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黒澤七海は誤魔化す

「どうしたの?七海、顔に痣ができてるよ」


 使い魔との戦闘を済ませて教室に戻ると、それまで友人と話しこんでいた植松桜が、俺の顔を見るなり、ポニーテールをたなびかせながら近くに寄ってきた。

 桜は隣のC組の生徒とクラスは異なるが付き合いは古い。

 一年時の親しい友人が俺のクラスにいるので度々やってくる。小学校時代に家庭の事情で一時期は別々となったものの、それ以外は中高と学校も一緒で、幼稚園の頃から遊んでいた仲だ。


「ちょっと階段踏み外してさ。顔をぶつけちゃった」


 俺は慌てて手を振って照れ笑いしながらごまかした。

 実際は昼間の使い魔との戦闘で受けた傷の名残で、急いで教室に帰ってきたから治療が完全でなかったらしい。アルの回復魔法で治療したものの、右目の眼球を潰されて失明寸前になっていたとは流石に言えない。


「たく、しっかりしなよ。運動不足なんじゃない?」

「まさか。単に前方不注意で、ぶつけただけだぜ」

「まあ、七海はちっちゃいしねえ」

「ちっちゃいのは関係ねえだろ。余計な御世話だっつうの」


 桜は俺の頭をぽんぽんと叩きながら、可笑しそうに笑う。

 俺が160センチとそれほど高くないのに対して、桜は180センチメートルと女子のわりにかなりの高長身である。

 加えて一見、ぶ厚い上半身のつくりが二次元から飛び出してきた巨乳美少女キャラを思わせるが、二次元キャラと違って随分と肩の筋肉が盛り上がっているし、背中にも厚みがあって間近でのっそりと立たれると結構な迫力があった。

 幼少期に近所で暮していたのだが、そのころと比べると同一人物かと疑うほどに背は高くなり、身体も厚みを増してゴツくなっている。


「それにしても、何か疲れているよね」


 俺の顔を覗き込もうとする桜に、俺は無理矢理、笑顔をつくってみせた。


「気のせいだって」

「うちの道場来れば、受け身も基礎から練習するし、転んで怪我なんてしなくなるのに」


 私が懇切丁寧に教えるからと、桜は無邪気に笑って僕の肩を激しく叩いて笑った。

 植松桜はとある空手道場に通っている。

 空手といっても様々な流派があるが、桜の通っている空手道場は、田舎ながらも総合格闘技やキックボクシングにプロ選手を何人も輩出している道場で、桜自身も有望株の一人だった。この流派が主催する全日本大会にも出場し、去年はプロも数名参加したトーナメントで優勝まで果たしている。ただ、世間ではマイナー過ぎて学校では柔道部や空手部、一部の格闘技マニア以外にほとんど知られておらず、どちらかというと明るく真面目でやたらガタイの良い生徒会副会長として知られていた。


「ふぇえふぇえ。桜ふぁん」


 これなんかばっちりですよねと、E組の小倉楓がシュークリームを片手に、口をもごもごさせながら桜を手招きした。

 小倉は桜や俺とも別のクラスなのだが、生徒会を通じて桜と仲が良く、俺の右隣の席の小島という女の子は、小倉と同じ写真部なので、二人合わせて時折、ウチのクラスに遊びに来る。

 三人はいいよねえばっちりだよねと、小島の席に集まって、何かを覗きこんで騒いでいる。

 ようと俺は小倉に軽い挨拶すると、「ほんひちふぁ」と口をもごもごさせながら返してきた。満面に笑みを浮かべてこの上ない幸福感に満たされているといった表情をしている。目はくりっとしていて、リスや兎といった小動物を連想させて可愛らしい。


「小倉さんも、相変わらず美味しそうにお菓子食べてるねえ」

「ほれ、桜ふぁんがほ家からほってきてくれたんですひょお。クリームふぁ甘くて濃厚で、もうほいしくってほいしくって」

「小倉さん、いつもなんか食ってるよな」


 小倉はとにかく食べるのが大好きな女の子で、会うと何かしら食べ物を口にしている。

 小倉は口のなかのものを飲み込んで、にっこりとほほ笑んでみせた。


「そりゃあ、私にとって食べるってのは、幸せの境地ですからねえ。幸せはどんどん味わいたいですよねえ」

「ふうん」


 よく食べるせいなのか、小倉のお腹は幾分ぽっちゃり気味だ。

 小顔だから目立たないのだが、一昨日の体育の授業で一緒になった時、Tシャツ姿の小倉のお腹が、胸よりも方が少しだけ膨らんでいたのを俺は見逃さなかった。


「まあ、小倉さんも最近、ちょっとお腹が出て……」


 俺の台詞はそこで急に途切れた。

 小倉さんから繰り出された鋭く重い一撃が、俺の鳩尾をえぐっている。

 使い魔の予測のつかない攻撃をかわす俺でも、寝首をかかれたというのか、情けない話だが、思ってもみなかった位置からの不意な攻撃に息がつまり、ゆるゆると俺の身体は崩れ落ちていった。見上げると、それまでの笑顔が消え、無表情のまま目をひんむいた小倉が俺を見下ろしている。


「お、小倉さん。何すんだよ……」

「黒澤君……。女の子には言っていいことと悪いことがあるんですよ……?」

「でも、殴らなくたっていいじゃないか」

「黒澤君。乙女の心を傷つけた罪は重いんですよ。謝ってください。さあ、謝ってください」

「小倉さん、ごめん……」

「〝ごめん″?」

「申し訳ありませんでした小倉楓さん! 僕の失言でした! 反省してます!」

「ちゃんと謝ってくれればいいんですよお」


 と、そこで漸く小倉にいつもの口調と笑顔が戻ってきた。

 普段はこんな穏やかでのんびりとした感じだからつい軽口を叩いてしまうのだが、小倉は結構な短気者だった。人間瞬間湯沸かし器と言っても過言ではなく、カッとなったらすぐに手が出る。

 この種の発言には気をつけなければならないのだが、いつもの小倉と接していると、そんなことはつい忘れてしまう。

 これまで、二度ほどやられているのに。


「はは、七海、小倉さんを怒らせてやんの」


 傍らでは桜と小島さんが呑気に笑っている。

 なんて奴らだ。


「……で、何を盛り上がってたの?」

「ゆっこがUFOを撮ったんだって」


 ゆっことは俺のクラスメイト小島優子の愛称である。

 俺は桜に写真を一枚、見せてもらったのだが、その写真を見て俺は愕然とした。写真には夜

 空に光を帯びた小さな塊のようなものが写っているのだが、知っている者がよくよく見れば、人型の形をしており翼を生やしているのがわかる。つまり、〝守護者テイカー″に変身した俺の姿だった。 特殊なオーラのおかげで、デジタル画像には〝守護者ガーディアン〟の姿は写らない。

 魔法による粒子がデジタルデータを阻害し記録にも残さない仕組みなのだが、フィルムカメラだとその特殊な粒子の影響を受けないようで、このようにフィルムに残ってしまう。


「よくわかんないよなあ、これだと」


 自分でも不自然と思えるくらい強張った声を上げて、写真を小島に返した。

 撮影した時はもっとはっきり見えたんだってと小島が言った。


「最初は流れ星だと思っていたのだけれど、光の帯がぱあっと走って、私の前を一瞬で通り過ぎて行ったの。あれには感動したなあ」


 小島は瞳を輝かせて、その時の余韻に再び浸り始めた。

 写真部の部員である彼女は、天体観察も趣味にしていて夜空を眺めるのが日課となっていた。一週間前のある夜、光の塊が夜空を鋭い速度で駆け抜けて行くのを見たのだという。

 確か前の使い魔を倒したのが一週間前の晩だったから、おそらくその帰りを撮影されたらしい。


「で、どうするのかな。その写真」


 俺がおずおずと小島に尋ねると、桜がUFO同好会で見てもらえばと提案した。

 ううんと唸って、そこで小島は考えて込んでいたが、カルトな雰囲気で知られるUFO同好会に持ち込むのは気が進まないのか、記念に取っておくよと結論が出たところで予例が鳴り、桜は自分の教室へと戻って行った。


「……やれやれ」


 と俺は深くため息をついた。戦闘の影響で得た重い疲労が、再び身体に圧し掛かってくる。

 鞄に提げられたアルから、責めるような視線が送られてくるのを感じた。その視線はあとでまた説教だぞと言っているようでもあり、俺はげんなりとして机の中から教科書やノートを引っ張り出した。


 三時限目は世界史。

 町田という細面の教師が入って来て、つらつらとフランス革命がどうたらと始まると、教室内にはひどく緩慢な空気に漂い始める。

 町田の授業は単調で念仏でも聴いているような気持ちになる。

 俺を含めて大半の生徒は眠気と格闘する中、アルは鞄に釣り下げられながら耳を傾けている。これに限らず、全体的に俺よりアルの方が熱心だった。

 アルの住んでいた世界と異なる文化、歴史に物理、化学に関しては特に興味を持った様子で、家でも飽かずに教科書や参考書を始めとして、図書館で俺に貸し出させて様々な分野の専門書も読みふけっている。何がそんなに楽しいのかと思うが、一度その疑問を口にした時に『……学問とは人格形成に将来、役立つもので云々』と、長時間にわたって説教されたことがある。以来、その類の発言は控えるようにしているが、アルのあくせくと知識を溜めこむスタイルに、俺はちっとも共感ができなかった。今の俺には退屈ながらも平穏な時間を味わう方が優先だった。

 おい、黒っちとあだ名で俺の名を呼びながら後方から突っつかれる感覚があった。後ろを振り向くと、友人の坪井という生徒が眉を寄せている。


「……黒澤、黒澤七海。聞いているのか?」


 その声は町田の声だった。

 俺は、そこで自分が何か指名されたことに漸く気付いた。しまったと思ったがもう遅い。

 俺は慌てて立ち上がった。


「え、あ、と……。すみません。聞いてませんでした」

「しっかりしろ。良い陽気だからってぼさっとしてんな」


 クラス中からどっと遠慮の無い笑い声が巻き起こり、俺は顔から火が出る思いで、ダンゴ虫のように小さく肩を丸めて座るしかなかった。


「……時々、黒っちてぼんやりしていること多いよな」


 放課後、帰宅部の俺と坪井が下校の準備をしていると、一足先に準備を済ませた坪井がそんなことを口にした。


「そう? まあ、今日はちょっとな」


 ふうとつい溜息が洩れ、教科書を鞄にしまうのも億劫で、手付きも自然と物憂いものになる。心も身体が鉛のように重い。

 あれから歴史の授業の後も、数学や国語で質問を寝ていて聞き忘れいたし、中でも国語の授業は厳格さで生徒から怖れられている菊田という教師で、俺は大目玉を喰らい、高校生にもなって廊下に立たされる破目になった。


「来月は期末テストだろ。そんな調子で大丈夫かよ」

「まあ……。大丈夫だろ」

「随分と頼り無い返事だな」


 そうかなと適当に返事をして、俺は鞄を持った。

 内心は、たまたま悪いことが重なっただけで、普段は真面目に授業を受けている。成績も落としていないし、期末テストも大したこっちゃないと思っているが、自慢に繋がるようなことは口に出したくなかった。

 坪井は、それはそうとさと肩を組んできた。


「カエデちゃんに会いにいこうぜ?」

「しつこいね、お前も。どうせ会話する勇気も無いくせに。いい加減、告白したら?」


 無理言うなよと坪井は泣きそうな声をあげた。


「会話もロクにしてねえのに、いきなり告白なんてよう、準備運動せずにプールに飛び込むようなもんだろ。無理だよう」

「告白するなら男からだろ。ぼやぼやしてんじゃねえよ」

「でもよう……」


 指先をいじりながら、坪井はぶつくさぶつくさ何かぼやいている。

 坪井は一年生の頃、俺が紹介したのがきっかけで小倉に一目惚れしている。

 だが、俺がいないと碌な会話もできず、何も出来ないで遠くから眺める無為な日々を過ごし、一年も月日が経過していた。


「だって、お前と仲良いだろ?それにあんな可愛い子を目の前にして、面と向かって喋れねえよ」

「可愛いといっても、見た目より気が強いし、変な事を言うと場合によっては手が出るぞ」


 さきほど、俺が小倉さんにダウンさせられたシーンを、坪井はトイレに行っていたから見ていない。


「馬鹿だなあ。そこが良いじゃん。そのギャップが。なんかこうツンデレつうかさあ。俺の萌え萌えポイントになんだよ」


 俺の話を坪井は冗談としか思っていないのか、気にする様子もなく小倉について語り出す。大した会話も出来ず、一年も経って小倉の表層的な部分しか把握していない坪井が講釈を垂れるなんて噴飯ものでしかないんだが。


「萌え萌えねえ……」


 俺は坪井の腕をそっと肩から外した。


「まあいいけど、ホントに今から行くの?」


 回復魔法は傷の治療が出来ても、疲労を回復させることはできない。疲れが堪える。

 今日は早く帰りたいなあ。


「こういう時は思い立ったが吉日。光陰、矢の如しだよ。黒澤君」

「……わけわかんねえよ」


 俺は呆れて返す言葉も無く、先陣をきって浮かれた様子で先を歩く坪井の後を、渋々付いて行くしか無かった。

 七海と鞄から俺を呼ぶ声がする。


「何だよ、アル」

『小倉に会う時は用心しろ。見た目は普通の人間だが、あの秘めた力がいつ発動するかわからん。接触する時は、俺を少し離れた位置に置け』

「いつもうるさいから、離れてくれねえかな」

『何か言ったか?』

「何でもないよ」


 俺も最近までは小倉を「普通の」女の子だと認識していた。

 だけど、ある時、小倉は俺達の戦いに巻き込まれたことがあって、それから彼女に対する認識は大きく変わった。

 あれは春休みのことだった。

 俺はその日の戦闘で、かなり苦戦していた。

 気絶した小倉を守りながらだったし、相手の使い魔はガスバーナーに憑依した難敵で相性が悪く、俺の必殺魔法〝ラストライド〟も吸収されてしまって通用しない。

 おまけに、俺は腕と足をそれぞれ負傷していた。

 最悪、小倉を見捨てて逃げるか。

 相打ち覚悟で特攻を仕掛けるか。

 いずれにしろ最悪の選択に迫られた時だった。

 不意に、小倉がフラフラと立ち上がった。 

 無表情で目の焦点も合っていない。

 そこに使い魔の鋭い爪が小倉に襲いかかり、「逃げろ」という頭の中の自分の声に逆らって、自然と俺は彼女の身を抱きすくめていた。俺は死を覚悟し目を閉じた。

 だが、次の瞬間に、爪が腕ごと消滅し、はじけ飛ばされた使い魔がのたうちまわっている姿があった。気がつくと、俺達の周りを光の球体が囲み、アルの身体が激しく輝いている。俺自身にも力が漲ってくるのを感じていた。小倉は宙を見つめたまま何か呟いている。その内、小倉を包む光がふっと消えると、小倉は静かに地面へと倒れ込んだ。

 わけが分からない状況だったが、おかげで俺は残りの全魔力を使った攻撃魔法を用い、漸くその戦闘に勝利することができた。

 その後、アルも小倉の髪の毛や爪を採取し、分析するなど調べたみたいだが、どこにでもいる普通の女の子という事実が判明しただけだった。慎重に小倉と接触を試みた結果、現段階でわかっていることは、普通の接触だけでは小倉の能力は発動しないということ。その影響はジュエルを所有するアルにも及ぶということ。敵はまだその存在に気づいていないということくらいしか判明していない。

 何も知らない当の小倉は、今日も校庭で部活動に勤しむ部員たちのシャッターチャンスを狙って、そこかしこと駆けずり回っている。


「大変そうね。カエデちゃん」

「ああ見えて、部長も厳しいみたいだし、結構、走りまわって体力使うみたいだな」


 俺と坪井は、運動場の隅に陣取る写真部の活動を眺めていた。サッカー部を撮影しているらしい。眼鏡の男が写真部の部長でレンズを熱心に覗き込み、そのままの姿勢で小倉に何か指示している。小倉が脇のボックスから何か取り出すと、拳を振り上げて何か怒鳴っている。そうかと思うと、次の瞬間には男がカメラを持って立ち上がり、レンズで選手に狙いを定めたまま走り出し、小倉も重い機材を持って慌てて付いてゆく。

 男は写真部の部長で、ミイラのような貧相な体格や風貌に似合わず、熱い男として知られている。

 俺は写真撮影というものを具体的には知らないが、あの部長の補助は大変だろうなと思った。

 そんな忙しい最中でも俺達の視線に気がついたらしい。

 小倉は顔を挙げてこちらに手を振ったのだが、隣の部長に何か叱られたらしく、神妙な面持ちに戻って謝っている光景がここからでも確認できた。


「こりゃあ、今日は話もできそうもないな。あの様子じゃ」

「カエデちゃん、かわいそう……」


 と坪井はぼやいていたが今日は諦めがついたらしい。その場でうずくまり、小倉を眺めている。


「本人は好きで始めたことなんだからいいんじゃないの。楽しいとか言ってたぜ」


 坪井はへええと理解しがたいといった反応を示すと、次に何を思ったのか、急に下卑た顔つきになった。


「エムなんかな。カエデちゃんてエムなんかな?」

「……お前な。そんな言い方はやめろよ。本人が聞いてたら蹴っ飛ばされるぞ。あいつ、そういう下ネタ大嫌いだから」

「ええ?流石にここからは聞こえないっしょ?」

「誰がエムだって?」


 不意に後ろから声を掛けられ、坪井なんかはケツでもぶったたかれたように、悲鳴を挙げて飛び上った。


「何よ。失礼ねえ」


 後ろを振り返ると、植松桜が仁王立ちの格好で立っている。俺と坪井は一六〇センチ程度と男子の中でもそれ程身長が高くないので、桜を巨大な建造物でも見上げるような格好になる。


「植松さんか……。びっくりさせないでよ」

「何が?」

「いや、何でもない。それよりもそっちは生徒会の帰り?」


 ぜいぜいと隣で息を荒げている坪井は放っておくとして、俺は話題逸らしに専念することにした。


「うん。今日は早く仕事が終わってさ。これから、迎えの車が来るからここで待ってたんだ」


 ふと、桜の運動場に目を向ける。視線の先は小倉だった。


「写真部。相変わらず動きが慌ただしいわねえ。さっきまで一緒だったのに」

「へえ?何かあったの?」

「うん。文化祭の広報に使う写真撮影で、さっきまで一緒だったのよ」


 ふうんと俺は軽く頷いた。

 写真部の活動は幅広く、文化祭や体育際など学校行事があれば何かと駆り出されるし、学校のホームページの作成にも関わっているから結構忙しい。小倉は生徒会との活動を通じて桜とも仲が良かった。


「小倉さんとこ行かないの? 用があるんでしょ」


 桜は小倉の小さな背中を見ながら言った。


「いや……」


 俺は横目で坪井をチラリと見た。坪井は細かく首を振って俺を凝視していた。「言うなよ」と坪井の見開いた目が語っているようだった。


「何となく寄っただけ。さっき、俺達のせいで部長に怒られちゃったし、もう帰るよ」


 そうなんだと桜は気の毒そうに眉をひそめた。

 小倉と部長はサッカー部から野球部へと移動し、二人の姿は豆粒のように小さくなっている。


「そういえば、小倉さんのお兄さんとまだ付き合いあるの?」

「田代さん?朝練はやめているけど、試合の手伝いには行ってるよ」

「プロレスラーかあ……」


 それも凄いよねえと、桜は独りごとのように呟いた。

 田代さんとは、小倉のお兄さんの田代学という人、俺の家から数キロ先にある『元気プロレス』という小さな団体に所属しているプロレスラーだ。俺や小倉とは少し歳が離れているが気さくで人あたりも良いのだけれど、その性格が災いしているのか試合内容が大人しく地味で、インディーの元気プロレス内でも中堅といった立場だった。既に結婚して子どもも一人いる。中学の頃、朝練で同じ公園を利用していたことがきっかけで一緒に練習するようになり、その繋がりで元気プロレスの手伝いをするようになって、そこでたまたま遊びに来た小倉と知り合うこととなった。

 そんな田代さんだから、桜が言う「凄い」というのが何を意味しているのかよくわからない。

 ただ、桜の夢はジャッキー・チェンやトニー・ジャーのようなアクションスターになることで、今は空手の稽古に勤しんでいるのもそのためだった。俺に「大学に行ったら演劇部に入るんだ」と語ったことがあるが、桜は特殊な生き方に憧れを抱いているのかもそんなことを呟いたのかもしれない。


「そうだ」


 と何かを思いついたようで、桜はパンと両手を合わせた。その仕草があどけなく小柄で童顔の小倉よりもどこか幼く見える。

 高身長に加えがっしりとした体格で、空手の猛者というわりに男子からも人気があるのは、容姿に加えて不意にみせる女の子らしい仕草が男心をくすぐるからなんだろう。

 桜のこういった仕草が好きな俺が言うのだから間違いないはず。

 先の坪井の言葉を借りれば、萌え萌えポイントというやつだ。


「もうそろそろ、迎えの車が到着するころだけど、良かったら送ってこうか?」


 桜は俺と坪井の顔を見比べながら言った。

 昔は家の近所に住んでいたのだが、今はここから車で一時間はかかる豪邸に住んでいる。


「俺は自転車だから遠慮しとくよ」

「……俺も大丈夫……です……」


 坪井はもじもじしながら断った。顔が少し赤くなっている。俺は桜とは長い付き合いだが、坪井の方は高校になってからだ。これまでに何度か話したり遊んだりしているとはいえ、金持ちの雰囲気に圧倒されて遠慮があるのか、普段の柄に似合わず付き合いにもどこか壁をつくっている。

 二人とも遠慮しなくていいのにと桜が言っている間に、キキッという甲高いブレーキ音が響いて、校門近くに黒塗りで荘厳なベンツが停止するのが見えた。下校中の生徒達が、授業中の校庭に犬でも迷い込んで来たかような好奇の視線を送っている。


「運転手付きだと、流石に目立つな」

「家の方には、もう少し普通の車にして、とお願いしているんだけどねえ」


 桜は、車を物珍しげに眺めながら通り過ぎる、生徒達の光景を見ながら苦笑いしていた。

 桜の家は、国内でも有数の資産家で、主に重金属や貿易といった方面で財界のトップを担ってきた。当主の植松義政といえば八十余歳にしてまだ矍鑠たる老人で、政界にも充分な影響力があるという。その植松家当主が植松桜の実父であるところに、桜の複雑な家庭事情が絡んでくる。

 桜の母は植松義政の愛人だった。


「じゃあ、私帰るね」


 ああと俺が手を挙げると桜は校門へと歩き出した。


「あ、そうだ」


 と声を挙げると、桜は足を止め、俺達の方へ向き直ってこちらに戻って来た。


「坪井君。女の子にエムとかなんか言っちゃ駄目だよ」 


 といたずらっぽく笑みを浮かべ、植松は手をひらひらと振りながら帰っていった。俺は手を振り返して桜を見送った。見せ物じゃないよと車に群がっている生徒を追い払う声が聞こえ、桜から隣の坪井に目を移すと、坪井は泥の底に沈むようにして頭を抱え込んでいた。


「ほれみろ。そういう軽口は誰かに聞かれるものなんだよ」


 俺はうずくまる坪井を尻目に運動場へと目を向けた。

 まだ強い日差しにさらされながらも、写真部の二人は泥と汗にまみれて、所狭しと駆けずり回っているのが見えた。真剣な目つき。時折、部長と何かやりとりがあって、二人の間に笑顔が生まれた。彼らは生気に溢れ、充実した学生生活を過ごしているのがここまで伝わってくる。

 そんな光景を眺めていると、強大な力を持っていたとしても、小倉をこっちの世界に関わらせるたくないと思いが強くなる。

 小倉だけじゃない。軽薄な言動を繰り返す坪井だって、夢に向かって生きる桜だってそうだ。

 彼らとの他愛もないやりとりはなんだかんだいって好きだったし、そのひとつひとつが貴重なもののように思えてくる。

 俺は坪井を促し、駐輪場から自転車を引っ張り出して校門を出た。

 俺達はしばらく雑談をしながら肩を並べて歩いていたが、学校を出てから十分ほどしてから赤灯を回すパトカーに続いて警察のバイクが二台ほど俺達の横を通り過ぎて行った。


「お、どっかで事件か?」


 坪井が物珍し気にパトカーを見送る。


「でも、サイレン鳴らしてないし、取り締まりか単なる見廻りじゃねえの」

「学校の方に行くな」


 坪井はしばらくの間、パトカーをチラチラと見送っていたが、その時は大したことだと思わず、すぐに警察のことなど忘れてしまって坪井と別れたのだが、校内で窃盗事件が発生したのを知ったのは、翌日になってからだった。


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