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事件

 そんな幸福感に満ちた翌朝、俺は大遅刻をしていた。

 自転車を全速力で漕ぎまわし、60キロ程度の車両はあっという間に追い越して行く。

 エアコンという機械は大変便利なもので、どんなに寝苦しい夜でも快適な空間を与えてくれる世界で最も偉大な発明品のひとつだと思っている。昨晩、何となく蒸してきたのでアルの小言を無視してエアコンをつけて寝たのだが、あまりに快適過ぎて、気がついたら始業まであと10分という時刻を時計の針が告げていた。

 親父は朝早く出勤するから仕方ない。俺はアルに腹を立てていた。


「なんで起してくれないのかなあ、アルさんはよ!」

『人の忠告を無視するからだ。人は痛い経験をして成長する生きものだ。それに若い時の苦労は買ってでもしろと言うだろ?』

「こんな苦労、何にもならねえよ」


 俺は前後左右を素早く見渡し、道路を横断した。

 守護者ガーディアンに変身すればあっという間なのだが、昼間じゃ目立つからとアルが許可してくれない。

 だが、と思うんだが、こっちの方が目立ってないか?


「これで事故起したらどうすんだよ!」

『お前の反射神経と動体視力なら問題ない。この調子なら授業までにはぎりぎり間に合うはずだ』

「んなろ……!」


 俺は舌打ちして、ペダルに力を込めた。前には乱暴に蛇行して車両を次々に追い抜いていくスポーツカーが走っている。運転手は頭の悪そうな四〇くらいの親父だったが、はっきりいってのろいし邪魔なので、俺は脇から一気に追い越していくと何故か急にスピンして停車するのが目の端に映った。

 全速力でとばしたのが功を奏したのか、学校付近の路地に差し掛かると、俺と同じ様に慌てふためいて掛けて行く生徒達の姿がちらほら見えるようになってきたので、俺は自転車の速度をゆるめて校門へと向かった。


「間に合ったか……」


 俺はほっとして校門をくぐったのだが、異様な雰囲気が学校に充満しているのに気がついた。本来ならホームルームのために閑散としているはずの敷地に、やけに生徒が溢れている。彼らはある一方向を見、あるいは向かっていた。方向からして旧校舎だ。


「なにかな、アル?」

『駐輪場も向こうだし、とりあえず行ってみよう』


 俺たちは生徒達の流れに紛れて旧校舎へと向かった。

 旧校舎前の敷地にたどり着くと、パトカーや警察のバイクなどが数台止まっているのが見えてきた。他にも車両が止まっていたが、明らかに警察関係らしい人間が何か無線でやりとりしている。旧校舎を警察が忙しく出入りし、集まった生徒達は物珍し気に彼らを取り囲むようにして見物していた。

 俺は駐輪場に自転車を置くと、誰か見知った顔はいないかと見渡すと、人の群れのなかで心配そうに旧校舎を見つめる坪井の顔が目に映った。俺は野次馬を掻き分け坪井に声を掛けた。


「おい、何があったんだ」

「やられたよ」

「やられた?何が」

「写真部、部室も機材も滅茶苦茶に壊されたらしい。警察が見分やってる」


 それだけで誰の仕業か、すぐに思い当たった。


「……井上か」

「たぶんな。これまでの仕返しだろうよ」

「小倉さん達、どうしてる?」


 あそこだと坪井は後ろを振り向き、あごで示した。校舎の隅で泣きじゃくる小倉を桜が慰めていた。泣いているのは小倉だけではない。同じクラスの小島も他の部員も悔しそうに泣いている。ただ一人、部長だけがまっすぐに立ち、口を固く結んだままじっと旧校舎を見つめていた。

 怒りはあった。

 だけど、それは火のように荒れ狂う怒りではなく、刃のように冷たく静かな怒りが俺のなかで生じていた。奇妙なことに笑みさえこぼれてくる。


「井上は学校に来てるのか?」


 いやと言って、坪井は口をつぐんだ。

 未知の生物に遭遇したような顔つきで俺をまじまじと見つめている。例の〝スゲエ怖い顔″というのが今出ているのだろう。坪井の喉仏が上下に動き、戸惑った様子で口を開いた。


「ここにもいないし、来てないと思うけど」

「そうか」


 俺は踵を返して校門へと向かって歩き始めた。どこに行くんだよという坪井の声にも返答しなかった。既に〝魔眼″を発動させて井上の位置を探っている。松岡市に気配を感じる。おそらく自宅で寝ているのだろう。


『七海、まさかお前、井上のところに行くんじゃあるまいな』


 俺の魔力に反応して、肩に掛けた鞄に提げられたアルが俺に囁く。


「当たり前だろ。奴らがやったに決まってんだからよ」

『証拠は? 証拠はあるのか?』

「アルもくだらねえこと言うんだな。そんなもん、痛めつけて吐かせれば済むことだろう。あんな野郎、ちょっと痛めつければすぐに弱音を吐くだろ」

『だが、もしも違っていたらどうするんだ? 吐かせて、証言と捜査の内容が食い違っていたらどうするんだ?』

「そんなわけだろ。やつらに決まっている」

『かもしれんな。九九パーセント、井上が怪しい。だが、もしも。もしものことを考えろ』

「……」

『それにな』

「なんだよ?」

『まだ気がつかないのか。いいから、深呼吸して気を落ち着かせてみろ』

「……」


 突然何を言い出すのかと釈然としなかったが、アルはこんな時にはぐらかすような奴ではない。俺はアルの言われるまま、深呼吸して気を静めることに集中してみた。苛立ちや怒りといった感情が去ると同時に、禍々しい魔力が入れ替わるようにして俺の身体に伝わってくる。


「使い魔……」

『そうだ。井上なんかに関わっている場合じゃない。俺たちは俺たちでやることがある。それに力を使って解決しても、満足できるのはお前だけなんじゃないか』

「どういうこったよ?」

『お前は小倉たちへの同情よりも、井上に腹を立てているんだろ?』

「……」

『俺たちはジュエルを守ることと、使い魔とその使い手を倒すためにある。お前は使い手への復讐。正体も掴めていないし力も強大だ。この世に井上のような人間はゴマンといるし、この種の事件やトラブルも数え切れないほどある。お前が気に入らない人間は腐るほどいる。お前はその事件に寄り道して、ひとつひとつ首を突っ込んで気に入らない奴を叩きのめすつもりか?』

「……」

『井上の相手は人間たちでできる。だが、使い魔を相手できるのは俺たちしかいないんだ』


 アルの俺の痛い部分を指摘していた。

 満足できるのはお前だけなんじゃないか、と。

 小倉への同情よりも、力を使って良い気になっている井上という連中の存在に腹を立てていて、写真部の件を口実にしてぶちのめしてやりたいというのは俺の中にあるのは否めない。アルに言われてみれば所詮はエゴで傲慢な考えでしかないのかもしれない。


「……わかったよ、アル」

『いいんだ。それよりも気持ちを切り返よう』


 俺は重いため息をつくと、重い足取りで人目につかないよう、校門の外へと向かった。



 それから一週間後、事件は急展開をし、警察によって井上を検挙する形で幕を迎えた。

 決め手は写真部の部長だった。

 あの写真部の部長がどうやったのか、一週間学校を休み、町を練り歩き、事件に関する証拠を全て取りそろえ、警察に提出したのである。物的にも状況的にも井上に逃れる術を与えず、警察の取り調べに何の言い逃れもできなかったという。


「ウソだろ?」


 俺はそれを桜から聞いた時、思わずついた言葉がそれだった。


「すごいよねえ、漫画とかドラマの探偵みたい」


 桜はしきりに感心した様子でうなずいたものだったが、部長も何かの能力者なのだろうかと疑うしかなかった。

 どんな魔法を使ったのだろうかと。

 だが、彼は何の変哲もないただの人間だった。部長の足で、目で、頭で井上を追い詰めたのだ。アルには納得した形で言ったものの、俺は事件が解決するまでには、もっと時間を要するか、結局捕らえられないまま終わるのだろうと考えていたのだ。

 だが、部長は一週間で終わらせてみせた。暴力に頼らない自身の知恵で。

 本当ならもっと喜んでも良いはずだ。部長に感心しても良いはずだ。

 だがそうではなく、俺には到底真似できないことだと、部長に嫉妬や敗北感に近いものを味わっていた。


 その後、井上らは再び停学処分となって事件は解決し、いつもの平穏な日常の世界が俺たちに戻ってきた。


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