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水の流れる石と、白い花

作者: 本棚
掲載日:2026/11/06

 五時四十分に目が覚めた。アラームが鳴る二十分前で、この二年だいたい毎朝そうだった。体のほうが先に起きるようになったらしい。


 下りていくと、台所で母が麦茶を作っていた。やかんの底が流しにあたる音と、冷蔵庫の開く音。それだけで朝だと分かる。


「今日も流してくるん」


 背中越しにそう言われた。質問の形をしているけれど、母は返事を待たない。わたしがうん、と言い終わらないうちに、トースターの中がもう焦げとるかもしれん、と別の話をしている。


 帰ってきたら、今度は「今日も流してきたん」と言うのだ。行きと帰りで語尾がひとつ変わるだけで、あとは全部同じ。二年も同じことを聞かれていると、聞かれていること自体が家のにおいみたいになる。


 麦茶を一杯だけ飲んで、トーストは半分持って家を出た。


 道端で花を探しながら歩く。買った花は持っていかない、ということになっている。自分の手で摘んだものでないと駄目で、しかも一日に一輪。誰が決めたのか知らないけれど、この町ではそういうことになっていて、わたしはそれを疑ったことがない。疑わずに済むから続けてこられた、というほうが正しいのかもしれない。


 今日はドクダミにした。ブロック塀と側溝のあいだの日の当たらないところにいくらでも生えている。白いところは花びらではないと理科で習った気がするけれど、白ければ何でもいいことになっているので気にしない。十円玉くらいの大きさで、真ん中に薄い黄色の穂が立っている。摘むと指ににおいが残る。


 摘む場所で花が変わるから、その日の花を見ればわたしがどの道を通ってきたか分かる。分かる人がいるとすれば、の話だけれど。


 橋を渡る。


 この町は川で二つに割れていて、わたしの家は下流側にある。学校も、コンビニも、湊の家も下流側だ。上流側は古い集落で、道が細くて、家の玄関に長靴が二足も三足も並んでいる。ブロック塀には増水線の跡が残っていて、大人はその高さで昔の年を言う。あれは五十八年の、とか、そんなふうに。


 橋の上でいつも少しだけ足が速くなる。渡り切ってしまえば、あとは決まった道だ。


 岩は、橋から上流へ五分ほど歩いたところにある。川床が広くなって、水が一枚に薄くなる場所。ガードレールの切れ目から降りて、スニーカーのまま水に入る。ここは深くない。この町の人間なら誰でも知っている。


 水は浅い。指を立てても第一関節までしか沈まないくらいで、その薄さの上を水だけが広がって流れている。表面に細かいしわが何重にも寄って、朝の光をちぎれちぎれに切っている。石は黒と赤黒と白の粒が混ざった花崗岩で、ところどころに青い苔がこびりついている。手をつけば、ざらざらとぬるりが一度に返ってくる。


 流れているのに、音がほとんどしない。落ちる場所がないからだ。耳を近づけてやっと布をすべらせるくらいの音がする。


 しゃがんで、ドクダミを水の上に置いた。


 手は合わせない。声も出さない。声に出したものは持っていかない、と教わっている。だから思うだけにする。思うだけなら、二年間ずっとやってきた。


 置いたら、すぐ背を向ける。川の方は見ない。ガードレールの切れ目だけを見て上がる。


 なのに今日は五歩あるいたところで振り返ってしまった。


 花があった。


 流れていない。石のごく浅いくぼみに縁を引っかけて、その上を水だけがなでて通っていく。白いところが少し反って、真ん中の黄色がそこだけ体温を持っているみたいに見えた。


 最初は、まだ置いたばかりだからだと思った。いつも手を離れてから少し間があって、それからゆっくり動き出す。だから待った。


 五分待った。


 十分待った。


 しゃがんだままだと膝が痛くなって、一度立ち上がって、またしゃがんだ。水は流れている。花は動かない。二年間この二つが同時に成り立ったことは一度もなかった。


 母になんて言おうと思った。何も思いつかなかった。流してきたん、と聞かれて、うん、と答えなかったことが一度もないことに、このとき初めて気がついた。


 陽菜、と思った。思ってしまってから、思うだけなら手順のうちだ、と自分に言い聞かせた。陽菜は、二年前にこの場所で亡くなった。


 立ち上がった。花は、まだそこにあった。


 翌朝、花は二輪になった。


 昨日のドクダミは白いところが茶色く縮んで、石のくぼみの同じ場所にへばりついていた。一日でこんなに小さくなるものなのかと思った。その横に今朝摘んできたムクゲを置いた。


 今度は十分も待たなかった。待たなくても分かった。


 三日目も、四日目も同じだった。古い花がしなびて、新しい花がその横に止まる。並べて置いた覚えはないのに、花は勝手に並んでいった。列になっていくのを見ていると、これは増えているのではなく残されているのだと思った。


 四日目の朝に、杉本さんがいた。


 岩の周りの草を刈っている。この人は花番と呼ばれていて、といってもお坊さんでも神主さんでもない。草を刈って詰まった枝を取るだけの役だ。白いタオルを首に掛けて、長靴で水に入っていた。


「おはようございます」

「おう」


 しばらく黙っていて、それから言った。


「花が、流れんです」


 杉本さんは手を止めなかった。草を刈る音が二回して、それから今年は水が細いなあ、と言った。


「梅雨が短かったやろ。上の方も、こんなもんや。水が細いと、そこらへんで引っかかるやろ」

「二年、いっぺんもなかったんです」

「落ち葉がたまっとる年もあるしな。石も年々削れとるし、くぼみが深なったんと違うか」


 すべてもっともだった。もっともすぎて反論を思いつくことができなかった。


 でもわたしが知りたいのはそこじゃないと思って、思ってから、じゃあどこなのかと自分でも分からなくなった。花が止まっている理由を聞きたいのではない。止まっていることの意味を聞きたいのだ。けれどそれは口に出せば、だいぶ変なことを言っていることになる。


「あの、こういうときって、どうしたらいいんですか」


 杉本さんは、そこで手を止めた。けれどこちらは見なかった。刈った草を両手で抱えて川床の上の方に放りながら、こう言った。


「わしは草を刈るだけや」


 それで終わりだった。


 学校で、湊に話した。なぜ話したのか分からない。一限目の前の不意に静かになった数秒に、口が勝手に動いた。


「え、まじで」


 湊は体ごとこっちを向いて、声を少し大きくした。


「いやそれ、たたられとるやん。神社行ったほうがええんと違う?あそこ、おはらいとかやっとるやろ」


 わたしは笑った。


 自分でもびっくりするくらい、ちゃんと笑えた。声の大きさも、顔の動かし方も、こういうときにこうするといいというのを体が先に覚えている。二年前からずっとそうだ。


 湊は悪くない。この子は重い話になりそうなところに先回りで冗談を置いてくれるだけだ。二年前、それにどれだけ助けられたか分からない。ただ、助けられた分だけ、話せなくなった。


 放課後、橋を渡った。


 朝と同じ道を、朝より少し先まで歩いた。岩のところを通りすぎて、集落の中に入る。道が細くなって、家と家のあいだから川の音がしなくなる。


 七尾の家は、角を一つ曲がったところにある。


 曲がらなかった。


 角の手前で止まって、ブロック塀の向こうから蚊取り線香のにおいがしているのを確かめて、それで引き返した。これを二年やっている。回数は数えていない。数えていたらさすがにどこかで曲がっていたと思う。


 家に帰ると、台所から声がした。


「今日も流してきたん」

「うん」


 言ってから、手が止まった。


 流してはいない。置いてきただけだ。この四日間、わたしは花を流していない。でも母は返事を待たないし、確かめもしない。麦茶のボトルを冷蔵庫に戻しながら、明日ゴミやし、と言っている。


 この家では、わたしのうんは一度も確かめられたことがない。確かめられないから、嘘にもならない。


 部屋に上がって、電気をつけずに座った。


 杉本さんの言うことは全部正しいと思う。水が細い。落ち葉がたまっている。くぼみが深くなった。そういう理由はいくらでもあるし、どれも本当だろう。


 でも二年間は流れたのだ。


 冬は庭に咲く白い椿や、近所の人が摘んでいいと言ってくれた花を持っていった。


 水が太い日も、落ち葉の多い日も、台風の次の日も、雪の降った朝も、花はちゃんと行ったものだと思っていた。背を向けていたから、見届けたわけではない。行ったと思えたから、届いていると思っていいことにしていた。確かめないことを、手順の一部にしていた。


 その手順が今週になって急に使えなくなった。


 花は持っていってもらえていたのではなくて、受け取ってもらっていたのだ。そして今、それが止まっている。


 流れないのではない。受け取られていないのだと思った。

 カーテンの隙間が暗くなっていく。電気は、つけなかった。


 五日目の朝は、目が覚めた時点でもう決まっていたのだと思う。決めた覚えはない。ただ、いつもより五分早く目が開いて、天井を見ながら今日はどうにかなる、と考えていた。どうにか、が何を指しているのかは考えなかった。


 花は塀まで行かずに摘んだ。


 側溝のふちに生えているヒメジョオンで、白いところが細くて真ん中の黄色ばかりが目につく。誰かに踏まれたのか、途中で折れかけている一輪だった。手を伸ばして、引いて、それだけだ。においも確かめていない。白ければいい、と思った。折れかけていても、もう気にならなかった。


 橋を渡って、上流へ五分。ガードレールの切れ目から降りて、スニーカーのまま水に入る。


 花は四輪あった。いちばん古いのは色がなくなって、石の色と見分けがつかない。その隣に五つ目を置く。手は合わせない。声も出さない。思うだけだ。


 ごめん、と思った。


 思う言葉が二年で短くなっている。最初の頃は長かった。あの日の順番を最初から並べて、どこで自分が間違えたかを一つずつ数えて、それから謝っていた。今は三文字で終わる。三文字で終わるようになったことを、慣れたと呼ぶのか、続いていると呼ぶのか、分からないままここまで来た。


 五歩下がって、振り返った。


 動かない。


 しゃがんだ。膝の裏が張って、水の音が急に近くなる。水面のしわが、朝の光を砕いている。花のふちがそのしわの上でわずかに震えていて、震えているのに進まない。


 手が出た。


 人差し指の先だけを水に入れた。冷たさは、爪の先で止まった。石に触れると、指の腹がすべった。苔だと分かった。その指を花のふちに当てた。


 押した。


 思ったより軽くて、思ったより簡単に動いた。今朝置いた花が、指一本で動いた。花はくるりと向きを変えて水に乗って、三メートルほど流れた。


 次の岩の、水の当たる面でつぶれた。


 白いところがほどけて繊維みたいになって、そのまま石に張りついた。


 一瞬、肩から力が抜けて、息が出た。それに気づいた瞬間に喉の奥がせり上がってきて、わたしは水に手をついた。


 流れた、と思ったのだ。


 自分で押しておいて。押したのだから流れるに決まっているのに、体のどこかが流れてくれた、と受け取ってしまった。


 川に届けてもらうのが手順だった。届いたかどうかは絶対に分からない、というのがこの町の決まりで、わたしはそれを二年守ってきた。買った花は使わない。代わりに置いてもらわない。声に出さない。全部守った。守ったつもりでいた。


 守っていなかったのは、いちばん大事な一つだけだ。


 分からないままにしておくこと。


 押した時点で、わたしは陽菜に届けたかったのではない。花がそこにあり続けるのが、耐えられなかっただけだ。毎朝、今日も済ませた、を作るために川へ通っていた。済ませたかった。終わらせたかった。二年間かけてわたしがしていたのは謝罪ではなくて、手続きだった。


 手を水につけて洗ったけれど、苔のぬめりは指の腹に残った気がした。


 その日のことはあまり覚えていない。授業は聞いていたはずで、湊が何か言って笑ったのも覚えているが、何を言ったかは思い出せない。家に帰って母の「今日も流してきたん」に、うん、と答えた。この日の、うん、では、自分で花を押したことを隠した。誰も確かめないので、そのまま夜になった。


 明日は行かない、と思って布団に入った。


 六日目の朝、花は摘まなかった。摘めなかった、の方が近い。手ぶらで橋を渡って上流へ五分歩いて、ガードレールの切れ目から降りた。何をしに来たのか自分でも分からなかった。つぶれた花を取るためかもしれないし、四輪がまだあるかを確かめるためかもしれない。


 四輪は、あった。


 次の岩に張りついていた繊維は、もうなかった。


 四輪の手前に、白い花が一輪あった。


 クチナシだった。今朝摘まれたばかりで、まだ張りがある。わたしが置いたものではない。


 それは、水の中になかった。


 岩の横の少し高くなった乾いた石の上に、真上から見て曲がらないように置いてあった。水は当たらない。日が昇れば乾いてしまう場所だ。


 顔を上げると、上流の方に杉本さんの背中があった。長靴で水の中を歩いて詰まった枝を拾いながら、少しずつ遠ざかっていく。こちらは見なかった。振り返らなかった。声もかけてこなかった。


 わたしは乾いた石の上のクチナシをしばらく見ていた。


 流すための花ではない。流れるかどうかを試すための花でもない。流れないと分かっている場所に、わざわざ置かれた花だ。


 杉本さんは何も言わなかった。クチナシは、水から一歩ぶん離れた石の上で、まだ白かった。


 七日目も、わたしは花を摘まなかった。二日続けてだった。


 決心ではない。手が動かなかっただけだ。塀のムクゲの前で立ち止まって、枝に手を伸ばして、そのまま下ろした。摘んでどうするのかが分からなかった。乾いた石の上に置くのか、水に置くのか、置いたあとで押すのか。どれも選べないなら、摘む理由がない。


 手ぶらだと、朝が長い。


 五時四十分に目が覚めるのは変わらなかった。麦茶を一杯飲んで、トーストを半分残して、六時十分に家を出るのも変わらない。変わったのは、持つものがないぶん手が余ることだけだった。指を軽く握って歩いた。歩きながらこれまで自分がどれだけ両手をふさいでいたかが分かった。花を一輪持っているというだけで、朝は用事になる。


 橋を渡って、岩のところは通りすぎた。


 見なかった。見ないようにした、というより、見たら乾いた石の上のクチナシがどうなっているか確かめてしまう。あれは昨日置かれたものだから、もう茶色くなっているはずだ。杉本さんが今朝また置いたかどうかも知りたくなかった。知ってしまうと、返事が続いていることになる。


 集落の中を歩いた。


 用があるわけではない。角は曲がらない。曲がらないと決めているから、道は途中で行き止まりになるようなものだ。それでもゆっくり歩いていたら、七尾の家へ曲がる角より手前の家で、水をまいている人がいた。ホースではなく緑のバケツとひしゃくで、道の土に水をかけている。腰の曲がった小さな人だった。


「おはようございます」

「おはようさん」


 通りすぎようとしたら、こっちを見て少し首を伸ばした。


「あんた、芹沢さんとこの子やろ」


 立ち止まってしまった。


 この町では名前を当てられることは珍しくない。珍しくないのに、上流でそれをされたのは初めてだった。はい、と答えると、その人はひしゃくを持ったまま朝から暑いなあ、と言って、それから急にこう続けた。


「ヒナちゃんの、友達やった子やな」


 水の音がしていた。土に染みる音だった。


「……はい」

「堤からやと、岩のとこが見えるんよ。あんたが毎朝おりとる」


 見られている。二年間、毎朝、誰かに見られていた。その当たり前のことに今まで気づかなかった。わたしはずっとあの手順を自分と川だけの話だと思っていた。


 その人はバケツの水をもう一杯すくって、ぱしゃりと道にかけた。


「あの日な」


 何の前置きもなかった。


「ヒナちゃんが言うとったよ。あんたは先に、橋の方へ行ったんやて。ヒナちゃんはな、いっぺん、堤のとこまで上がっとったよ」

「……上がって、ました?」

「上がっとった。帰りよったんよ、あの子も。うちが声かけたら、手ぇ振ってな」


 手が冷たくなった。夏の朝に指先だけが冷えるということがある。


「そんで、ちょっとしてから、また下りていったわ。石の上に、貸した本が残っとるんやって言うてな」


 その人はバケツを地面に置いた。


「あんたも知っとると思っとったんやけどな」


 本が残っとる、という話をその人はごく軽く言った。


 言い終わると、その人はまたひしゃくをバケツに入れた。水が土に染みる音がさっきと同じ間隔で続いた。


 わたしは頭を下げて歩き出した。何を言ったのか覚えていない。ありがとうございます、と言った気もするし、言っていない気もする。


 集落を抜けて橋の手前まで来て、そこで止まった。


 あの日、わたしは先に堤を上がった。


 陽菜は、帰ってこなかった。


 帰りかけていた。


 陽菜は、堤の上まで上がって、道に出て、手を振って、帰ろうとしていた。つまりわたしが「先に帰ろ」と言ったとき、陽菜はちゃんとそうしたのだ。


 二年間、わたしはそこを謝ってきた。わたしが先に帰ろうと言わなければ、あの子はもっと長く川にいて、もっと上流まで行って、というふうに考えたことはない。逆だ。わたしが先に帰ろうと言ったから、あの子は急いで足を滑らせた。そう決めていた。決めていたから、順番も、言い方も、全部覚えていた。


 でも陽菜は、いったん上がっていた。


 上がってから、下りた。


 わたしに貸した本を、石の上に忘れたから。


 橋の欄干に手を置いて、下の水を見ていた。上流から下流へ細い水が動いている。そのあいだに、一つずつ戻ってきた。


 あの日、水に入る前に鞄から出して石の上に置いたものがある。


 文庫本だ。


 陽菜が貸してくれた本だった。カバーはかかっていなくて、表紙の角が丸くなっていて、しおりのひもが半分より手前に挟まったままだった。わたしは一ページも読んでいなかった。読むつもりはあった。ずっとあった。鞄に入れて三週間、入れたまま持ち歩いていただけだ。


 あの日、水に入るときに濡らしたら悪いと思って石の上に置いた。それだけは覚えている。それから置いたことを忘れて、先に帰ろ、と言って堤を上がった。


 陽菜は、それを取りに戻った。


 自分の本だから。まだ返してもらっていない、貸したままの本だから。濡らしたくなかっただけだ。夕立が来ていた。水は朝より少しだけ太くなっていた。


 学校で、湊に話した。


 昼休みの、教室の後ろの窓のところだった。話すつもりはなかったのに、口が動いた。この一週間わたしの口は勝手に動いてばかりいる。


「本?」


 湊は最初、聞き返した。それから笑おうとした。


「いや、それって——」


 言いかけて、こっちを見て、そこで止まった。息を吸って、吐いて、口を閉じた。冗談が一つ、途中で引っ込むのが分かった。湊がそんなふうに黙るのを見たのは、二年前のあの週以来だった。


「……ごめん」

「なんで湊が謝るん」

「わからん」


 わからん、と言ったまま、湊はしばらく窓の外を見ていた。グラウンドで誰かが走っていた。


 わたしは、笑わなかった。合わせて笑うこともできたし、たぶんそうするべきだった。でもこのときは顔が動かなかった。


 家に帰って、本棚を見た。


 ない。当たり前だ。あの本はわたしの家にはない。石の上に置いてきて、それきりだ。あのあと誰かが拾ったのか、水に持っていかれたのか、わたしは一度も確かめていない。


 借りた本を、返していない。


 書名も思い出せない。表紙の色は覚えている。しおりのひもの位置も覚えている。半分より手前だった。あの子はまだ読んでいる途中で、わたしに貸したのだろう。読み終わっていない本を貸すというのは、そういうことだ。


 先に帰ろうと言ったこと。それを二年間、毎朝、水に置いてきた。


 川はちゃんと持っていってくれた。届いたかどうかは分からないけれど、少なくとも受け取ってはくれていた。受け取られていたから正しいのだと思っていた。


 違った。


 二年間、違うことを謝り続けていた。


 八日目の朝、五時四十分に目が覚めた。


 麦茶を一杯飲んだ。トーストは焼かなかった。塀のムクゲの前では今日は立ち止まりもしないだろうと思った。思ってしまったので、もう決まっていた。


 台所の背中に向かって、靴を履きながら言った。


「今日、行かん」


 母の手が止まった。


 二年で初めてだった。この家でわたしの返事が何かを止めたことは一度もない。麦茶のボトルを持ったまま、母は振り返った。何か聞かれると思った。どこ行くのとか、どうしたんとか。


 何も聞かなかった。


 ボトルを置いて、サンダルのつま先だけをひっかけて土間のところまで出てきた。そこに立ってわたしが靴のかかとを直すのを見ていた。


「いってらっしゃい」


 それだけだった。けれど声が軽くなかった。


 橋の手前に、湊がいた。


 約束はしていない。昨日は何も言わなかったのに、ガードレールにもたれて立っていた。花がないのを確かめるようにわたしの手を一度見て、それから歩き出した。


「行くんやろ」


 うん、と答えた。


 上流へ向かう道を二人で歩いた。湊は何も言わなかった。冗談も言わなかった。


 岩のところは、今日も見なかった。見ないで通りすぎて、集落の中へ入った。道が細くなって、川の音がしなくなって、土のにおいとどこかの家のテレビの音がする。


 角の手前で湊が止まった。


「ここまでな」


 理由は言わなかった。ポケットに手を入れて、塀の方を見ている。二年間わたしがこの角で引き返していたことを、この子は知っていたのかもしれない。聞かなかった。


 角を曲がった。


 七尾の家は、思っていたより普通の家だった。ブロック塀。青いバケツ。長靴が二足、並んだまま。引き戸の横に蚊取り線香の入れ物が置いてあって、白い煙がまっすぐに上がっている。風がない。


 呼び鈴を押した。


 押してから指を離すのに少しかかった。中で音が鳴っているのが聞こえた。二回目は押さなかった。


 間があった。


 長かった。中で人が動く音がして、止まって、また動いて、引き戸が開いた。


 七尾さんだった。


 わたしの顔を見て、すぐに目をそらした。それからいつものを言った。


「もう、ええから」


 二年間で何度も聞いた言葉だった。道ですれ違ったときも、一周忌のときも、この人は同じことを言った。もう、ええから。これを言われると、わたしはいつも頭を下げて、それで終わりにしていた。終わらせてもらっていた。


 七尾さんは引き戸に手をかけた。


「花を、毎朝流してました」


 声が出た。


 出てしまった、ではない。出した。


 声に出した言葉は、二度と花に持たせられない。小さい頃から知っている。知っていて、言った。


 七尾さんは閉めかけた引き戸のところで手を止めていた。


 わたしは本の話をした。石の上に置いたこと。置いたのを忘れたこと。先に帰ろ、と言ったこと。一ページも読んでいなかったこと。順番はめちゃくちゃだったと思う。途中で一度、声が出なくなって、それでも最後に「ごめんなさい」と言った。何をどう言ったか、全部は覚えていない。覚えているのは、七尾さんが一度もうなずかなかったことだけだ。


 言い終わると、蚊取り線香の煙がまだまっすぐに上がっていた。


 七尾さんは、ちょっと待っとって、と言って奥へ入った。


 戻ってきたとき、手に本を持っていた。


 文庫本だった。カバーはかかっていない。一度濡れて乾いたものはこうなる、というふうに紙がふくらんで、背が割れて、もう閉じない。厚さが元の倍近くある。


 しおりのひもが、半分より手前に挟まっていた。


「これ、あんたのやろ」


 違います、と言いそうになった。陽菜の本だ。でも借りたままにしているのだから、今もわたしのものではある。


 どっちでもなかったと思う。七尾さんは、返すとも、受け取れとも言わなかった。ゆるすとも、ゆるさないとも言わなかった。そういう言葉は一つもなかった。


 本をこちらに持たせて、それから引き戸をもう少し開けてこう言った。


「暑いやろ。上がり」


 靴を脱いだ。


 中は暗くて、外よりすっとひんやりしていた。上がったところの端に座らされて、麦茶を出された。コップに水滴がついていた。ひざの上に閉じない本を置いていた。


 七尾さんは台所の方で何かしていた。背中ごしに、蚊取り線香、けむたないか、と言った。わたしは、大丈夫です、と答えた。


 その朝の川のことを、わたしは見ていない。たぶん杉本さんが長靴で入って、詰まった枝を拾って、草を刈っていただろう。誰かが置いた白い花が一輪、岩のところで一度くるりと回って、それから下流へ流れていったはずだ。この町では、それは毎日起きている。


 川のことは、もう誰も言わなかった。町は明日も「流しといで」と言う。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

言えなかった言葉は誰かに届くのだろうか。そんなことを考えながら書いた物語です。

少しでも心に残るものがあれば評価や感想をいただけると励みになります。

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