8、初戦闘はかなり厳しい
自分たちの息遣いと、進むたびにジャリと鳴る足音、時々撮影用の超小型ドローンから蚊のような羽音が聞こえるだけ。
額から汗がポトリと落ちて、足元の石を黒く湿らせた。
隣のアオイさんを見ると同じように疲弊しているようだ。
「アオイさん。ちょっと止まろうか」
「……そうですね。はい。そうしましょう」
本道を道なりに進んできたが、未だにモンスターとエンカウントしないままだった。
緊張状態だけが続いては良くなさそうなので、少し休憩を挟みたかった。
自分たちの居る前後にランタンを配置して、その中心の大きな石に腰をかける。
「モンスターが出ないから、もう今日の探索予定の折り返し地点に着きそうなんだよな」
バックパックから取り出した水筒の水をコップに注ぎながら言った。
「戦闘の跡はいくつかありましたよね」
「ああ。やっぱり入り口付近はほとんど狩られてるって考えたほうがいいのかも」
初心者補助の条件である規定探索時間の性質上、入り口に近い所で活動する冒険者が多い。
そして、俺たちが考えた今日の行程は最大の安全マージンを取ったものだったから、同じような探索範囲の冒険者が数多くいて、結果、一匹のモンスターとも出会わないのだと推測できる。
「本当ならモンスターに会いたくなんてないのに、会えないとなると会いたいと思うだなんて変な感じですね」
「はは。いい得て妙だ」
アオイさん独特の言い回しに思わず笑いが溢れる。
その一瞬の弛緩。
緊張感から解き放たれたかった弱さが起こした状況だろう。
前後の警戒していたつもりだったのだ。
視界の端に違和感を感じたのは偶然だった。
違和感の正体を探ろうと天井を見ると、這いつくばるように迫った餓鬼が石斧を口から手に持ち替えてアオイさんの頭上へと飛びかかるところだった。
「やばっ!」
咄嗟に動いたが、アオイさんに覆いかぶさる事しかできなかった。
石斧は餓鬼の重さを伴って俺の背中を掠める。
「あがっ!」
「イ、イナホさん!?」
「……大丈夫」
痛みを推して立ち上がると、目の前に餓鬼の凶悪な顔、ヨダレだらけで不衛生な歯を剥き出しにして寸前まで迫っていた。
――喰われる。
瞬間的に悲惨な結末が脳裏をよぎるが、それを覆そうにも俺の手に武器は無い。
ただ餓鬼を遠ざけたくてがむしゃらに足を突き出す。
偶然にも餓鬼の胸を捉えて押しやることに成功した。
「イナホさん。私……」
立ち上がったアオイさんから鉄パイプが手渡された。
それを構えるが、多分不格好この上ないだろうけど、焦って正しい構え方も思い出せやしない。
「いいから。それより切り抜けることだけ考えよう」
後方でアオイさんがジャリと足場を踏み固めて釘バットを構えた気配がした。
「……はい。予定通り撤退も視野に入れましょうね」
「……ああ」
ニヤニヤと笑う餓鬼が四つん這いから立ち上がると、その威容に改めて怖気立った。
体格は細身の50代サラリーマンの腹を妊娠させたくらいのものだけど、赤黒く爛れたような肌に不揃いの頭髪、目は巨大なものもらいのようにボコリと腫れていて、口は犬のように耳まで裂けている。
そして、天井をつたって来た動きから察するにその身体能力は人間を凌駕しているのだろう。
どうする?どう攻める?
考えなんて何一つまとまらないうちに餓鬼はニタリと口を引き上げた。
石斧を振り上げながら慣れた身のこなしで左右に揺さぶりながら突進してきた。
俺は間合いもわからずに鉄パイプを振り回すが、餓鬼はスッと足を止めてそれをやり過ごし、スキだらけの俺に跳躍して石斧を振りかざした。
避けようとするが、緊張のせいか痛みのせいか、身体が上手く反応してくれなかった。
――殺られる!
避けきれず左腕を持っていかれる未来を想像して空笑いが漏れ出す。
呆気ない。接敵してから何秒だよ。
自嘲しながら左腕を何とか畳んで目を瞑った。
――ビュン!
しかし石斧は空を切った。
「諦めたら嫌ですよ」
アオイさんに腕を引き寄せられて事なきを得たのだ。
はは。情けない。
「悪い。次は粘る」
「倒すと言わないのがイナホさんなんですね」
話しながらも鉄パイプの尖った先端を突き出して牽制する。
「それも善処する」
ニタニタと笑う餓鬼。
その胴体めがけて鉄パイプを突き出すが、ヒラリと難なく躱される。
さっきみたいな無様なスキを作らないように気をつけている分、相手の驚異にはなっていない。
餓鬼はこちらを弄ぶように軽快なフットワークを見せた。
「アオイさん。まだ動かないで。必ず作るから」
「はい。ちゃんと何にも出来てません」
昨日、資料室で俺達の戦い方を検討していた。
訓練所で少し合わせた程度だが、戦いに不慣れな俺たちに出来る中ではマシな戦法という結論になった。
相手に十分な知能があるからこそ取れるやり方。
アオイさんは、しっかりと俺の後ろで怯えているのが重要だった。
餓鬼は俺との煮えきらない殺りあいに飽きてきたのか、気まぐれに俺との間合いを詰め、石斧を振る。
相手が死に物狂いではない状況。
リーチに歩のある鉄パイプで防御に徹するのはギリギリだけどなんとか出来ている。
それまでは突きに徹していた鉄パイプを横に薙ぎ、返す刀で突きに転じる。相手は気勢を削がれてサイドにスウェイで躱す。
ここだ。
「行くぞ!」
俺は思い切り頭上に振りかぶり、これまでのセーブしたやり方ではなく、全身全霊で餓鬼に殴りかかった。
ガチィィンッ!
しかし、餓鬼はそれをいとも簡単に避け、鉄パイプは勢いよく地面に叩きつけられた。
俺の手はジンと痺れて鉄パイプを取り落とし、前のめりにタタラを踏んでしまう。
「wgekya!」
そのスキを見逃す相手ではなかった。
勢いよく跳躍して石斧を振り上げながら距離を縮める。
俺が慌てて左後ろに飛び退くと、餓鬼は着地と共に俺の方へ飛びかかろうとするが――。
「――吹っ飛べ!」
――ブチャ!
「agyaaia!』
待ち構えていたアオイさんの釘バットが餓鬼の左肩にめり込んだ。
肉にめり込んだ釘バットを抜くためにアオイさんは足で餓鬼を蹴り飛ばすと、ブチブチと肉の剥がれる音を上げた。彼女は躊躇なく追撃を仕掛ける。
しかし、倒れ込んでいる餓鬼は石斧でそれを辛うじて受け止めるとアオイさんの腹を蹴り飛ばす。
「ぐふっ!」
「アオイさん!」
膝を付きながら俺を手で制する。
大丈夫だからと言っているようだった。
それなら俺は……。
腰にぶら下げた予備武器のサバイバルナイフを抜きながら、今にも逃げようとする餓鬼へ向けて走り出した。
跳躍して振りかぶり、餓鬼の背中の中心めがけてぶっ刺した――。
「あがっ!」
――はずだった。
餓鬼は振り返りながら、バックブロウのように石斧を振り回し、それがナイフを持った俺の腕を見事に弾き飛ばしたのだ。
バランスを崩して地面に転がるが、まだ諦めるわけにはいかない。
諦めは死に直結するだろう。
運良く近くあった鉄パイプを掴み、背後に迫っているであろう餓鬼めがけて全力で仕返しのバックブロウ的に横薙いだ。
ビュオン!
鉄パイプは空を切った。
餓鬼は俺を追撃することはなかったのだ。
洞窟の先に、小さくなっていく餓鬼の背中が見える。
……逃げられた。
あれだけ好きにヤラれ、あれだけ追い詰めたのに、逃げられてしまったのだ。
「…………くそっ」
鉄パイプを何かに叩きつけたい気分だったが、物に当たるのが嫌でそれは出来なかった。
立ち上がり、アオイさんの傍へ寄る。
彼女もすでに立ち上がっていて、少し呆然としているようだった。
「お腹は大丈夫?」
アオイさんはお腹を擦って。
「今は全然。ミゾオチに入ったらしくて息が止まっちゃいましたが。……すいません。仕留められませんでした」
彼女はそう言って頭を下げた。
「いや、ちょっと待って。しくじったのは俺だと思ってるから。……悪かった」
俺も頭を下げた。しかしすぐに頭を上げて続ける。
「でも、反省はとりあえず後ね」
アオイさんはすぐに顔を上げた。
「確かにそのとおりでした。ここは戦場ですもんね」
彼女の顔には疲労が滲み出ていて、思わずほっぺたを抓った。
「なんで?いひゃいでふよ?」
「思いつめなくていいから。反省はたくさんあるし、情けない結果に終わったかもしれないけど、俺達は生きてたし、初めてにしちゃ、ついでにインドア派の俺たちにしちゃ良く動けたほうだと思わないか?」
俺だって悔しいし情けなかった。もうちょいマシに出来たはずだろって自分を罵倒したいし、アオイさんに対しても申し訳なく思っている。
だけど、今言ったのも本心だ。
俺たちはギリギリでも戦えてはいたし、この世界でやっていけないこともない実感も出た。
そう思えるくらいには、未来に期待できるくらいにはやれたと思っている。
今回の戦闘で現物は何一つ手に入らなかったけど、確かな経験を手にすることは出来たと思う。
だから、きっと恥じることは何一つ無いと思う。
「ふふふ。本当にそうです。だってインドア派の私達ですもんね」
アオイさんの表情は柔らかくなり、思わずこちらもつられてしまう。
「おうよ。予定地点までは来たわけだし、とりあえず今日はチャッチャと帰って本でも読もうぜ」
「はい!」
そうしてその日は引き返すことにした。
しっかり警戒しながらの帰り道にはモンスターに出会うこともなく、入り口付近の悪口に心動かされることもなく、これと言ったイベントも起きずにその日の探索は終了した。
探索時間は僅か50分。
討伐数は〇匹。稼ぎも〇円。
数字上は何も起きていないに等しいけど、しっかりと収穫を感じられた初探索だった。