科学的な研究でもしてるのだろうか?
考証にたえないとか矛盾がある、常識的に考えてありえない、といったことを聞くことがあります。
気になって仕方ないのだろうなと思うのですが、それってそんなに重要なのかなとも思います。
だって、論文書いてるわけじゃないんですよ。
新しい学説やら新事実の発見というならともかく、創作物の物語にそれらがそこまで必要なんでしょうか?
科学の法則や時代・歴史検証などが必要というなら、創作物の大半は成り立たなくなると思うのですが。
SFやファンタジーに時代劇などはおそらく消え去るしかないかと。
そりゃ、科学的な根拠をもとにしたSFなどはあるでしょうし、歴史公証をした時代劇も珍しくないでしょうが。
しかし、事実をもとにしていても基本は創作物ではないのでしょうか。
そこに完全無欠なる考証や検証を求めてもなあ、と思ってしまいます。
空想は空想で楽しんでればいいのではないかと思うのですが。
どうしても考証や検証がほしいなら、研究活動として別にやればよいのではないでしょうか。
そう思えてなりません。
一騎当千のつわものや、天地を揺るがす大魔道など絵空事として楽しんでるもののはず。
ある程度現実味があればなお良いのかもしれませんが、どうやってそれを成し遂げるのでしょうか。
歴史上、まれな例として一騎当千はあったとは思います。
月並みではありましょうが、三国志の呂布などはその例になるでしょうか。
実際はどうだったのか分かりませんが、ちぎっては投げちぎっては投げという印象があります。
ただ、魔法や超能力、神々の奇跡となると完全にオカルトの話です。
検証しようがない。
そういったものまで分析など出来るんでしょうか?
あくまでファンタジーやメルヘン、御伽噺や童話の中の事実や現実として考証検証しようというのかもしれませんが。
でも、その分析、検証や考証ってそもそも成り立つものなのでしょうか?
もともとが空想の中の産物です。
空想でしかない法則などを土台として考証や検証したとして、それにどれほどの意味があるのでしょうか?
とかくこのあたりが不思議というか、こういった話を見聞きするたびに疑問を抱いてしまいます。
おそらく、考証や検証はそれが好きだからやってるのでしょう。
それはそれで楽しみ方の一つなのかもしれません。
ですが、それならまずは考証や検証をしようというその考え自体を考証や検証したらどうなるのか興味があります。
そこに何の意味があるのか、どんな展望があるのかを確かめてもらえるとありがたいです。
何かしら意義や意味があったら、それを大事にしていきたいとは思います。
おそらく、何らかの発展が見込めるでしょうし、今後の様々な創作によりよい影響があるかもしれませんから。
でも、何の意味も無いというなら、それこそまさに娯楽に他ならないかと思います。
それはそれで、やってる人たちにとっては意味があるかと思いますが、あくまでやってる人たちの中で完結させるものではないでしょうか。
それらについては、
「そういう考えもあるんだね」
とはいえますが、それ以外に何があるのかと考えてしまいます。
根本的な部分というか、本質的なところで、空想を楽しむ創作物と差異があるのかどうかとすら思ってしまいます。
空想は空想として、幻想は幻想として現実や科学などとは無縁なものとして楽しんでればよいかと。
全てに科学性や法則性を求めるのも無理というものでしょう。
最初のあたりでも書きましたが、別に科学的な論文を書いてるわけじゃないのですし。
おそらく様々な創作物というか娯楽は、空想や想像を楽しんでるものではないでしょうか。
意味が無い空想を空想として楽しんでるのではないでしょうか。
そうでない物もあるとしても、そんなものだってあるはずです。
というか、俺はそんな創作物を眼にする機会が多いわけですが。
そんな空想を楽しむことに何か問題があるのでしょうか?
まあ、検証がしたいというだけならまだ良いのかもしれませんが。
それをもとに否定したいだけというなら、もうどうしようもないかと。
そうなると、考証や検証がどうこうというわけではなくなってしまうでしょう。
全く別問題になるかと思いますが、それはそれでまた別の機会にでも。
そんな機会があるかどうか分かりませんが。