2、ダンジョンがある世界は彼女にも厳しいらしい
家に帰っても災難は終わらない。
マンションの前に引っ越しトラックが止まっていたのは知っていた。
ちょうど最後の荷物らしき扇風機を積んでいたところで、『俺のと同じ形だなー』とは思っていたし、妙な汗が出てきたわけだけども、トラックは出発したし、確証もないので部屋に上がったわけだけども……。
「あ、遠野さんちょうどよかったわ。今、強制退去が終わったところです」
にこやかな笑顔でそう言ったのは管理会社の人だと思う。
紺のスーツに髪をジェルだかポマードだかでビシッと決めた体格のいい人で、いかにもスポーツジムに通って、たまにシャンパンとか飲んでそうな人。
「え?」
この人、とんでもないこと言わなかったか?
退去?しかも強制?
先月までは遅れることもなく支払っていたはずなのに。と、考えてみたが、銀行残高の件も勤め先の件も加味すればなんとなく納得できてしまうのが怖い。この世界がおかしくなった弊害だろうか?
「契約書にも書いてますが、残置物は全て処分しました。処分料と滞納金は保証金で賄えましたし、本の量が凄かったでしょう?一応売れましたから残金をお返ししないといけなかったんです。コチラをどうぞ」
手渡された封筒。
薄く、下に重みが偏ってるから中折れして情けなさがにじみ出てる。
恐る恐る中を開けてみると、三百円が手を振っているように見えた。
紙幣などはもちろんない。
「嫌がらせか!」
管理会社の人は「ははは!」と笑い、「切れ味が良いですね」と親指を立ててきれいな歯を見せた。
どうやら他意はないらしく、ついでに家賃滞納についても怒っていないみたいだった。
マンションの前の別れ際、「所詮は管理会社なんで、新しい人を入れたほうが儲かるんですよ」とまた歯を見せて笑っていた。
そんなこんなで、俺の手元に残ったのは今着ている服と現金三万円と三百円、あとは回収し忘れたらしいボロい自転車だけだった。
今後どうすれば良いのかわからなかった俺はスマホを開き、誰かに相談してみることにした。
けど、元々少なかった電話帳に友人達の名前は無く、唯一母親の携帯だけが残されていた。
おいスマホ。親父はどこ行ったよ……。
とりあえず母親にかけてみるか。
しかし、
『は?何言ってんの?あたし再婚したやん』
「え?親父は?」
『は?小学校の頃ダンジョンで死んだやん。……あんたどないしたん?熱でもあんのか?看病とか無理やで?今フィリピンやし。新しいお父さん嫌で出ていったのあんたやねんから、外国人やからやろ?ちゃんと自分でやってや?今フィリピンやねんから。あ、お父さん来はったわ。機嫌悪なるから切るよ?ゴメンな?今フィリピンやねん』
プツリ、ツーツーツーと電子音が残る。
「……フィリピンて」
項垂れるしかなかった。鴨川の土手でただ項垂れて座り込んで、川に落ちる桜の花びらを見つめていた。
「……どうしよう。三万で行けるかな。……フィリピン」
項垂れた。すると頭上から声が聞こえる。
「行けないと思います。少なくとも元の世界では」
「……え?」
顔を空に向けると、後ろから覗き込むようにしていたのは女の子だった。
肩くらいまでの淡い黒髪を揺らし、端正な顔立ちの割に人懐こく微笑んだセーラー服姿の少女だった。
「……アオイさん?……で、合ってたよね?」
「はい。どうも、アオイですよ。トオノイナホさん」
彼女は同じ職場のアルバイトだった。とはいえ、シフトが重なったことは彼女が夏休みの時に二度ほどだけ。引き継ぎで会うことはままあったけどさ。
だから彼女のことはうろ覚えだったけど、店の名前然り、お祭り、学校名など、下鴨は『アオイ』に縁がある町で、彼女の名前と同じ。
確かそんな会話の記憶があって、それで名前を憶えてたわけ。
それはいいとして。
「俺の名前、覚えてるんだ」
俺のこと知ってる人がまだ居るなんて感動しちゃうじゃねぇか。
「遠野物語のトオノで、稲垣足穂のホ。それで憶えました」
あ、確かにあまり面識のない俺の名前を覚えてもらってたのもすごいと思うけど、そうじゃなくてだね。
でも、とりあえず気になることが。
「それだとイナホのイナが足りてないけど」
「あ、それは稲垣のイナで事足りますから」
「……ややこしくないかね?」
「……ややこしくないんですよ」
柔らかく微笑むアオイさんだけど、重要なことがスルーされてる。
「ってか、そうじゃなくてね、……あ、その前によかったら座ります?変な格好だし」
俺は座って上を向いて、アオイさんは後ろから覗き込んでるままだし。
「じゃあお言葉に甘えて。……そうじゃなくてって、フィリピン行きの話ですか?」
触れ合わないような適度な距離で川べりに座る二人。
「それもある。ってか、それが一番引っかかった」
「……確かに。今は飛行機も安いですから片道なら行けちゃうかもですよね。てっきり私、往復で考えたんです」
人差し指をピンと立てて納得したような顔してるけどよ、
「違うね。多分一生懸命考えてくれたんだろうけどね。なにかズレてるよね」
「ズレ、ですか?」
「ズレ、ですね」
沈黙が降り、空気が停滞したのが肌で感じられる。
「……もし今のは冗談。って言ったら信じてもらえるんですか?」
アオイさんは耳だけ少し赤くして明後日を見た。
「難しいとだけ言っておこう」
「……はい」
「話戻すよ?」
「……よしなに」
「えっと、初めに『元の世界では』って言ったよね」
「ああ。そこでしたか。言いましたよ。気付けコノヤロウと念を込めて言いました」
「なんか引っかかる言い方だけど、ってことはやっぱりアオイさんも?困ってる人?」
「はい。私も今朝起きたらダンジョンがある世界にすげ変わっていたんです」
どうやら俺以外にも困ってる人がいたらしい。