真夜中に優雅な休息を
「こんばんは」
すぐ後ろから聞こえた声に、私は一切の反応を示さずに歩き続けた。
辺りは真っ暗だ。真っ暗闇。ほぼ円形に近い月の明かりだけが頼りで、他には街灯一つ存在しない。
いつの間に夜になったのだろう。それに、月の位置と、周囲の暗さから判断するに、真夜中と表現していい頃だと考えられる。辺りに存在しているどの家も明かり一つ付いてはいなかった。つまり、ずいぶんと長い時間、こうして歩いていることになる。
ふわりと懐かしい香りが漂ってくる。香水の匂いだ。誰かが好きだった香水の匂い。私ではなく、親しい誰か。でも、その誰かを思い出すことが、私にはできなかった。確か、その誰かは、この香水の香りが好きだった。だけどそれを付けていたのは、また別の誰か。そこまでしか思い出せない。思い出すことを、私自身が拒否しているかの様だった。
気を紛らわすために、鞄の中から煙草を取り出し、鉄製の安っぽいライタで火を付ける。真っ暗な街中に、新しい明かりが灯った瞬間だった。
深く吸い込んだ煙を、緩やかに吐き出す。しばらく肺に迷い込んでいた煙は、口から外へと脱出し、私の後ろへと流れていった。きっと、風に乗ってどこかへ消えていっただろう。
もしかしたら、私も煙のように、どこかへ迷い込んだのかもしれない。なにせ、今頃気が付いたが、見たこともない街なのだ。それならば、煙と同じように消えてしまうのも良いと思う。
煙草の煙が目に染みた。香水の香りはまだ漂っている。もしかすると、煙草程度で誤魔化せるものではなかったのかもしれない。泣きたいわけでもないのに、目を閉じた瞬間、頬を涙が伝った。
たまには、こんな夜も良いのかもしれない。物思いに耽る、真夜中。私という存在を隠してくれそうな、この真っ暗な夜に楽しむ休息。
空は真っ暗なのに、気持ちは少し晴れやかになった。帰り方もわからないのに、全くもって可笑しな話だ。
「さようなら」
声の主は、私の耳元で優しく囁いた。