トラブルの種
このところ、植松桜の様子がちょっとおかしい。
元気プロレス五周年記念大会も無事終了した翌日あたりから、桜の態度がどこかよそよそしくぎこちない。視線を感じてそちらに目を向けると、眉間に皺を寄せて、じっと俺を睨みつけている時もある。
思い当たる節もなく、桜に直接聞いてみようかとも考えたが、単に俺の思いすごしという可能性も充分にある。それに「俺に対する態度、最近おかしくない?」なんて聞くのもおかしいし。ナルシストじゃあるまいし。そういう訳でしばらく様子見することとなり、三日ばかり過ぎた金曜の放課後のことだった。
その日は俺が日直の仕事で、いつもより遅めに学校に残っていた。教室の掃除が終わり日誌を提出すると、俺は相方の女子をそのまま先に帰らせた。俺は教室に人を待たせていたし、残りの仕事は戸締りのチェックしかない。俺は彼女と別れて教室へと向かった。
だけど、教室に戻れたのはそれから一時間近くになってからだった。
「……終わったよ」
からりと教室のドアを開けて中に入ると、帰りを待っていた坪井がお帰りと手を挙げた。
桜と雑談していたらしい。
「随分と遅かったね。何かあった?」
「うん。ちょっとトイレに」
帰り際、アルから相沢が使い魔と戦闘に突入し苦戦していると知らせてきた。
そのため、俺は東京まで飛んで相沢の援護に向かっていたのだった。
「お疲れ」
桜が俺の様子を見て、驚きと戸惑いの混ざった顔つきで労いの言葉をかけてきた。
「うん……。すげえ疲れた」
俺は重い足取りで席にたどり着くと、どうっと崩れ落ちるように、坪井の隣の席に座り込んだ。坪井と桜が不思議そうに俺を見ている。
大概、東京往復間は全力で移動するので、帰って来る頃には御覧の通り疲労困憊の状態となる。
ただ、疲れたのは戦闘のせいだけでなかった。
徒労感や虚無感といった感情が胸のうちに残っている。
さっきの戦闘で犠牲者が一人出たのだ。
戦闘終了後で相沢から話を聞くと、相沢の小学校時代の担任らしい。
彼女は来月、結婚式を控えていたという。
使い魔に捕まると、蜘蛛の糸に絡みつかれたかのように身体は白い糸に覆い尽くされた繭となり、その中で人の身体はエネルギー体となる光の玉のような姿に変化させられる。そして光の玉となって主の元へと運ばれて行く。
だから光と化す前に救出するか、使い魔を倒さなくてはいけないのだが、どちらも間に合わず、使い魔を倒すことができたのは光の玉が運ばれていった後だった。
チャンスは何度かあったのだが、繭は人質のような形で使い魔の身体に密着していて、簡単に手出しすることができなかった。
相沢の魔法〝クロイツ・ラス〟で使い魔の動きを止めてから、最後に俺たちの合体魔法である〝ゴールデンシャワー〟でケリをつけたもののも、相沢の眼つきが暗く、かなり落ち込んでいる様子だった。
後で電話するとぼそりと呟いて、相沢は俯き加減のまま帰っていった。
「……開けた窓、閉めといてくれよ」
俺は傍の窓を力無く指さした。
教室を出る際には閉まっていたから、坪井か桜のどちらかが風通しのために開けたのだろう。涼やかに流れ込んでくる風が心地よかった。ただ、億劫で自分でする気力がでてこない。
俺がぐったりしている横で、坪井が身を乗り出し、さっき植松さんから聞いたんだけど、と言ってきた。こういう時、坪井の間の外れた高い声が煩わしく感じる。
「七海てさ、彼女出来たの?」
「……へ?」
「植松さんは小倉さんから聞いたって。先週の日曜日、すっげえ可愛い子といちゃラブトークしてたて聞いたぜ」
「いちゃラブてなんだよ。単なる雑談だろう?」
でも、女の子といたのはホントなんだなと、坪井は驚きと羨望の入り混じった様な調子の外れた声を挙げた。人が死んでんだぞという叫びをなんとか呑みこんで慌てて弁解しようとしたのだが、「守護者」関連に触れないように説明すると、結局は嘘が混じるからどうしても言い訳がましくなる。
「……ふうん。七海に彼女が出来るなんてねえ」
俺達の隣で、面白くなさそうな顔で手の中の鉛筆をくるくる回している。
「だからあ、彼女じゃねえっての」
「別に言いわけなんてしなくてもねえ?」
ねえと桜が坪井を促すように見ると、坪井も釣られたように大きく頷いている。
「いや、だからあ……」
と俺は口を開きかけたが、何でこんな言いわけをしなければならないのか、だんだん馬鹿らしくなってきて、口をつぐんだ。
疲れや今日の失態もあっていらいらしてきたし、桜たちの能天気なやりとりに不快な気分が込みあげてきて、次にその矛先が出所となった小倉に向けられる。
小倉の陽気な笑顔が脳裏に過った。長い暗闘の鍵を握るかもしれない本人が言ったかと思うと余計に腹が立ち、怒りにも似た感情に変わっていく。
……あいつ、何も知らねえで。
大会後はすぐ別れたし、相沢の件は余計ややこしくなると思い、小倉に口止めしなかった俺も迂闊だったのだろうが、二人の様子をいちゃラブなどと軽薄に暴露している辺り、面白おかしくするために尾ひれをつけて大袈裟に話したに違いない。
ふざけんなって、とそんな怒気を含んだ感情が俺の口から洩れた。
「小倉さんもいい加減だな。いちゃラブてなんだよ。……ふざけんなって」
「まじでキレなくたっていいじゃないの」
小倉のことをくさされたと思ったのか、坪井がたしなめるように俺を見る。
「キレちゃいないけどさ。腹立つじゃないの。俺も小倉さんにはちゃんと説明したし、あいつも納得してたんだよ。なんでこんな話になるのかね?」
「カエデちゃんを〝あいつ″呼ばわりするなよ。やっぱり、黒っちキレてんじゃないの?」
俺はムッとして横目で坪井を睨んだ。坪井も俺を睨み返している。不穏な空気が俺と坪井の間に流れ始めた。
そんな空気を察したのか、桜がごめんと取りなすような口調で割って入ってきた。
「実はね。私、あの公園を通りかかって、七海が女の子と一緒にいるのを見かけたのよ。車の中だったから、始めは見間違いかと思っていたんだけど。さっき、小倉さんからも話を聞いてさ。七海の遠い親戚なんて知らなかったから、ちょっとカマをかけてみたくなって……。小倉さんも『いちゃラブ』なんて言ってないから。坪井君も七海もホントにごめんね?」
桜は拝むように手を合わせて頭を下げた。
幼稚園の頃から家を行き来していた桜は、俺の家庭事情も大体は把握している。俺も真実を話していない手前、熱くなって桜の頭を下げさせることになった自分が恥ずかしく、後ろめたささえ感じた。俺の中の苛立ちは既に治まっていった。そこは坪井も同じ様子で、赤みが差していた表情から、色が薄れていくのが見てとれた。
「……わかったよ」
桜はほっとした様子で溜息をつくと、帰ろうと言って自分の鞄を手に取った。
「帰りに購買にでも寄ろうか。おわびに私がジュースでも奢るから」
「へえ、マジ? 助かっちゃうなあ」
と坪井は大袈裟に驚く様子を見せると、教室の外に向かう桜の後について行った。心なしか、先程までから桜から感じていたよそよそしさがいつの間にか消えていて、声も表情も明るく、普段の桜に戻っていた。
教室を出て、桜が購買部でジュースを購入してから校舎を出る頃には、すっかりいつもの俺達に戻っていてくだらない雑談を交わしながら駐輪場へと向かっていた。
駐輪場は校舎の裏手にある。途中には旧校舎がぽつりと寂しそうに建っている。現在は文化系の部室や倉庫代わりに使われていて、近づくと合唱部の歌声や軽音楽部の演奏が入り混じり外まで漏れて聴こえてくる。
もし途中で小倉に会ったら改めて相沢のことを話しておこうかと考えながら、旧校舎の前に差し掛かった時だ。その前で男子生徒が三人ほどたむろしているのが見えた。水道の前で何かを囲んでいる。いずれもガラが悪い連中で、中の一人は髪を茶色に染めている。
「あれ、井上だぜ……」
坪井が茶髪に指差しながら耳元で囁いた。
不快や不安の入り混じった様な声だった。
一見、呑気に見えるこの高校にも問題児や不良はいるもので、井上もそうした生徒の一人だった。一つ上の三年生で、元ボクシング部。素質はあったものの素行が悪く生半可に鍛えた拳を使って、喧嘩や恐喝などのトラブルが絶えなかった。一年生の冬に退部させられた後も、大して反省する様子もなく、何度も停学処分を繰り返していた。
今では数人の取り巻きを引き連れて街中を徘徊しているらしく、学校ではほとんど見かけない。
「囲まれているの、小倉さんじゃない?」
と、桜が指差した。井上の足の隙間からジャージ姿の女の子が背を向けてうずくまっている後ろ姿は、確かに小倉楓のそれだった。
先生呼んでくるかとの坪井の問い掛けよりも早く、俺の足は既に井上らに向かっていた。
「頼む。時間稼ぎしてくるわ」
「七海。ちょっと待ってよ」
私も行くと言う桜を手で制した。
桜なら三人でも容易く退治が出来るだろうが、その場合、今度は標的が桜に変わってしまうおそれがあった。
七海と鞄からアルの小声が聞こえてくる。
『どうするつもりだ?ここで喧嘩はまずいぞ』
「大丈夫だって」
と俺は答えたものの、実際にはどうするという考えも特に持っていなかった。
ただ、先程まで治まっていた怒りが再び沸いてきて、今度はさっきよりも凶暴な感情が混ざり、それが俺の足を動かしていた。
こっちは人一人助けるのが精いっぱいなのに、そっちは呑気に弱いものいじめかよ。
『自重しろ。お前ならあいつらも訳無いが、目立つことをするな』
「心配するな。派手にはやらないから」
『派手にはってお前……』
アルは言葉をそこで切り、急に沈黙した。
井上の仲間の一人が、俺の姿に気付いて近づいてきたからである。肩を怒らせ、威張った口調でナンダテメエはと凄みを利かせてきたが、張りぼての様なあまりの迫力の無さに、俺は噴き出すのをこらえながら、気がつかないふりをして通り過ぎた。
「おおい、小倉さあん」
俺が手を振り、声を張って小倉を呼ぶと、周りを取り囲んだ男たちが一斉に振り向き、間から小倉が立ち上がってこちらを見た。随分と怖い思いをしたらしい。安堵の息がここまで聞こえてきそうなほど表情が緩み、肩の力が抜けていくのがわかった。
「生活指導のコバセンが探してたよ。写真部に用事があるって」
「……わかりました。今、行きます」
小倉は男たちの輪をすり抜けるように、小走りで駆けよって来た。
コバセンとは、生活指導を務める小林先生のニックネームで、柔道部の顧問らしく威圧感のある岩のような肉体は、生徒からも畏怖の象徴だった。その一方で、頑固で妥協しない性格は井上のような不良生徒からは怖れられており、生徒から頼りにされている面もある。
コバセンの名を持ちだしたのは、そういう訳だが、嘘とばればれでも多少の時間稼ぎにはなるはずだった。
さあ行こうと素知らぬ顔で小倉を促すと、井上らはしばらくの間、俺達の様子を窺いながら何か話していたが、やがてのっそりと後を付いてきた。
ちらりと後ろを見ると坪井の姿は無く、少し離れたところから、桜がこちらを心配そうな顔つきで見守っている。桜が坪井に誰かを呼ばせにいったらしい。
すると、男たちは突然走りだし、俺達を取り囲むように立ちふさがった。歳の割にしわがれた声で、井上がおいと呼びとめた。
「お前。こいつを勝手につれていくんじゃねえよ」
「……えっと、何故ですかね?」
俺は表面上、怯えるふりをしながら一人一人の様子を窺っていた。三人とも俺より頭一つ高いが、どれも外見だけでどれも大したことはない。多少、注意を払うのは井上くらいで、他二人は箸にも棒にもかからない連中だった。
「お前には関係ない話だ。痛い目に会いたくなかったらな。とっとと失せろ」
「いやあ。それよりもコバセンのゲンコツの方が怖いので、これで失礼しますね」
と頭を下げながら、小倉の腕を引っ張って男たちの輪から抜けだそうとすると、仲間の一人が待てよと言いながら俺の肩を掴んだ。
次の瞬間、その男は宙に浮いていた。
俺が振り向きざまに素早く足払いを仕掛けたもので、男は受け身もとれずに背中から落ち息が詰まったのか、声も発せぬまま地面で虫のようにもがいている。小倉は目をつぶって俺にしがみついていたし、桜からはちょうど死角となり、何が起きたかよくわからなかったようで、怪訝な顔つきでこちらを眺めている。
「やだなあ、先輩。どうしたんすか?」
自分でもわざとらしいと思いながらも、素知らぬ顔で驚いたような声を挙げた。
「てめえ……。舐めてんのか?おい」
恥をかかされたという面子は一丁前に持ち合わせているらしい。血相を変えて、残る二人がおれを睨みつけながらにじり寄って来る。
「でも、この人、放っておいて大丈夫なんですか?」
まいったなと俺は愛想笑いを浮かべつつ、後ずさりしながら、雰囲気を察した桜がこちらに走ってくるのが目の端に映った。
不意に圧迫感を感じ、視線を井上に戻すと、彼の拳が俺の顔面目がけて襲いかかってくるのが見えた。大ぶりで遅いさえと思えるパンチで、かわしてしまうのも容易だったが、騒ぎを聞いて人が集まり出していたし、下手に注目されることは避けたい。
ここは大人しく殴られたほうが良さそうだと俺は判断し、拳の勢いに合わせて俺は後方に跳び、地面を数メートル転がっていった。
周りの見物人の輪が悲鳴と共に崩れたが、跳ぶ瞬間に偶然を装ったふりをして放った俺の蹴りが井上の金的にこつんと当たり、井上は悶絶してうずくまっていた。その姿を見て今度は周囲がどっと無責任な笑い声を上げた。
この野郎と、恥をかかされた井上は怒りで顔が真っ赤に染まり、仲間に抱えられながらよろよろと立ち上がると、呼吸を整えてから地面に倒れ伏している俺の元へと近づいてきた。地面から少し目線を挙げると、小倉が桜の元に駆け寄って行く姿が見えた。
「お前ら、何をしている!」
コバセンの胴間声が校庭に鳴り響いた。道着姿のコバセンがのしのしと近づいてきた。その後ろに坪井が従っている。コバセンの姿を見て、ちっと井上が舌打ちをして仲間を促すと、周囲の生徒を突き飛ばしながら逃げ去っていった。
「黒っち。怪我はないか?」
坪井が心配そうに俺の顔を覗き込んだ。平気だと上体を起こして周りを見ると、コバセンによって散らされた生徒達の間から、桜がコバセンに事情を説明している姿が映った。
「……私のせいでごめんなさい。黒澤君」
見ると、小倉が俺の後ろで正坐の姿勢でうずくまり、べそを掻いていた。
「小倉さんこそ、怪我は無い?」
と埃を払いながら俺が尋ねると、無言のまま何度も頷いた。俺はほっと安堵する思いで小倉の肩を小さく叩いた。
※ ※ ※
相沢から電話がきたのは、その日の夜遅くになってからだった。
〝色々と考えることが多くてね〟
相沢は深夜になった理由を述べたが、その声は泥のように沈んでいた。親父は仕事のため、北陸に行っていて留守にしている。真っ暗な居間のなかで、柱に寄り掛かって相沢の話を聞いていた。傍らでアルが座り込んでいる。静まり返った室内に時計のわずかな針音が、耳障りと思えるくらい大きく響いて聞こえた。
ああすれば良かったこうすれば良かったと、始めは行動についての検証と反省だったが、次第に相沢の口調は暗い熱を帯び始め、もっと私に力があればと自分を責める言葉が続いた。
「おまえは良くやっているだろ。あれは俺のタイミングが遅れたせいで……」
〝そうじゃないよ。そうじゃ……〟
「……」
〝何でこう、上手くいかないんだろうな……〟
そこで相沢の言葉が途切れた。しばらく無言の後、電話の向こうから相沢の嗚咽が僅かに漏れてくるのが聞こえてきた。使い魔にやられたという後悔や新たに犠牲者をだしてしまったという無念さはあるもののどこか冷淡な自分がいる。俺だって、自分の母親が殺されているのに。
ひょっとすると、『大切な人を守りたい』とうそぶいた俺の方が、相沢よりもドライで冷淡なのかもしれない。
そんなことを考えてしまうと、どんな慰めの言葉も空しいだけの上辺にしか思えず、ただ、相沢の嗚咽を黙って受け止めることくらいしか思いつかなかった。




