こぼれるおもいで
はじめまして。
僕は君の夫です。
もう、君は気づかないかもしれないけれど。
僕はいつまでも、君を愛しているよ。
朝日が差し込む明るい部屋で目が覚めた。
見覚えがあるような、ないような部屋。
とりあえず、顔を洗って着替える。
誰かが住んでいる気配がする。
誰だろう。
知らない場所のはずなのに、不安も恐怖も感じない。不思議な感覚だった。
朝ごはんを食べ、掃除をして、洗濯をする。
どうしてだろう。初めての場所なのに、体は自然と動いた。
まるで、ずっとここで暮らしてきたかのように。
そして、昼過ぎ。
「あ、時間だ」
今日は、彼氏の淳とデートの約束をしている。
近くの公園で待ち合わせだ。
急がないと。
クローゼットの場所も、どの服を着ればいいのかも、体が覚えている。
知らない場所なのに、不思議だ。
とりあえず急いで身支度を整え、家を出た。
約束の公園に着く。
「あれ……?」
何か違和感がある。
こんな公園だっただろうか。
しばらく辺りを見回したあと、近くのベンチに座って淳を待つことにした。
すると、そこには先客がいた。
三十歳ほど年上だろうか。
六十代くらいの、眼鏡をかけた男性だった。
白いシャツにセーターを重ね、チノパンを穿いている。飾り気のない、シンプルな服装だ。
その姿を見た瞬間、なぜか懐かしい気持ちに襲われた。
どうしてだろう。
初めて会う人のはずなのに。
気づけば、引き寄せられるように、その男性の隣に腰を下ろしていた。
「こんにちは。はじめまして」
男性が柔らかい笑顔で話しかけてきた。
柔らかな声が、すっと耳に染み込んでくる。
「こんにちは。はじめまして」
思わず、そう返していた。
不思議な人だ。
それから、いくら待っても淳は来なかった。
今日に限って、どうしたのだろう。
「待ち合わせですか?」
また、男性が話しかけてきた。
「はい。そうなんです」
「そうですか。もしよかったら、あそこで一緒にお茶でも飲みませんか?」
男性が指さした先には、いつの間にか小さな喫茶店ができていた。
さっきまで、あんなお店はなかったような気がする。
けれど、不思議と違和感はなかった。
「いいですよ」
私は、なぜか迷うことなく答えていた。
それから私たちは、とりとめのない話をした。
何を話したのか、詳しくは覚えていない。
それでも、居心地は悪くなかった。
気がつけば、窓の外は夕暮れに染まっていた。
もう、淳は今日は来ないのだろう。
そう思い、男性にお礼を言って別れた。
家に帰り、夕飯の支度をする。
お風呂を沸かして、ゆっくりと湯船に浸かった。
それから寝る準備を整え、ベッドに入る。
今日も一日が終わった。
明日は、どんな一日になるのだろう。
そんなことを考えながら、私は眠りについた。
あれは、不幸な事故だった。
信号待ちをしていた僕たちに、一台の車が突っ込んできた。
咄嗟に彼女を庇うことができなかった。
妻は頭を強く打ったが命は助かった。
けれど、彼女は三十年分の記憶を失い、さらに、新しい記憶を刻むための脳の機能まで失ってしまった。
僕たちは大学生の頃に出会った。
友達として過ごした時間を経て、恋人になり、三十七歳のときに結婚した。
子どもには恵まれなかったけれど、二人でいられれば、それでよかった。
一緒に笑って、一緒に食事をして、時には喧嘩もして。
そんな当たり前の日々を、僕たちは三十年近く積み重ねてきた。
そして、あの日。
あの事故が起きた。
医師からは、妻の記憶が戻る可能性は低いと告げられた。
それだけではなかった。
新しい記憶を蓄えることができなくなった妻は、三十年前の、ある一日を繰り返して生きるようになった。
毎日、同じ一日を過ごす。
そして、眠りにつけば、その日のできごとは翌朝には失われてしまう。
妻が繰り返しているのは、僕と公園で待ち合わせをしていた、あの日だ。
あの頃は、携帯電話も今ほど普及していなかった。
だから、三十年前を生きている妻にとって、スマートフォンなんてものは、もう存在しないのと同じなのだろう。
毎朝、妻は目を覚ます。
そして、僕のいない一日を始める。
妻と僕は今も一緒に暮らしている。
それなのに、妻は僕の存在を認識できない。
同じ屋根の下にいても、僕は彼女にとって、ただの空気でしかない。
不思議なことに、三十年続けてきた家事は、今も体が覚えているようで、掃除も、洗濯も、料理も妻は今でも自然とこなしてしまう。
まるで、記憶とは別の場所に、暮らしの痕跡が残っているかのように。
だから僕は毎日、妻よりも先に家を出て、あの公園のベンチで彼女を待つ。
いつの間にか、それが僕の日課になっていた。
もう、数年になる。
寂しくないと言えば、嘘になる。
僕たちは、もう六十五歳だ。
けれど、妻は自分が三十五歳だった頃のまま生きている。
鏡に映る自分の姿さえ、彼女には三十五歳の頃のものとして認識されているのかもしれない。
だから、目の前にいる六十五歳の僕を、恋人の淳だとは思えない。
僕は、彼女にとって、ただの見知らぬおじさんなのだ。
それでも。
それでも、僕は幸せだと思う。
毎日、君に会える。
君の隣に座り、他愛のない話をする。
君が笑ってくれる。
たとえ、それが初対面の人に向けられた笑顔だったとしても。
君と一緒に過ごせるこの時間は、僕にとって、かけがえのない宝物だ。
君は、明日になれば今日のことを忘れてしまう。僕と話したことも、一緒にお茶を飲んだことも。
何もかも。
けれど、僕は覚えている。
君が忘れてしまったことも。
君が覚えていられなくなった、僕たちの三十年も。
僕が格好悪くて、様にならなかったプロポーズも。
結婚式の日、少し照れくさそうに笑った君の顔も。
そして、二人で何気なく過ごした、数えきれないほどの普通の日々も。
僕は、全部覚えているよ。
君の記憶からこぼれる思いを。思い出を。
僕はそれを一つずつ、大切に掬い上げていこう。
君が忘れてしまった思い出を僕が覚えておくから。
君が歩いてきた人生を、二人で過ごした時間を、僕が覚えている。
だから、どうか安心して。
君が僕を忘れてしまっても、僕は君を忘れない。
君が僕を知らない人だと思っても、僕は君を愛している。
毎日、君にはじめましてと言おう。
そして、そのたびに伝えるんだ。
いつかの、あの日と同じように。
心を込めて。
君を愛していると、思いを込めて。
君が思い出せなくても、君が気づかなくても、僕はいつまでも、君の夫だから。
「はじめまして」
僕は君の夫です。
今日も、君を愛しているよ。




