32.Re;過去(ニア)
窓から差し込む直射日光には流石に逆らえなかった。
「もう寝れんか」
ベッドから立ち上がり、いっそのこととカーテンを開け放して腹を掻く。アクビもひとつ。
毎朝の惰性でテレビをつけ、洗面所で歯磨きをしながら、見るでもないテレビの音を聞いていると、怒りっぽい司会者がゴシップやらの下らない討論をしている。それが絶妙に神経に触り、寝ぼけた頭を覚醒させてくれる。
ここ最近お決まりの目の覚まし方だ。
だけど今日はいつもより寝覚めが悪く、頭にモヤがかかったように思考は判然としない。
昨日は何時まで起きてたっけ?
そんな他愛もない事をボンヤリ考えていると、疎かになった口元から歯磨き粉をボタボタと垂らしてしまい、慌てて手近なタオルで拭いたことをすぐに後悔した。
「やべ、洗濯物増えたじゃん」
パンパンになった洗濯機に拭き終えたタオルを押し込んだ。
※※※
コンビニで来月分の家賃を振り込んでからアルバイトへ向かう。
京都下鴨にある昔ながらの本屋。書籍のデータ化が進んで久しい昨今、潰れずにやっていけてるのは地道な努力と変化を嫌う京都という土地柄、そして何より応援してくれるお客さんのおかげだろう。
見慣れた店内に入ると、勤務時間前だというのに、すでに一人の女の子がエプロンを付けてレジカウンターの中に入っていた。
彼女が今日の相棒らしい。
同じ時間帯で働いたことはほとんど無く、どことなく見覚えがある程度の高校生バイトさんである。
ちなみに容姿は、三つ編みおさげにメガネをかけた、人見知りがちな文学少女タイプ。
ラッキーな気持ちがほんの少しと、面倒だと思う気持ちが残りの全部。
どうしたものかと頭を掻いた。
女子高生とか本当に勘弁してほしいのだ。
店のレジカウンター内はただでさえ狭くて二人で入るのが窮屈だというのに、後ろを通り抜けたりするもんだから、偶然触れてしまってセクハラ親父扱いされないか心配になる。
しかも、隣に居るだけでやたら良い匂いとかするものだから、無駄にドキドキする自分が馬鹿らしくなるのだ。何を期待してんだよって感じで自己嫌悪が捗ってしまう。本当に溜まったもんじゃない。
「遠野さん。おはようございます」
彼女は礼儀正しく頭を下げた。
「……あぁ、おはようございます。……えっと」
彼女の名前は何となく知っているのだけど、もし間違えたら悪いと思って名札を探したけどなぜか見当たらず、どうしたものかと困っていると、少し俯きがちに頬を染めた彼女は恥ずかしそうに言う。
「……たはは、すみません。ほとんど同じシフトに入ったことが無いのに、名前を知ってるなんて気持ち悪かったですよね。よく業務日誌でお名前を見かけてたものですから、勝手に親しみが湧いちゃったような感じで。……えっと、その、……すみません」
そう言って再度頭を下げた。
「いや、ごめん。全然そんなつもりじゃなくて、普通にあなたの名前が判らなかったもんで、名札を探してこっそりカンニングしようとしてただけなんで。なんかこっちこそすみません」
「あわわわ!なんか勘違いしちゃいましたね。やだ。顔から日が昇るくらい恥ずかしいです」
そう言って真っ赤になった顔を両手で覆い隠すメガネ少女。
「いや、顔から日は昇らんよ。それを言うなら顔から火が出るでしょ?」
「やだ、冷静なトーンでの追い打ち酷いです!」
「……突っ込んだだけ親切だと思ってよ」
「うぅ。遠野さんってやっぱり見た目通りSだったんですね」
目の前の女子高生は顔を伏せたまま、必要以上に煩悶している。こういうのを見るとほら、肥大した自意識がささやき始めるわけだよ。
『この娘、俺に気があんじゃねぇの? デートとか誘ったら来るんじゃねぇの? エプロンに隠れてるけど、おっぱいでっかいからな!』とかなんとか。
俺はそんな邪念を振り払って、いかにも冷静に、『あなたに興味はないですよー。あくまで仕事ですからねー』的な空気を出しながら訊ねる。
「……で、お名前聞かせてもらっていいですか?」
すると女子高生は両手で覆っていた顔をあげて、紅くなったままの頬を緩めて答えた。
「忘れてました。自己紹介もまだでしたね。……サノです。サノジロコ」
「えっと、サノ、……ジ、ジロコさん?」
名前から漂う何か間違ってる感に首を傾げてしまう。
「あ~。キラキラネーム馬鹿にするタイプの人ですか? 今の反応はちょっと酷いと思いますよ?」
サノさんは頬っぺたを膨らませ抗議。
微妙に話が食い違っていて若干の気持ちの悪さを感じつつ、どうにも本気で怒っているわけではないらしい。……とはいえ、少しでも気を悪くしたのなら申し訳ない。
「キラキラネームかどうかは怪しい所だと思うけど。とにかく気を悪くしたらマジでごめんなさい」
「ふふふ、良いんですよ。名前なんて所詮は記号なんですから。それより早くカウンター入ってくださいよ」
「じゃあ、とりあえず裏にエプロンを……」
店についてからサノさんと話していただけでバックヤードにも入っていない。色々と準備くらいさせろ。……と思ったのだけど。
「遠野さん。もうエプロン着けてるじゃないですか」
そう言われて自分を見ると確かにエプロンを着けているし、何なら紐を結んだ記憶もあるし、タイムカードだって押したはずだ。
…………ん?
「……そうだったな」
沸々と浮かんでは消える違和感のようなものに首を傾げながらも、何がどうってことも無いので気にするのはやめて、セクハラ親父扱いされたくないのでサノさんの体に触れないように後ろを通り抜けようとする。
と、そこでサノさんは普通だったらカウンター側に体を寄せて、『どうぞ通ってください』的な空気を出すのがこの店での暗黙のルールなのだけど、なぜかサノさんは動かず。むしろ、まるで俺にその身体を触らせようとしているみたいに、お尻をクイと少し突き出して、小さく笑った。
だけど俺はそれに気が付かないフリをしながら、極力その形の良いお尻に触れないように後ろを通った。
……もちろん当たったけどな。……しかもすげぇ柔らかいし。……事故だし、まぁいいや。
そして俺が今日の仕事を確認するために業務日誌を見ているとサノさんはこちらの顔を覗き込んでまた微笑んだ。
「私、ここの前はヒーローショーでアルバイトしてたんですよ」
???
何の脈略も無いその言葉を聞いて、デジャブ的な、何か関連する記憶が思い出されそうで何も思い出せない、脳みそが痒くなったような感覚に苛まれて、再び首を傾げてサノさんの顔を見る。
「……どうかしました?もしかして私に恋しちゃいましたか?」
クスッ。
初めに抱いた真面目そうな印象とは違う、何となく色っぽい微笑み。
少しドキッとしながらも、完全スルーで通す。勘違いなんてやらかした日には目も当てられないだろう。
「いや、今のなんか知ってるような気がしたもんで」
「あ、ナンパの常套句。もう、だめですよ。私にはすっごく格好良い彼氏が居るんですから。話しましたっけ?いっつも金ピカの鎧を着ていて、『アイ・アム・ナンバーワン!』って言うんですよ!」
?????
脈略の無さはもとより、何かがおかしい。
とてつもない違和感。結びつきそうになっては離れていく記憶の数々。いくら頑張っても回想に至らず、不快感だけが燃えカスのように溜まっていき、額を抑えてカウンターに肘をついた。
気味が悪い。納得がいかない。だけど、正解がわからない。
――クソ気持ち悪い。
するとサノさんが可笑しそうに笑い、耳元で囁く。
「……じゃあ、デートくらいなら良いですよ? もちろん彼にはナイショですけど」
「……いや、そういうつもりは全く」
どんどん気分が悪くなってきて、返答もおざなりになってしまうが、サノさんは俺の腕をとって、その豊満な胸をグイと押し付けてくる。
「もう。言わせないでくださいよ。……女の子だって溜まるんです。……ね?」
俺の首筋に触れそうな唇。そこから漏れる吐息がくすぐったい。
「ちょ、やめろ。彼氏だっているんだろ?」
降って湧いた絶好のチャンスだというのに、全くと言っていい程その気になれず、俺の頭はガンガン痛くなってきて、絡みつくサノさんの腕を引き剥がした。
すると、彼女はおかしなことを口走った。
「何言ってるんですか? 私の彼氏なら、ついさっきイナホさんが殺してくれたじゃないですかぁ」
彼女は目の前の地面を指を差し、俺は釣られてそちらを見る。
廃墟のようなボロボロの石床に倒れていたのは、ミイラみたいに痩せ細った男。
首はキレイに断ち切られて、飛び散って乾いた血液が茶色く変色し、転がっていた頭、光を失った眼光がジッとこちらを向いていた。
見知った顔。よく知った人物。確かに俺が殺して、命を終わらせた俺の友達。
その口がゆっくりと開かれて、言葉を発した。
「……イナホくん。酷いよ」
「……っつ!……タ、タダスケっ!」
俺は思わず後ずさりすると、今度は後ろからトントンと肩を叩かれる。
振り返ると、右腕と頭部を斜めに切り落とされた華奢な男の子。
「イナホ。僕の頭と右手知らない? どこかで落っことしちゃったみたいなんだよね」
脳みその模様まではっきり見えていて、言葉を発するたびにピクピクと微動しながら少量の血液を噴き出す。
「ク、クルリ。お前死んでっ!?」
頭に電流を流されたように記憶が繋がり、連鎖、連鎖、連鎖の数珠つなぎ。
――戦慄。
ダムが決壊したかの如く、おぞましい記憶が連鎖的にフラッシュバックし、許容量を軽く飛び越えて吐き気となって襲ってくる。
ダンジョンがある意味不明な世界で何とか生き延びて、タダスケを殺して、心読丸と戦って。
クルリがやられてグチャリと倒れた後、いつも傍に居たあいつも脚を切られて、目の前で……。
怒涛の如くよみがえる記憶達。
そして、隣に居たはずのサノさんは消失していて、代わりに酷く見知った気配を感じた。
――無意識に振り向く。
隣りにいたのは首と足が紫に変色し、傷跡を無数のホチキスで止めた女子高生。
とても懐かしく、同時に胸が締め付けられた。
「……あおい?」
その顔は人懐こくニッコリと笑った。
俺の思考は停まり、涙だけが溢れてきた。
涙は止まらなくなり声も出せないでいると、アオイの口がゆっくりと動いた。
「早く帰ってきてくださいね。待ってるんですよー」
その声は意外にもハキハキとしていて、こちらが抱いている感情を恥ずかしく思うくらいには情緒もクソもない。良く言えばいつも通りの調子である。
「……え? 待ってる? 何言ってんだ?」
「ありゃ、タマさん落ちた。……ちょっとクルリさんが忙しくなりそうなので戻ります。本当に早く戻ってきてくださいね。そうでないと本当にやばいですから」
そう言ったアオイは、いつの間にか消えてなくなった。
戻る?
タマ?
クルリ?
本当にあそこに戻れるとでも?
もう一度、お前に会えるのか!?
「アオイ!」
だけど、その声は届かず、気が付けば辺りは真っ暗闇で、遠くのほうから聞き覚えのある男の声が聞こえた。
「そのアオイだってそろそろ限界だ。今に殺されるぞ。いい加減に目を覚ませ」
「アオイが殺される?……殺されたの間違いじゃ? いや、俺が殺されて、……そうか、これは――」
「ごちゃごちゃうるさい。とりあえず刺すぞ」
その声が途切れたと同時に真っ暗な空から戦闘機ほどもありそうな注射器が降ってきて、その極太の針が俺の太ももへと突き刺さった。
明日も投稿しますえ!




