当夜
満月は過ぎたがまだ十分明るい月明かりに岸壁がうっすらと照らされている。見下ろす一面の立ち入り禁止区域の一部には雑草が茂っているが、やはりというか、当然というべきか、土砂剥き出しの部分が多く残り、全体的に荒涼感が漂っている。その先に拡がる海面は現時点では凪いでいるが、深い青が闇に濃く沈み、空に雲が低く垂れ込めているせいで、その先はまるで見通せない。防波堤は以前アレが去って行ったときに破壊されたままの無残な姿だ。
城之内浩也とその娘が身を隠す高台の潅木の茂み――廃棄された駐車場を覆うように林立している――には時折夜風が舞い込んだが、それはただ生温く、肌に触れる淀んだ空気に舐められているだけのように親子たちには感じられる。だから気を張り詰め続けることが難しいのだ。
――本当に今日ここは監視されているのだろうか?
鋭く辺りを見まわしながら城之内浩也が訝しむ。今日がその日ならば警備員がいるはずだ。が、その気配が感じられない。かといって浩也は不用意に行動する気にもなれない。それには危険が大き過ぎる。浩也には本能的わかるのだ。政府直属の監視員――おそらく遠い海面を凝視しているはずだ――の姿が一人でも目に入れば逆に安心できるのだが……。あるいは上空に報道目的ではないヘリコプターでも飛んでいれば……。
すぐ横の藪の中に目を移せば娘の早紀が浩也同様緊迫した面持ちで膝を地面に付け、まんじりともせず身を固めている。その腕の中には赤ん坊がいる。母親同様、息を潜めて動こうとしない。
浩也が今宵の情報を掴み、一人でこの地に向かおうとしたとき、素早く気配を察した早紀が同行を強く主張する。その情景が脳裡を掠める。わずか数時間前のことだが、すでに遠い過去の出来事のようだ。
早紀は続けて、
「息子も一緒に連れて行く」
と主張する。早紀にとって、それは自らの同行以上に重用な事柄だったようだ。
「バカを言うな。赤ん坊がじっと泣かずにいるものか!」
と諭した父親の言葉に、
「この子が泣くとすれば、それは父親を見たときでしょう!(それまではわたしが泣かせません)」
と強く反駁したからだ。ついで実の母親から遺伝した、元よりキツイ両眼でキッと目許を睨まれると浩也はそれ以上言葉を継ぐ気になれず、
「勝手にしろ!」
と応えるしかない。
早紀が抱える赤ん坊の肌は夜目にも光沢が映え、キラキラと耀いている。最初の呼び名が通り名として浸透し、今では知るものたちは彼と彼女たちをメタル・ベビーと呼んでいる。まだ社会問題にはなっていない。浩也が知る赤ん坊の数も――早紀の息子の塔紀を含め――日本で現在三人だけだ。世界全体でも二十名ほどしかいないらしい。が、浩也の利用する情報源にも偏りがあるだろうから本当のところはわからない。
……とすれば、それより数は多いのか、少ないのか?
塔紀以外に浩也が実際に目にしたメタル・ベビーは一人だけだ。元同僚の娘が産んでいる。出産と同時に――いや、生まれた直後に――見た己の娘の光沢質の肌が原因で気を病み、自殺未遂を繰り返す。「今では精神病院内で薬漬けになっているよ」と度重なる疲労で崩れた表情のまま同僚の飯塚康平は言ったが、あの日の彼の目にはまだ希望の光が宿っていた、と浩也は半ば絶望的に思い返す。その後、飯塚康平は浩也の前から完全に姿を消し、同時期に娘も精神病院から消えてしまう。浩也は八方手を尽くして探したが、未だに消息不明は知れていない。政府機関に囚われたか、それとも――想像したくないが――狂った宗教団体に殺されたか?
浩也も早紀も約半年前から住所不定の状態を続ける。若い頃に株で儲けた蓄えがあったお陰で父娘二人これまで何とか暮らせたが、それもいつまで続くことか?
妻の雪名とは早紀が生まれて早々に離婚している。だから直接の被害はないはずだが、浩也からの連絡を疑う警察の見張りが付いている可能性が否定できない。結ばれたときには性の情熱に永遠の愛を誓った二人だが、元より性格が合わなかったのだろう、熱が醒めればそれまでとなる。二十年以上も前に別れた妻に浩也は今更愛情を感じないが、自分と娘の行動のために元妻に迷惑がかかっていると思えば申し訳ない気持ちになる。浩也が思うに悪い女ではなかったのだが、常に愛を確認しなければ生きていられないような依存性の性格が結果的に本人の仇となったのだろう。
「本当に今日来るの?」
「わからんが、おれが掴んだ情報ではそうなっている。だが、数日の誤差はあるかもしれん」
「もうすでに来ていて、去って行った可能性は?」
「それはないだろう」
「じゃあ、待つしかないのね」
「その通りだ。……塔紀は大丈夫か?」
「今は眠っているけど、そろそろ起きるかもしれないわね。そのときちゃんとお乳が出るといいけど」
「ところでおまえは本当にアレが塔紀の父親だと思っているのか?」
「もちろん証拠はないわよ。可能性だって低いかもしれないけど確信だけはあるかな。だって処女の女を妊娠させ、子供を産ませたのだから、その父親は『神』か『悪魔』か、そのどっちかじゃない?」
「アレはそのどちらでもないだろう。いや、そもそも生きているはずがないんだ」
が、浩也は自分のその言葉に確信が持てない。ならばどうしてアレらは海へと消えたのか? そして何故、眼下の跡地が残されたのか?
アレらすべてが何者かに根こそぎ盗まれた可能性はゼロではない。が、現場からかなり離れた監視カメラに映っていた映像にはアレらを盗むどんな曳航船や巨大ホバークラフトの姿も残されていない。それに、と浩也は思い出す。唯一、己が見た画面が荒くて絶えず揺れ動いていた白黒映像をだ。自分でも信じられないが、浩也にはアレが自らの意思で海中に消えていったとしか思えなかったのだ。




