ep.6 『父の書斎』
高さ、五メートル程のケヤキの上に作られたケールの父、バージルの書斎は、バージルの祖父、ホレンソーンが約百七十五年前に建てた、檜造りの小さな一間である。
第三守護代家・イージョク家の歴史や、家系図などが所狭しと積み上げられ、本棚にはバージルが書き記した数多の魔物教本や五属性魔法書、封印結界書そして、ゼネラリが書き記したロードウッド族の掟の原本が大切に保管されていた。
その書斎全体をケヤキの葉が覆い隠し、心地よい風を運んで来る。
「―――懐かしいな、暫く上ってなかったか」
ケールは、子供の頃によく父の執筆の邪魔をして、怒られていた日の事を思い出した。
鴉の羽と朱墨を使い、シンダーリン文字を達筆に書く父の背中が、瞳の裏で今でも映し出される。
十段ほどの梯子を登ると、扉を上にゆっくり押し開けて、静かに部屋に上った。
部屋の隅にある、小さな藁の簡易ベッドの中で、赤子が目を覚まして起きていた。
「まずい…起きてるじゃないか」
赤子の視界に入らないように机に向かい、終えたばかりの全満月の記録を、バージルと同じ物を使って書き始めると、
「―――アー ダー バアアアア!」
ケールが立てる小気味良い鴉の羽の音で、静かにしていた赤子が、突然愚図り出した。
「―――アー ナー」
「やばいな。どうすれば…レピンは湖だし、ルピンは出産直後だし、隊長は居ないし」
「ヒャアーア」
ケールが慌てふためいていると、赤子が小さな手をケールに向けて振っているように見えた。
「―――アー」
「俺は何を恐れているんだ…」自分の頭をコツンとこぶしで軽く小突き、
赤子を抱き上げて、頬に棒でも入っているような笑顔で
「やあ、起きたかい 怖くないよ」
と真面目に言った。
赤子は不思議そうな顔をしてケールを眺め
「ンーアダッタアア」と真面目に答えた様に見えた。
「お腹空いているかい?」
何もここには無いのに無駄な事を聞くケールだった。
すると、赤子は上から下までケールを観察する様に見回した。
ケールは、少々興奮気味の赤子の体を調べようと、巻いてあった青い布を外し、
自分の髪を結うと、マントラを使って赤子の生体機能を調べ始めた。
突然、赤子が暴れ始め集中出来ず【ベイビーホールド】の魔法を唱え、その場に浮かせた。
「バアアブウウ」
辺りをキョロキョロ見廻す赤子はもはや、興奮の坩堝状態であった。
赤子は、その小さな手を握り締め天にかざすと、勢い良く突き上げた。
「ダアアアアアアアアアアアア」
すると、扉が開きレピンが部屋に上って来た。
「あら、起きてたんですね」「おお、どうした? 何かあったか?」
「いいえ、忘れ物を取りに来たついでに様子を見に来ただけですわ」
レピンは籠いっぱいに摘んだ色取り取りの花を入れて持っていた。
「ああ、俺が起したかも知れん。赤子の体には異常は無い。普通の男の子だ」
そう言ってケールは、赤子をレピンに手渡した。
「お腹が空いてるやも知れん。満腹にしてあげてくれ」
「分かりましたわ」レピンはにっこり笑って赤子を見た。
「モエエエッ」
赤子はとても興奮状態で、体を上下させながら意味不明な言葉を並べていた
「オパーイ ラーッ ワショーイ ラーッ」
赤子の顔を見ていたレピンが
「あら、この額の傷…どこかで見た事があるような」
「ん? お前知っているのか?」ケールは全満月の記録の続きを書きながら振り返りレピンに聞いた。
「ええ、王都で確か…… んー、思い出せませんわ。ごめんなさい」「まぁ、いい。その内思い出すだろう」
「アー ダッ アー ヤッ」赤子は手を顔の前で十字に切って何か言っていた。
「はいはい、すぐお腹いっぱいにしてあげますからね」
レピンは赤子を藁のベッドに戻し呪文を唱え始めた。
「豊穣なる大地に実りし糧よ 我が魔道に宿りて汝の恩恵を賜わんとす 貧しき御心を充たし給え 【マインドフィード】」
赤子の頭全体を黄金色の光で包み込み、虹色の放射状の光が赤子の頭の中に吸い込まれていった。
そのまま赤子はぐっすり寝始めた。
「ふぅー。起きた時にはどうしようかと。ありがとう」
ケールが記録を書き終え、レピンの背中に後から抱きついた。
レピンが振り返ると、二人はいつしか無言で見つめあい、自然と唇が重なり合った。
そのまま床に寝転んだ二人だったが、小枝は反応せずケールは、どっと疲れが出てすぐに眠ってしまった。
「くすっ」
レピンはそっと寝かせ離れを後にした。