相沢奈緒は大胆
「あっちいなあ」
頭上から照りつける太陽に文句を言いながら、学校指定のジャージにTシャツ姿の黒澤七海が自転車を漕いでゆく。神林町は田舎町で、田園が広がる通りには車の通りもほとんどなく、厳しい陽の光に照らされ、道路から陽炎がゆらゆらと立ち昇っている。
今日の作業が終了し、学校を後にしてから数十分。
午後六時を過ぎても太陽の熱には充分な力があって神林町は暑かった。
ニュースでは最高気温は三十三度だというが、目もくらむようなこの眩しさと熱さから感じる体感温度はそれ以上で、この神林町にただごとではない事態が起きているように思えた。
「こりゃ、世界の終わりも近いかもなあ」
『何を言うか。この程度で世界は終わらない』
ウサギのぬいぐるみに魂を宿したアルが、鞄にぶら下がった状態のまま言った。
『かつてマンモスを滅ぼした氷河期や恐竜を滅ぼした原因は急激な気候変動にある。マンモスは原因不明だが、恐竜の場合、巨大隕石によるという説がある。それを考えると今の段階では足りなくて滅びるとすれば、もっと強烈で絶対的な力によって絶滅する。それまではそこらで起きている陽炎のようにゆらゆらと続いてゆくさ。たしかに考えさせられる状況ではあるが、文明の力で凌げないレベルでもない』
「へえ、そうなんだ」
力説したアルに対して、七海はかなり素っ気ない返答をした。
なにも七海自身も本心から世界が終わるとは思っていない。あくまで冗談のつもりでいた。
アルはモンブラウ公国のなかでも国内どころか、世界史に名を残すほどの実力を持つ魔導士だが、元来が愚直な性格のせいか諧謔を介さず、単なる冗談でも真面目に回答してくるのでいつも返答に困る。
暑い最中にアルのご高説に耳を傾ける余裕も無く、話を打ち切るとそのまま自転車を走らせると、自販機が設置されている角を曲って路地へと入った。
自宅の玄関先まで近づくと、自室に備え付けられている室外機が廻っている音が聞こえてきた。今朝、出掛ける際には確認した時には稼働していなかったはずである。突如、思い当たるものがあって七海は顔をしかめた。
アルも同様らしく、あいつらと呻く声がした。
「勝手に入り浸りやがって……」
舌打ちして玄関の鍵を開けると、ひんやりとした空気が奥の部屋からわずかに流れてくる。
荒々しい手つきで玄関を閉めると、七海はそのまま一直線に部屋に向かった。
自室の古い襖を開けると、急激な温度の変化に思わず震えるほどの冷たい空気があふれ出て来た。部屋の中では、タンクトップに短パン姿で、セミロングの髪形の女の子が寝転びながら漫画を読んでいる。七海の姿に気がつくと、煎餅を口にしたまま「ほはえり」と空気の洩れるような声を出して七海を迎えた。
「七海君、いつも大変だねえ」
「おい、相沢……、じゃなくて奈緒。また〝空間転移〟の魔法使ったのか。勝手にあがってんなよ」
「クーラーくらい、いいじゃない。減るもんじゃないし」
何を言うかとアルが口を挟んだ。
『エアコンは多くの電力を使う。その電力をつくる際に二酸化炭素が発生して環境に地球温暖化という悪影響を及ぼしてしまうんだ。地球温暖化は一人一人が心がけなければならない深刻な社会問題だ。だから奈緒も〝減るもんじゃない″などと気易く言うな』
お前の怒るポイントはそこかよと、七海はアルに絶叫したい気持ちだったが、後を引きとる形で七海が続けた。
「お前のとこの東京と違って、こういうの近所が気にするんだよ。前、忘れてたら親父のとこに電話が掛かってきたんだからな」
「田舎の近所付き合いって、色々とめんどくさいね」
全く気にした様子も無く二人の説教をあっさりと流し、相沢奈緒は漫画に目を落としている。
「それよりもさ、そろそろ漫画読みつくしそうなんだけど、何か新しいの買ってないの?」 『俺も次は田村一心先生の〝君と空〟の続き、早く読みたいなあ』
「……東京の方が漫画喫茶や古本も一杯あるんだから、そっちで間に合うでしょうよ。シオンさんもパートナーなんだから、もうちょっと奈緒を叱ってやってくださいよ」
七海は深いため息をつきながら、勉強机で本を広げている熊のぬいぐるみに目をやった。
『七海もアルに似てきやがったな。ちょっと前まで中学生みたいな可愛げがあったのに』
「シオンさんがいい加減過ぎるんですってば」
シオンと呼ばれるぬいぐるみは〝守護者〟である奈緒のパートナーで、アルほどの魔力は持っていないが、アルと共にモンブラウ公国に仕えていた魔導士である。アルとは対照的に気さくで鷹揚な性格なのだが、無頓着なところがあって奈緒が日常生活で魔法を使っても、『まあ、いいんじゃねえの』と流してさほど気にしない。
「それよりも七海君。コップが空になったから、お代わりもってきてよ」
「うっさいな、自分でやれ」
苛立たし気に着替えるぞと言って、七海は汗ばんだTシャツを脱ぎ始めた。
〝使い魔″との闘いや激しい日々の稽古を通して、お互いの裸は見慣れている。だからパンツ一枚姿の七海を見ても奈緒は平然としている。ただ、じっと奈緒は上体を起して七海を見つめていた。
「……なに?」
「別に。陽に焼けたなあ、て。見事なツートンカラーに」
顔を両腕が真っ黒に陽に焼けているのに対し、身体は白いままで奈緒の言葉はそのことを指している。
何気に気にしていることを指摘されて、七海は憮然としてTシャツを投げすてた。
「毎日、学校の往復だから陽にも焼けるだろうよ。夏休み開けたら文化祭もすぐだから、気合入れねえと」
文化祭は夏休み明けの一週間後、九月の上旬に始まる。
夏休みも終盤に差し掛かると、普段の学校生活と変わりが無くなり、校舎や校庭には汗だくになって作業に取り組む生徒の姿で溢れ返っている。
「七海君の学校てさ、夏休み中もみんな出てくるんだよね? どっか出掛けたい子だっているだろうし、受験とか部活は大丈夫なの?」
「その辺りはみんな折り合いつけているから。文句言っている奴は何人かいるけど、なんだかんだいって登校してくる」
七海はクラスメイトの坪井を思い出している。
愚痴が多く軽薄な面ばかり目立つ男だが、この夏休み中、休んだのは事前に聞いている家族旅行と親戚の集まりくらいで、それ以外は一度も文化祭の手伝いを欠かしていない。
「家にいても退屈だとか言っていたけど、この暑い中でも、汗にまみれている方が楽しいみたいだな」
坪井におかしみを覚えながら、七海は洋服ダンスを漁っていた。どこにしまったのか、お気に入りの〝元気プロレス〟のTシャツが見つからない。
「七海君はどうなの?楽しい?」
「楽しいよ。〝元気プロレス〟の手伝いもそうだけど、何かを作っていく作業て、俺は好きだな。一番、達成感や充実を感じる」
そう言いながら、ここの引き出しに入れたはずなんだけどなとブツクサ呟きしゃがみ込んで引き出しのなかを探っていると、不意にふわりと柔らかいものが七海の背中を覆いかぶさってくるのを感じた。
「だから、七海君からこんなに良い匂いがするんだねえ」
七海は、汗で濡れた背に奈緒が頬を擦り寄せてくる感触を感じていた。
「……おい、まだ汗が残ってんだからよせよ。汚いだろ」
「なんでえ?七海君のだから汚くないよ」
「……」
「私が前に言ったでしょ? 七海君のためだったら、私、何でもしちゃうんだから」
甘えるような声と洩らす吐息に、頭のなかがどうにかなりそうで堪えるので必死だった。あるかシオンに助けを求めようと横目で二人を見たが、アルとシオンも無言のままだった。シオンからは冷静さを感じたが、アルはどう対処したら適切かと迷っているらしく、オロオロと小さな身体を右往左往させている。
――七海君が死んだら、私も死ぬから。
以前、奈緒からそう告白されたことがある。だからといって、それから二人の間に特別な変化が起きたわけではないまま過ごしてきたので、感情が昂ぶった余りに発した言葉かと七海は勝手に思い込んでいた。奈緒の自分に対する気持ちは理解していたつもりだったが、突如、このような行動をとられるとは思ってもおらず、相沢奈緒を全く理解していなかったと痛感せざるを得ない。
「このゴツゴツした感触。相変わらず良い身体してるなあ。人に言われない?」
奈緒の細い指が七海の胸や背、腹筋をいじるようにして触っている。
「……体育でも隅で脱いでいるし。ウチの学校、プールないからな」
喘ぐように答えに対し、ふうんと奈緒は呟くとさらに身を寄せ首元を軽く噛んできた。
「じゃあ、私には見せてくれるんだね」
「悪いけど、暑いからさ。……そろそろ、離れてくれないか」
「やだよ。もっと七海君に触れていたいもん」
「……」
激しく湧き起ってくる感情を必死で抑えつけているが、倫理だとか道徳といった理由からではない。七海の脳裏にはある一人の女の姿が映っている。長身にポニーテール、幼馴染で同じ神林高校に通う植松桜の姿がそこにあったからだった。
『おい、もういいだろう』
口を挟んできたのはアルではなく、無言のままじっと二人の様子を眺めていたシオンだった。
『奈緒も七海の気持ちを知っているだろ。あまりコイツを困らすな』
「……」
『ここまできて行動に移さないのも、植松桜て子に対する気持ちが本物だからだろう。あまり焦ると、お互いにとって良くない。……それに俺たちにも目に毒だ』
『そ、そうだ、そうだ』
アルがうろたえた口調ながらも慌てて同調する。
『み、未成年が、い、淫行など、け、け、けしからん。も、もっと家族計画というもは計画的にだな……』
『おじさんからの説教なんぞうるさいと思うかもしれんが、お前が七海のことを思うなら、それくらいにしといてやれよ』
「……わかったわよ」
それまで七海の背に埋めるように俯いていた奈緒は、ゆっくりと身体を七海から離していった。柔らかな感触が背中から消えると、七海はわけのわからない解放感に襲われ、深いため息を洩らした。とりあえず目に映ったTシャツを手に取り着てから三秒、心のなかでカウントした後で振り返ると、奈緒は先ほどまで読んでいた漫画を片付け始めている。
「今日はもう帰るね。さっき、変なことしたの忘れて」
「あ、ああ……」
その時になって、目の前にあった宝物を逃してしまったような激しい後悔や慙愧といった念が胸の内を占めてきたが、最早どうしようもないことだった。奈緒はシオンを促して肩に乗せると、七海の目の前までに近づいてきた。背に触れたはずの柔らかな唇を七海は息を呑むようにして見つめていた。それに気がついているのか、奈緒はいたずらぽく笑みを浮かべる。
「塾あるから行けないけど、文化祭、頑張ってね」
「……」
「おやすみ」
「ああ、おやすみ」
手を振る奈緒に七海が軽く手をあげて応えると、奈緒は左目に〝魔眼〟を発動させ、その身体が金色の光に包まれる。強い光が室内を一瞬満たしたが、収まったときには既に奈緒とシオンの姿は消え去っていた。
『……男女の道にとやかく言うのはおこがましいがな。不幸や揉め事を起さないためにも、ちゃんとした話合いをだな……』
「アルにとやかく言われたかねえよ。シオンさんが言うまでオロオロしてたくせに」
『……』
「それよりも、そろそろ稽古の時間だろ。親父が帰ってくるまえに済ましちまおうぜ」
背中に残る唇の感触はまだ七海の心を突き動かしてくる。稽古の前にトイレに行こうとよろめきながら立ち上がった。




