大切なものは目では見えない
シンと時が止まったような感覚がそこにあった。
外の雑音も生徒達の喧騒も何もかもが遠く、どこか別世界にいるような気がした。
「婚約者……」
「うん。七海の誕生日、急用があって行けなかったでしょ。あの日に食事会があって、そこで知らされたの。私もあまりに唐突だったから何も言えなかったけど」
「……相手、どんな人なの?」
「イギリスの貴族なんだけど、小学校の時に一緒だった記憶はあるけど」
「お前はそんなんで結婚できるのか。勝手に人生を決められて。いつの時代だよ」
私だって嫌だよと桜は強い口調で即答した。
「でも私はね、これでも植松家の人間なんだよ。他の人には馬鹿みたいでもエライ人達と仲良く付き合っていくには時代錯誤でも存在するの。だから私は絶対に役者にならなきゃ。世界中で活躍するような役者に。世界中飛び回っていれば、会わなくて済むでしょ?」
「おかしいだろ、そんなの。そんな考えで幸せなんてなれるのか?役者になんてなれるのかよ」
「七海にはわからないんだよ。私たちの世界なんて」
「わかりたくねえよ。そんな下らねえ世界」
「……」
「お前が空手で強くなったのも、副会長としてみんなから認めて頼られているのもお前が頑張っていたからだろ。植松家なんて関係あったのか?お前の幸せくらい自分でつかめるだろう。なんでこんなとこに家の事情がはいってくるんだよ」
桜だったらもっと幸せになれる世界がある。
そんなくだらない理由で小さな世界に留まっていなければならない奴じゃないはずだ。
「じゃあ、七海。私ね……」
「何?」
見上げると桜の視線と絡み合った。大きな瞳が潤み、外から差し込むわずかな陽の光に反射して小さな輝きを放っていた。柔らかな唇が必死に何かを訴えようと小刻みに揺れている。
だが、そこで桜はふっと短く息を吐き、小さく首を振った。
「もし、私が昔みたいにいじめられたり、泣かされることが起きたら、助けにきてくれる?」
「今のお前なら大丈夫だろ。俺なんかいなくても」
もしもの話だよと桜が遮った。
「私だって、完璧になんかなれないんだから。だから、もしも、くじけそうになった時、助けにきてくれるかな?」
「行くよ。絶対に」
俺は力強く、絶対的な自信を込めて即答した。
〝守護者〟になってからというもの、嘘、偽り、誤魔化しが多くなった俺の人生だが、こればかりは真実の気持ちだ。
「地の果てでも、俺が飛んで行ってお前を助けにいくよ」
桜は何か言い掛けて口をつぐんだ。
笑おうとしたが笑顔にならず、目の端に涙をうかべたまま顔をくしゃくしゃに歪ませて顔を背けた。僅かに肩が震えている。そんな桜を、俺は後ろから抱きしめてやりたいという衝動に駆られた。
だけど、俺にはそれが出来ないでいた。
桜は俺を受け入れてくれたかもしれない。だけど、俺だけが見える桜との間に横たわった深い溝を越えて行く勇気が起こらず、ただ俯きながら黙っているしかなかった。
「七海って不思議だよね。ホントに飛んできそう」
呼吸を整え、顔を戻すといつもの桜の口調に戻っていた。
「その時には、ちゃんと電話くれよ」
「うん。その時までにはちゃんと七海も携帯を買っといてね」
その言葉が自分でおかしかったらしく、言い終えると桜は明るく笑い声を上げた。幸福感にも似たこの空間をもう少し堪能していたいという気持ちもあったが、桜の腕時計にセットされていたアラームが、俺達を現実に引き戻した。
「……もう、戻ってきても良い時間だよね」
夢から覚めたように、桜は腕時計の時刻を見て呟いた。
桜が差し入れにやってきてから既に三〇分以上は過ぎている。二人とも仕事をさぼるようなタイプではないが、そろそろ教室の鍵も返さなくてはいけないし、残った荷物だって一人では手に余る。
「……しょうがねえな」
俺は、二人を探しに行くつもりで、桜に気付かれないように魔眼を使ってクラスメイトの気配を探った。
ポケットの中でもぞもぞと動く感覚が起きた。
おそらく、魔力に反応したアルが、「日常生活で魔法を使うな」という意思表示のつもりで動いたのだろうが、俺は気付かないふりをした。目の前に桜がいるし、アルもあまり派手なアクションはできないだろう。
魔眼の映像には、廊下の風景が映し出された。どうやら旧校舎の廊下らしい。一階だろうか。そこには階上を見上げていたり、階段を駆け上がっていく生徒の姿が映った。猟犬が臭いを嗅ぎあてるように場面が対象の人間へと向かって、次々と場面が映り変わる。
クラスメイトの二人が映しだされたのは、この旧校舎の四階辺りだった。互いに身を寄せて何か話し合っている。彼らの周囲には他にも生徒らしい人間が多数集まり、ある一方向を眺めていた。俺が不審を抱いたのはその時だった。
俺は魔眼を遮断し、外に耳を集中した。先程まで静かだった廊下が、いつの間にか騒がしくなっている。
「何の騒ぎだろう?」
桜もそこで外の異常に気付き、俺達は廊下へと出た。
※ ※ ※
廊下に出ると、先程、魔眼に映しだされた生徒数名が階段下で何事か話しこんでいる。女子生徒でネクタイの色からすると下級生のようだった。
「何かあったの?」
俺が彼女らに尋ねると、その中の真面目そうな眼鏡を掛けた女の子が、上の方で何かトラブルがあったみたいですと答えた。
「上?」
「よくわからないけど、どうも写真部で何かあったみたいですよ。」
「……?」
写真部と聞いて、俺と桜は顔を見合わせた。
さきほどの4階に集まっていた生徒たちの様子といい、嫌な予感がする。
その時、数人の男子生徒が喧嘩だってよ、と言いながら好奇心で満ちた顔つきで通り過ぎようとした。
ちょっと待ってと、桜が彼らを呼びとめた。
「ねえ。上で何が起きたの?」
井上だよと一人が言った。
「写真部に乗り込んで、滅茶苦茶に暴れているらしいぜ」
そこまで聞いて、俺と桜が階段に足を掛けたのは、ほとんど同時だった。行く手を遮る形となった彼らを押しのけ、俺達は三段抜かしで猛然と階段を駆け上がった。
階段の出入り口付近には先程、魔眼で確認した時よりも人が集まっていて、肉の壁のように分厚い人垣が行方を阻んでいる。
桜が野次馬をかき分けて前に出ようとするが、あまりにも人が多くてさすがの桜でも前に進むことが容易では無かった。人々のどよめきに混じって、野太い大人の声も聞こえる。教師も何人か現場に到着しているみたいだが、桜と同様に野次馬に阻まれて前にいけないらしい。
「どうしよう……」
人垣に弾き返された桜は、焦りからか珍しく気弱そうにうろたえ、その向こうに見えるはずの写真部のある教室を不安そうに見つめていた。
奥から響いてくる井上の怒声や誰かの悲鳴。
物の壊れる音で、中の状態はおおよその予想がついていた。
事件以降、停学処分を受けて懲りたと思ったが、どうやら有耶無耶になるのを見計らっていただけらしい。今回、これだけの騒ぎをおこしてどうするつもりか知らないが、どうせ今度もとタカをくくっているのだろうか。
俺は魔眼を発現させ、小倉と井上の気配を探した。視界が人垣を飛び越え写真部の部室へと入る。室内の様子を目の当たりにすると、その瞬間、俺の頭の中がカッと熱くなった。
室内は荒らされ、窓ガラスも何枚か割られているのが映った。
打ち砕かれたカメラや各種機材が無残な姿となって、床上に転がっているのがわかった。井上は誰かの胸倉を掴み、執拗に殴りつけている。殴られているのは部長だった。部屋の隅に部員と混ざって怯えている小倉の姿が見える。
井上が破壊したものは単にカメラだけではない。
あのカメラは何年も何年も世代ごとの部員が大切に扱い、修理し、代々引き継いできたものだ。彼らがいたという証。井上はそれをいともたやすく踏みにじり奪ったわけだ。犯行がばれた仕返しというくだらない理由の為に。
凶暴な感情が胸の中で渦巻き、目の奥がちりちりと焼けるような感覚に襲われた。あの時、手を打っておくべきだったんだ。単なる人間だからと躊躇する必要は無かったのだ。脅しついでに骨一本でも折っておけば、こんなことにはならなかったに違いないのに。
俺にはそれだけの力があったのに
すべきことをしなかった。
「……桜」
叫びたくなる衝動を押さえつけるのに精一杯で、喉の奥から絞るような声で桜を呼んだ。
「ちょっと……。ここで待っていてくれるか」
「え?どこに行くの?」
俺は桜の問いには答えなかった。
変身しなくとも、人垣を飛び越えて行くくらいは余裕でできる。人前だろうと構わない。
井上をぶちのめすつもりだった。
怪訝な顔で桜は俺を見守っていたが、その時、右ポケットから放たれた光と共に、俺の周囲に赤色の臭気が広がると桜の目がトロンと垂れ、やがて壁にもたれかかり崩れ落ちるようにして座り込むと、ちいさな寝息を立て始めた。
寝込んだのは桜だけでなく、人垣を作っていた他の生徒や教員達もだ。〝催眠〟の呪文効果によるもので、遮蔽物が無ければ範囲は数十メートルに及ぶ。密閉空間に近い、狭い旧校舎の廊下なら充分に効果がある。
七海と、ポケットからアルの呼ぶ声がした。
『お前の考えていることくらいはわかるが、人前であまり無茶をしようとするな』
「アル。今日はお前の説教を聞かねえぞ。友達が痛めつけられていても黙って見てろてか? 俺はそんなお人好しじゃねえんだよ。自己満足でも構うもんか。弱い奴をいたぶっていい気になっているあの野郎をぶちのめさないと、俺の気が済まねえよ」
『……俺が言っているのは、人前でという点だけだ。俺がそこまで頑迷固陋な人間だと思うか? 時には腹にすえかねるという気持ちもよくわかる』
「……」
『もう反対はせん。ばれないように上手くやれ、それだけだ』
「サンキュな」
俺は廊下に転がる生徒らの身体を踏まないように、慎重に足を進めた。部室に近づくにつれ、中から井上のうろたえたような声が聞こえてくる。催眠の魔法が効かなかったらしい。これは予想外だったが、効果は絶対でなく、風の微妙な流れや耐性があって効かないこともある。どこかに引っ張りだして、そこでボコボコにする予定だったが、まあ、いい。ここでも充分だ。
俺は廊下の隅に転がっている、木製のデッキブラシを拾い上げた。まだ真新しく柄も丈夫そうだ。
『そんなので間に合うのか?』
「戦闘中に俺がいつも使っているのは、あれでも杖だろ。それに手を汚したくないし」
『……まあ、まかせる』
俺が先頭に横たわる太った男子生徒をまたぎ終えると、外の様子を確かめに来たらしい井上が、血相を変えて部室から飛び出してきた。
「よう、先輩。どうしたんですか?そんな青い面して」
「なんだテメエは? 何か用か」
どうやら、井上は俺の顔を覚えていない様子だった。警戒の色を浮かべながらも、誰なのかと詮索と戸惑いの表情も混ざっている。
「随分と俺の友人に痛い目に遭わせたみたいじゃないですか。そのお礼に来たんですよ」
「お礼だあ?」
井上は、キョトンとした表情で俺と俺が手にしているデッキブラシを交互に見比べてていた。やがて表情が崩れ、けたたましい笑い声を上げ始めた。
「なにを言っているかと思えば、そのデッキブラシで俺にヤキを入れるってか?そんなチンケな棒で何ができるってんだよ」
「……」
「ホントにお前の友達といい、笑わしてくれるぜ」
「……」
「小倉とかいったか?脅したらガタガタ震えてた写真部のチビガキもよ。ふっるいカメラを大事そうにしてやがるから、目の前でぶっ壊してやったら、血相変えて掴みかかってきやがった。あんまりしつけえから殴ってやったらちったあ大人しくなったが。あんなもん何が……」
井上の言葉はそこで途切れた。
俺が井上の懐に潜り込み、「チンケな棒」と揶揄したデッキブラシの柄の先端で、井上のみぞおちを深くえぐっていたからだ。井上は呼吸もできず、くの字に身体を曲げていた。そこへ間髪入れず、俺のハイキックが井上の顔面を捉えると、井上は部室の中まで弾き飛ばされる格好となった。
「寝てんじゃねえよ。先輩よ」
井上は何が起きたか分からない様子で、しばらく床の上に呆然と這いつくばっていたが、俺が室内に入ると腹を抑えたまま立ち上がってきた。先程の余裕と侮蔑に満ちた表情は消え、怒りで顔が真っ赤に染まっている。部屋の隅で、互いにもたれかかって寝入っている小倉や、他の部員たちの姿がチラリと視界に入った。
小倉の左頬が赤く腫れあがっている。眼元には涙の痕が浮かんでいた。
この野郎と唸ると同時に、井上が飛びかかるようにして殴りかかってきた。俺は柄の部分を使って軽く弾くと、返す刀で井上の額へと強烈に叩きつけた。
乾いた音が室内に響き、井上は額を押さえつけて、悶絶して再び床にうずくまった。
「だらしねえな。さっきまでの威勢はどこいったんすか?自慢のボクシングテクをみせてくださいよ」
「……」
井上は呻いたまま動けないでいる。
他愛もない相手だが、だからといって容赦する気もない。
見た目は無造作に、しかし油断なく目を配りながら井上に近づくと、突然、咆哮して俺に飛び掛かってきた。キラリと光るものが奔り、俺はそれをデッキで弾いた。
右手に強烈な小手を受けて、井上はよろめいたものの、態勢を立て直してその光るものを俺に示した。その手にはバタフライナイフを把持している。
「先輩。そんなもん人に向けて、どうするつもりですかあ?怪我させたら洒落になりませんよ」
「うるせえ!お前だって武器を持ってんじゃねえか。あいこだ、あいこ」
「手加減しないっすよ」
「……やってみろよ」
もちろん、俺は鼻から井上を叩きのめすつもりでいたから、いい口実が出来たとしか思っていない。
そんな俺の顔を見て、井上が一瞬、たじろぐ様子を見せた。以前、坪井から「スゲエ怖い目つき」と指摘されたが、その顔がここで表れたのだろう。湧き上がってくる残忍で凶暴な感情を必死に押さえつけている今の俺は、どんな表情をしているのだろうか。
俺がデッキブラシを構え、にじり寄るように間合いを詰めると、井上は気圧されたように後ろへ下がった。ナイフの扱いに慣れていないことは、先程の動きや構えで分かっていた。
あと数歩。
相手から先に打たせて、カウンターで打ちすえそこから一気に叩きのめすつもりだった。
だが、そこから予想だにしない事態が発生した。
魔法で深い眠りに落ちているはずの小倉が、不意に立ち上がった。
「……小倉さん?」
小倉に気をとられ、俺は井上のナイフが襲ってくるのに一瞬、遅れた。辛くもかわして数合打ち合ったあと、足払いで井上の態勢を崩し、柄を利用して井上の首根っこをひっかけ、俺の飛び膝蹴りが井上の顎を捉えた。ぐらつく井上の頬を再び柄で叩きつけると、長身の身体を壁際まで吹き飛んだ。
「小倉さん。大丈夫か?」
さっきまでの井上への怒りはどこかに消えていて、俺は小倉のもとへと駆けよった。
「小倉さん?」
声を掛けても反応が無く、小倉は無表情で目の焦点も合っていない。わずかに口が開いて何か呟いている。この状態、どこかで見覚えがある。
「アル……。もしかして、これって……」
『七海。小倉の力が発動する前兆だ。小倉を連れて早くここから離れろ……!ジュエルが反応したら、ジュエルの力を感知して使い魔も来るぞ!』
使い魔が来れば、おそらくこの旧校舎全体が結界に飲み込まれる。この校舎にどれだけの生徒がいるかわからないが、使い魔相手では守りきれる自信が無い。学校始まって以来の大惨事になるだろう。
「わかった。急いで出よう……」
俺は急いで〝守護者〟に変身すると、小倉の身体を腕に抱きかかえこんだ。
小倉の身体が光に覆われ始める。まだ、前段階なはずなのに、小倉が放つ力に吹き飛ばされそうになるのを必死でこらえながら、俺は窓のそばに寄った。人のいない山奥なら、ここからでもそれほど遠くはない。多少、人目に触れる可能性があるがこの場合は仕方が無い。
その時、誰かが俺の腰にしがみついてきた。
見ると井上だった。変身した俺の姿にも気付かず、額や口の端から血を流しながら、「まだ終わっちゃいねえぞ」「ママから訴えてもらうからな」などと、うわ言のように何か繰り返している。どうやら意識が少し混濁しているらしい。
「うるせえ!それどころじゃねえんだよ」
「まだだ……まだ……」
「おい!放せよ!」
振り切ろうとしたが、どこにそんな力が残っていたのか、足で振りほどこうとするが容易に離れない。残る片手で井上を突き放した時には、小倉の身体が光に包まれていた。やがて、雷に似た激しい光を放ち始めた。大気が震え、地鳴りとともに旧校舎がガタガタと揺れ動く。階下から生徒の悲鳴が聞こえた。
そして、小倉に共鳴するかのように、アルの腹部に納められているジュエルも、同じように強烈な光を放っている。
駄目だと苦痛に堪えるような声で、アルが叫んだ。
『力を抑えきれない……。奴が……。使い魔がここに来るぞ!』
「くそ……!」
その時、近くに転がっていたバタフライナイフが光を帯びた。絵の具を溶かすように空間が歪み、どす黒い瘴気が広がり始める。その勢いは旧校舎どころか、学校全体を覆いそうな魔力を感じていた。
「仕方ねえ、こちらから結界を張る!」
俺は片手で印を結び、描いた魔法陣を教室の床に叩きつけるようにして呪文を唱えた。
使い魔が構築した空間が更に歪みを見せた。




