考証や検証は建前で、そこが目的ではないのでは
建前と本音は別というか。
目的は別にあって、それを押し通すために都合のよい建前なんじゃないかと思ったもので。
何がというと、タイトルにあるように、考証や検証というものがです。
正論とかもこれに入るだろうか。
それで、何を隠すのか、何が本音なのかというと、相手を貶すこと──これになるわけです。
世の中には貶すのが好きな人もいると聞く。
人が嫌がる事をやりたがる存在もいるという。
いわゆるサイコパスと呼ばれるものなのかとも思うが、詳しい事は分からない。
だが、どうも世の中にはそういう人がいるらしい。
本当にそんな人いるのかと思うのだが、多少なりとも色々な人を見てると、本当にこういう人もいるのではないかと思えてくる。
何が理由があって怒鳴ったり文句を言うのではなく、文句をいうために理由をつけてくる人達。
そういう人がどうも世の中にはいるようである。
で、批判やらなにやらしてくる人というのは、そういうものなのかなと思った。
ここで、「それが全部ではない」という人もいるかもしれないが、そんな事今回は問題にしてない。
相手の揚げ足を取るというか、何か少しでもつけ込める隙を見つけるとここぞと攻撃をしてくる。
そういう輩は実際にいる、とうかそれとおぼしき人物と接した事がある。
こういう人物にとって、事の理非などどうでもよいようで、大事なのは相手を貶すことにあるようだった。
その為に様々な理屈や都合よく使える正論を持ち出す。
正義の側に立ってるのではなく、自分に都合良く正義を使ってる。
そう感じられる者がいた。
ネットにおいてもそれは同様で、様々なところでそうなのではないかというものを見てきた。
特徴というか、そういった文面に感じられるのは、否定・反対理由や考証以外に貶し言葉や挑発的な表現・文体だなと思う事である。
直接的な罵倒・暴言はなくても、読んでいて気分が悪くなるような文章になっている。
書いてる本人がそれを意図したものかどうかは分からない。
だが、読んでいて気分のよいものではない。
反対や否定というものだって、そもそも気分の良いものではない。
ここではあえて断言するが、これらを気分良く受け取る事は難しいだろう。
気分良くとまでいかなくても、特に何も感じないというのも少ないのではないだろうか。
そこに加えて貶し・罵倒・暴言・挑発に関する言葉や、そう受け取れる文章・文体で来れば、気分は最悪である。
それを見て何か良いところを探そうというのは苦痛でしかない。
なんでそんな苦行をしてまで意図を読み取らねばならないのか?
だいたい、反対・否定だとしても、貶し・罵倒・暴言・挑発に関する言葉や、そう受け取れる文章・文体なんて必要ないだろうに。
こうなると、貶すのが目的で、考証や検証といってるのは建前ではないかと思える。
それを前提に考えた方がまだしもマシになってくる。
というわけでタイトルに戻る。
目的は考証や検証でもなんでもなく、単に貶したい、嫌がらせがしたいだけなのではないかと思ったりもする。
あるいは、単に論争というか口げんかが好きなだけなのかもしれない。
何にせよ面倒で、それでいて得るものがない。
こういったものを相手にする必要があるのかと思ってしまう。
たぶん、というか全く無いだろう。
これについては断言しても誰も文句は言わないだろう。
それこそ、考証や検証を理由にして相手を貶すのを目的としてるような者以外ならば。
そんなものをまともに相手する必要もないし、そもそも受け付ける理由がないだろう。
さっさと着信拒否するか、感想とレビューを受け付け停止にした方がまだマシだ。
そして、こういった事を述べてると、「そういったものと、他の批判などを一緒にするな」と言われるだろうと思う。
だから、これについてもある程度述べておきたい。
というか、これについて思いつくのは一つしかない。
「どうやって区別すんだよ?」
こういったものに時間をとられてるのがもったいない。
相手の真意や本意がなんであるのかは分からないし、それを調べるのも手間だ。
費やさねばならない労力や時間がそもそももったいない。
そんな事するくらいなら、小説の続きを考えてるほうがよっぽど有意義だろう。
あるいは、気分が滅入る反対・否定より、応援・賞賛を眺めている方が良い。
応援や賞賛は本当にありがたく、「楽しい」「面白い」といった一言だけでも嬉しいものだ。
これらと付き合ってる方がよほど有意義である。
まして反対・否定が、貶すのが目的かもしれないと思うとね。
本当に何が目的なの、と首をかしげる。
それでも反対や否定を支持する者もいるとは思う。
だが、それらの行き着く先がなんであるのかを考えると、やはりこれらになんの共感も抱けないし、意義も見いだせない。
その実例、少なくとも一例であるこれを思い出すと、とてもそんな事言ってられない。
山岳ベース事件。
これにおける総括。
反対や否定の行き着いた先であろう。
貶すのが目的かどうかは別としても、反対や否定をやりまくった結果がこれである。
本当に、何の意味があるのだろうと思ってしまう。
こうなると、貶すかどうかすら関係なく、
「それって意味があるのか?」
と思ってしまう。
本当に何がしたいのか、何が目的なのか、どうしたいのかがさっぱり分からない。
とまあそんなわけで、相手の目的を一々考えるのも手間になる。
貶したりその類が目的なのか、そうではないのかと検証する事にもなんの意味があるのかとすら思う。
そういった手間と時間をかけてまで得られる何かがあるのだろうか、というところに行き着く。
だったら話の続きを考えてる方がよっぽど有意義だ。
あるいは、新しいネタについて頭を使っていたほうが良い。
こういったものが紛れ込んできて、一々それらの対処に手間と時間を割かねばならないなら、感想などを受付停止しておいた方がよっぽど良い。
目にするだけで疲れるようなものを相手するより楽だ。
手間も時間も割かなくて良いだけ、こいらの負担も激減する。
応援や賞賛をもらえなくなるのも辛いが、多大な負担を無くす事の利点を考えるとやむをえないと割り切るしかない。
その為に、対処を単純化していくしかなくなる。
その方が手間も時間もかからず楽だからだ。
楽というのは大事な事で、必要な時間と労力を省く事に繋がる。
その分、他に回す手間(労力)と時間が手に入る。
我々が手にしてる、持って生まれた時間と労力は限られてる。
この限られた資源や資本や資産(という言い方をしておく)を大事に使いたい。
タイトルからはかけ離れた所に話が流れ着いてるかもしれない。
でも、とりあえずこんな調子で話を終わりにしておきたい。
少なくとも一区切りは入れておく。




