植松桜、打ち明ける
七月に入り、期末テストの結果が発表されると、あとの行事は終業式を残すだけとなる。
余所の高校なら、夏休みに向けて浮かれた雰囲気になるところだろうが、我が県立神林高校は少し雰囲気が異なる。
夏休み明けの一週間後に文化祭があるためで、事前準備で慌ただしい様子を見せ始める。
俺もそのために一人、旧校舎の、今は倉庫代わりの教室でTシャツ姿になって、目の前の積み上げられた段ボール箱と格闘していた。
窓を全開にしても、うだるような暑さで、拭っても拭っても大量の汗が流れ落ちてくる。Tシャツは既に汗でぐっしょりと濡れていた。
「……おい、アル。お前も氷系の魔法使えるんだろ?なんとかしてくれよ。少しは涼しくなるだろ」
俺が声を掛けると、アルがひょっこりとポケットから顔を出した。
『あれはドライアイスと性質が変わらないから、下手に使うと怪我するだけだ。それに日常生活で魔法に頼るのは良くない。かの快川紹喜が言っているだろう〝心頭滅却すれば火もまた涼し″と。だいたい日本には〝涼〟というものがあるのにだな。坪井やお前みたいに日本の若者はエアコンに頼り過ぎる。これからの時代……』
「へいへい。わかりましたよ」
くそと呻きながら、重い段ボールに手を掛けるとガラリと戸が開いた。慌ててアルは俺のポケットに隠れた。
お疲れと言いながら現れたのは桜だった。
両腕にペットボトルを何本か抱えている。
「あれえ、七海一人? 声がした気がしたけど。あとの二人は?」
桜は部屋に入って、周囲を見回しながら俺に尋ねてきた。
「荷物を教室に運びに行った。もうすぐ戻って来るんじゃない?」
そうなんだと言って、桜は差し入れと言って俺にペットボトルを一本投げて寄こすと、他のペットボトルは机に置いた。
「ひどい汗ね。少し休憩したら」
汗でぐっしょりとTシャツ姿の俺を見て眉をひそめた。
俺もちょうど一区切りついたところだったので、勧めに従ってペットボトルの蓋を開けた。ほんと今日は暑いねと、桜は手を団扇代わりにして扇いだ。
「でも、ここの部屋て、他のところと比べても特に蒸し暑いんだよね。他はもう少し風通しが良くて、そんな汗まみれになることないのに」
桜は近くに置いてあった椅子を引き寄せると、令嬢という身分に相応しく足を組むということもせずに、両膝をきちんと揃えて座った。
「窓は全開にしているのに、風が入ってこないんだよな、ここ。改築でもした方がいいんじゃないの?」
「この校舎て、元々は取り壊し予定の建物だったし、そういう予算はなかなかつかないでしょ。修理費くらいは出ると思うけど」
雨漏り、隙間風、建物自体の老朽化。
桜の話によると当時の生徒からの苦情や要望もあって、取り壊しが決まったのは二十年も前の話だが、どういう理由か工事が進まなかった。その間、代替わりしていくうちに、この古びた校舎に思い出と愛着が生まれるようになって、今では保存を訴える生徒が表れ始めているという。
「もしかしたら、私達が卒業した後も、当分はこのままかもね」
「そう考えると凄いねえ」
奇妙な感慨が胸の内から生まれていた。
「そうかな?」
「そうだよ。俺達が生まれる前からなんだろ?」
取り壊しが決まってから二十年。それでも俺が生まれる前から、この建物はふんばって建っている。桜からそんな話を聞くと、俺の中には勿体ないような、愛おしいような奇妙な感傷が生まれていた。
「でも、保存を訴えている人なんてごく少数だよ。大きな災害が起きたら危ないし、私は早く取り壊して、ちゃんと新しく建てた方がいいと思うけどな」
特に感慨もない様子の桜が、あっさりとした口調で言った。
まあ、大概はそんなものか。
俺は他人とのズレに、憮然としながらジュースを一口飲んだ。
長い年数を駈けて残る事象に、特別な感情を抱くのは俺やその保存を訴えている少数の人間くらいで、多くの人にとっては老朽化が進んだ凡百の建造物でしかない。
幾ら思い出が詰った建物とはいっても、ここで活動する生徒に不安を与えてしまうものなら、その意味もなくなってしまう。保存を訴えている生徒にしても、無くなれば無くなったで、一時は悲しむだろうがいずれは存在すら忘れてしまうだろう。
俺は染みや古い修復痕の目立つ天井を見上げていると、相沢の顔が浮かんできた。
わがままか……。
プレゼントを贈った際に発した相沢の言葉を思い出し、重いと感じた自分をふっと自嘲気味に笑った。そんな俺を桜が不思議そうな眼で見つめている。何も気付かない桜は文化祭へと話を変えた。
「……それにしても、二学期になってすぐに文化祭はないよねえ」
「教員らにしたら、夏休み中、生徒を遊ばせないようにて肚なんじゃないの?」
「せっかくの夏休みなのにねえ」
桜はぼやきながら、ペットボトルに残ったジュースを一気に飲み干した。
誕生日以降、ここしばらくは使い魔と闘うこともない平穏な日々を過ごしている。
「あんな忙しい夏休みなんて、早く終わればいいのになあ」
桜は天を仰ぐようにして大袈裟に嘆いてみせた。
夏休みに入っても、学校が閑散としているのは始めの一週間くらいで、あとはいつもの学校生活と変わらない。違いは私服での登校が認められているのと登下校の時間が緩やかというくらいだろうか。休みなのに拘束されると、一部で不満をもつ生徒もいるが、部活動を含めてクラスで事前に予定を組んで調整し、計画的に行っていれば特に問題は起きなかったし、俺と同じように家でする事も無い生徒も多いのか、表面では桜のように愚痴をこぼしつつも、概ね受け入れられていた。
9月に行われる文化祭では、俺達のクラスは演劇に決まっていて、俺は裏方として働くこととなり、その準備のため、使えそうな衣装や小道具を借りに、俺を含めて三名ほどが旧校舎に行くことになった。元は教室だった倉庫の鍵は、生徒会が管理している。その時に応対したのが桜で、陣中見舞いと称してジュースの差し入れにきたのだった。
「桜のクラスは順調なの?」
「順調みたいよ」
コーヒーとクレープ、それにカレーと焼そばがメインの喫茶店。それがクラスでの文化祭の出し物だと聞いている。
桜が他人事のように返事をしたのは、生徒会の業務に追われていて、自分のクラスの進行状況まであまり把握できていないからだった。
「去年もそうだったけど、今年も参加は難しいみたい。みんなは気を使ってくれるんだけど、それが余計に寂しいのよねえ」
桜は苦笑いして口の端を歪めた。
去年は同じクラスだったから知っているが、副会長という立場は存在が地味なわりに雑用が多いようで、桜が連日、校内を駆けずり回っている姿を良く見掛けた。開催前日などは、不安と緊張感で真っ青な顔をしていたのを思い出す。
その時も、クラスの出し物に大して参加できなかったことを残念がっていたが、今年も同様らしい。今年は役員をするつもりが無かったのだが、生徒会長から頼み込まれたという。
「でも、頼まれちゃ仕方ないわよねえ」
と肩をすくめる桜だったが、その声はどこか楽しそうだ。仕方なくやっていると言った相沢の疲れ切った表情とは正反対のように思えた。
「でも9月て、大会あるんだろ? 間に合うのか?」
「あっちは九月の末だから。日々、稽古に励んでおりますので、その点はご心配なく」
9月の末に、桜が所属する流派の地方大会がある。桜の階級にプロが数名参戦するという話があり、どこからかその情報を知ったマニアックな生徒たちが、ちょくちょく桜に声を掛けてくる。
「お前、将来プロになるの?」
「支部長にも訊かれましたけど、私が目指しているのはあくまでアクションスターです」
と、桜はおどけた口調で言ったが、真剣なのは指の動きを見ればわかる。指を鳴らす仕草をするのが桜の癖だった。
「そしたら何で、演劇部に入らなかったのさ?」
「生徒会と掛け持ちなんてできるわけないでしょ?道場や家での稽古事で一杯一杯なのに。……それに、あそこはほぼ廃部状態だし」
演劇部は三年生の部員2人のみで活動もあまり熱心でないと桜は言った。言葉は遠慮がちだったが、かなり失望したらしいということは顔色から窺えた。
桜は植松家息女として、令嬢にふさわしい礼儀作法や教養を叩き込まれている。去年の俺の誕生日に、ピアノを即興で弾けるほどの腕前をみせたのもその一つだが、絵画に華道や茶道、社交ダンスもお手の物らしい。外国語も既に四カ国語ほど話せるらしい。生徒会に同情の稽古。普段の学業だってある。学業だけでも大変だろうに、どんなスケジュールを組めば可能なのか俺には想像もつかない。そして、そんなオールマイティな桜の夢がアクションスターということでますます首を傾げたくなる。
「なんでまた、アクションスターなの?」
「ジャッキー・チェンやブルース・リーみたいになりたいて、前から言っているでしょ?」
「いや、もっと根本的な理由で。なりたいきっかけつうか、どこに憧れたの?」
「きっかけねえ……」
桜はそう呟くと椅子から立ち上がり、考え込むように腕組みをしたまま、ゆっくりとした足取りで歩いていた。外からはドア越しに吹奏楽部の演奏が流れ込んでくる。途切れては戻り、同じパートを何度も繰り返し練習していた。沈黙の間がいささか長すぎるように思い始めた時、不意に立ち止まり、俺の方を振り向いた。
「きっかけは〝黒澤七海〟。あんたかもねえ」
「俺?」
急に俺の名前を口にしたので、俺は自分の耳を疑った。よほど変な顔をしていたのだろう。唖然とした俺の顔を見て、桜が噴きだした。
「覚えている?昔、近くに住んでた時のこと」
「まあ……、お前、よく苛められていたな」
暗く俯き、痩せた少女の姿が脳裏に浮かぶ。
思い出すのはやっぱりそこかと、桜は苦笑いをした。
「あまり良い思い出じゃないけど、この際、仕方ないかな」
「……」
植松家に引き取られるまで、桜は近所のアパートに親子二人で暮らしていた。
当主・植松義政の愛人である桜の母親は美しかったが、子ども心ながらにカゲロウのように頼りなく、実際に何の生活力も無い女性だった。家事もまともにできないため、仕送りも充分あったはずなのに、桜の衣服は皺だらけでやけにみすぼらしかったという記憶がある。町の民生委員を務めていた母親が、見るにみかねて、家に連れて来て夕飯を食べさせたり、風呂に入らせたりしたものだった。
桜の母親も面倒を見なくて済むからか、何も言ってこなかった。
近所の家庭でも親から何か言われていたのだろう。友達もおらず、同性からも嫌われ、遊び相手といったらいつも抱きかかえていた薄汚い犬の人形くらいだった。そんな桜が悪ガキの標的になるのは明白で、桜が転校するまで誰かに泣かされている姿を見ない日はなかったように思う。
「でも、俺はほとんど返り討ちに遭って、実際に助けに入ったのは近所の大人だろ」
「相手が年長者でも喧嘩自慢の子でも、最後まで喰らいついていたじゃない」
「何にも考えてないだけだって」
そこが私には真似できないなと桜が言った。
「この間も、小倉さんを助けるために、不良相手に一人でいってさ。ホントに変わらないわよね」
「……」
「私、向こうでも苛められて、誰も助けてくれなかった。あの学校には〝黒澤七海〟はいなかったのよ」
「……」
向こうとは転校先の小学校を指すのだろう。
桜の表情に陰鬱な影がさす。桜は四年生に上がる際に、問題の多かった母親とともに植松家に引き取られ転校していった。転校以前の思い出は良い思い出じゃないと言いつつ、どこか懐かしさも混ざったような口ぶりで話すが、よほど辛い過去だったのだろう。卒業までの三年間の出来事を滅多に口にしなかった。
空手を習い始めたのもその時期と重なるので、自然と転校先の3年間に触れることにもなる。
「七海に何度も電話しようと思ってた。電話したらすぐ駈けつけて助けに来てくれるんじゃないかってね。でも、物理的に無理な話だし、根本的な解決にならないしね」
空になったペットボトルを弄びながら、桜が言った。
「だから、自分で何とかするしかなかった。それは頭ではわかっていたけれど、七海みたいにぶつかっていく勇気も無くて、どうしたらいいかわからなかった。どうしようもなくて、仮病つかって休むようになっちゃった。毎日、ぼんやりテレビを眺めてた。どれくらい休んでいたのかな?ある時、昔のカンフー映画がながれてたの。それがジャッキー・チェンの映画」
「……」
「苛められっ子の主人公が修行してどんどん強くなって、ラスボスを自力で倒しちゃうんだもの。当時の私には強烈だったわよ。映画を観終わったらパジャマのまま庭に飛び出してね。映画でやってたことを真似して跳ねまわって泥だらけになってさ。その日のうちに家の人にカンフーを習いたいとせがんで……。それで人の紹介で今の道場に通い出したの。空手と言っても、実質は総合格闘技だし、私がイメージしてたのとは随分違っていたけれど。……女の子なのに、こういうの変かな?」
桜が言った家の人とは実父の植松義政のことだろう。父親の名前を出す時、桜はいつも〝家の人〟と言う。
「いや、ちっともおかしくはないよ」
照れて頬を赤く染める桜だったが、俺は茶化す気など少しも起きなかった。
立ち直るきっかけなんて人それぞれだ。ちっとも変じゃない。
立ち直ろうとする奴を、前進しようする奴を笑う奴がいれば、そんな奴らこそ使い魔に喰われちまえばいい。
「それから色んな作品もみるようになって、ブルース・リーかっこいいなとか思ううちに、誰かにそう思わせるような仕事をやってみたいなと思うようになったのよ。昔の私みたいに、誰かの生き方を変えたり勇気づけられるような。そんな人になりたいと思ったの」
「……」
「それが、私がアクション俳優を目指す理由。納得した?」
「お前も一人で大変だったんだな」
「そうねえ。あとで抵抗したらしたで、今度は乱暴者扱いにされて学校に居場所がなくなっちゃったし、あそこは碌なことがなかったな」
桜は努めて明るく振る舞っているように見えたが、その目は笑っておらず、暗く澱んでいる。その口調から小学校の話はこれ以上、触れて欲しくはなさそうにも聞えた。
俺は話題の方向を少し変えることにした。
「……なら、進路は演劇中心でいくのか?」
「そうねえ。立志館が第一志望かな。有名なサークルが幾つかあるし、演劇学科もあるからね」
「東京かあ。スゲえなあ」
夢に向かって進もうとする目の前にいる女の子が、本当にあの泣き虫だった少女なのだろうかと訝しむような気持ちで桜を見上げた。
「七海はどうするの?」
地元の成倉大だと俺は言った。
「七海の成績なら、もう少し上を目指せるんじゃないの?」
「先生にも言われたけど、家計を考えると無理できないからな。親父を残して家を離れるのも抵抗があるし」
話を聞いて、俺のおふくろのことを思い出したのだろう。そうと言って気まずそうに目を伏せた。そんな桜の表情を見ていると、胸の内にちくりと疼きを感じた。
理由が親父とか家計だとかは真実ではなく、多少の嘘が混じっているからだ。
最近、写真部の部長が地元でプロ活動をしているOBに誘われていて、卒業と同時に助手として働くことが確定している。
小倉もその話に強い関心を持っていて、部長経由でアプローチを掛けているという。小倉本人としては部長目当てなのだろうが、俺達にとって大事なのは「小倉が地元に残る」ということだ。小倉の能力の秘密が解明されていない以上、彼女を放っておくわけにもいかず、そのためには彼女の動向を把握することができる場所にいなければならない。
小心翼々とした青春や束縛された人生に溜息をつかずにはおれないが、全ては小倉のため、ジュエルを守るため、生き残るために選ぶしかない道だった。
「……じゃあ、高校卒業したら、今度こそ別々だね」
そうだなと俺は言った。
「お前が東京行くなら、幼稚園からの腐れ縁もこれで仕舞いかな?」
「やっぱ……、そうなるのかなあ?」
桜はもの憂い手つきで髪をかきあげた。暑さで額から細かな汗がにじんでいる。額に張りついた前髪が気になったからだろうが、その仕草がやけに色っぽいと思えた。
「……あのさ」
「ん?」
「もうひとつ話さなきゃいけないことがあるの」
「へえ、何?」
「私ね、婚約者がいるの」
「え?」




