が自分の足音が反響して聞こえてきた物ではないことは確かだ。
コツコツコツコツコツコツ。
ああ、もう目の前まで迫っている。けれど未だに姿が見えない。何故私は今日に限って夜の散歩などしてしまったのだろうか。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。
コツコツコツコツコツ。
ついに足音は私のすぐ隣から聞こえてきた。だが足音は止まることなく離れて行く。
コツコツコツコツ……。
少しずつ離れて行く足音に私は安堵した。
夜には不思議なことが起こるものだ、と無理やり今の出来事を忘却の彼方に追いやり再び足を進めようとした時、私は足音がしなくなっていることに気がついてしまった。
額から冷や汗がたらりと流れた。
生唾を飲み込み、私は見たくもないのに後ろを振り返る。
私以外誰もいなかった筈の道。なのに私から少し離れた位置に真っ黒なコートを着た男が立っていた。此方を向いている訳ではないが、ただただ立っていた。
叫び声をあげたかったが、喉が張り付いてしまって上手く声を発することが出来ずに息が漏れただけだった。
だがそれに反応したのか、男がゆっくりと此方を振り返る。
顔が見える前に私は走ってその場から逃げ出した。振り返ることもなく一目散に。
自宅に到着すると私は布団に潜り込み震えながら眠った。なのであれが何だったのかは分からない。
けど一つだけ心に決めたことがある。次に同じ時間に帰ることになったなら、私は電車が動くまで駅で大人しく待つことだろう。