第98話 黒鉄の水門と、零度の航路
アイゼン運河の淀んだ水面を切り裂き、一隻の漆黒の魔導高速艇が無音で疾走していた。
帝都の上空には、依然として無数の探照灯の光条が交差し、非常警報のサイレンが重苦しく反響している。
だが、水面からわずか三十センチメートルしか露出しない低姿勢の船体と、アスター・コアが船全体を包み込む【絶対断熱ステルス結界】により、運河両岸の監視塔に配備された魔導探知器の針は微動だにしていなかった。
「ノア様、帝都外郭水路の最終防衛線――『黒鉄の第一監視水門』へ接近中。……距離八百」
操舵室の小窓から夜間暗視鏡を覗くリアが、低く鋭い声で報告を上げた。
その背後では、アッシュが運河の深度図と水門の構造図を広げ、指先で水流のベクトルを追っていた。
「水門の構造は、厚さ二メートルの鋼鉄製昇降ゲート。通常は帝国海軍の河川警備哨戒艇が二隻、ゲート前に常駐しています」
アッシュが顔を上げ、険しい表情で付け加える。
「帝都全域に非常戒厳令が発令された影響で、水門はすでに完全閉鎖されています。ゲートの手前には、高圧魔導電流を帯びた対舟艇用ワイヤーネットが水面下に幾重にも敷設されている模様です」
「強行突破は可能か?」
船室の中央で静かに腕を組むノアが問う。
「通常の衝角突入では、ワイヤーネットにスクリューを巻き込まれて航行不能に陥ります。さらにゲートを物理破壊すれば、水門の重量センサーが反応し、両岸の要塞砲八門が一斉に火を吹く設計です」
「ならば、破壊する必要はない。……運動量と浮力の力学を書き換える」
ノアは静かに立ち上がり、前甲板へと歩み出た。
湿った夜風が、ノアの漆黒の髪と耐寒外套を激しく煽る。
胸郭の奥底――古代遺産【始原の氷核】を統合し、第5段階へと完全覚醒を果たしたアスター・コアが、静謐なる青白い燐光を宿していた。
眼前に迫る、高さ十五メートルの巨大な黒鉄の水門。
水門の上部には、重装甲の帝国歩兵が小銃を構えて哨戒を続けており、水面には二隻の装甲哨戒艇がサーチライトを水路へと走らせていた。
「ノア様、光線が来ます!」
リアが身構える。
哨戒艇のサーチライトの強烈な白色光が、水面を舐めるようにして高速艇の舳先を捉えようとした。
「光の屈折率を偏向させる」
ノアが右手を水平に掲げた。
「相転移――【局所大気密度変調】」
キィィィィンッ!
高速艇の前方わずか十メートルの大気が急激に冷却され、極めて高密度な冷気レンズが空間に形成された。
照射されたサーチライトの光条は、冷気境界面で不自然に屈折し、高速艇の頭上を虚しく通り抜けて反対側の護岸を照らし出した。
哨戒艇の監視兵は、目の前を疾走する黒い影に一切気付くことなく、あくびを噛み殺して視線を戻した。
「水門まで残り百五十メートル。……ワイヤーネット探知域に入ります!」
アッシュが叫ぶ。
「アッシュ、スクリューの推進力を最大に固定しろ。減速は許さん」
「了解、最大戦速!」
魔導機関が低く唸りを上げ、艇は時速六十キロの最高速度へと到達した。
水面下に張り巡らされた、触れるものすべてを切り裂く高圧電流ワイヤーネット。
そしてその直後にそびえ立つ、二メートルの鋼鉄ゲート。
常識的な航行論であれば、正面衝突による圧殺・爆沈以外の結末はあり得ない。
だが、ノアの視界には、水分子の運動エネルギーと浮力計算の数式だけが冷徹に展開されていた。
「重力加速度九・八、艇の総質量三千二百キログラム、進入速度秒速十六・六メートル。……相転移発動」
ノアの両手が、水面へと向けて鋭く振り下ろされた。
「氷結傾斜角――【超滑走跳躍台】(アイス・ランプ)」
パキパキパキパキィィィィィンッ!!
高速艇の舳先の直下から、水門の最頂部へ向けて、厚さ五十センチメートルの巨大な氷の斜面が、凄まじい速度で水面を凍結させながら一瞬で立ち上がった。
ワイヤーネットも、水中障害物も、すべてが頑丈な氷塊の内部へと閉じ込められ、無力化される。
ズザザザザザッ!
時速六十キロで疾走する魔導艇は、氷の斜面をソリのように滑走し、重力に逆らって夜空へと駆け上がった。
艇底に展開された絶対超潤滑層により、摩擦抵抗はゼロ。
水門の上で警備していた帝国兵たちが、信じられないものを見るように目を見開いた。
「な、なんだぁぁぁっ!? 船が……空を飛んでいる――!?」
兵士たちの悲鳴を眼下に置き去りにし、三千二百キログラムの鋼鉄艇は、高さ十五メートルの閉鎖水門を軽々と飛び越え、放物線を描いて水門の外側へとダイブした。
ドバァァァァァンッ!!
激しい水飛沫を上げ、艇は外郭運河の下流へと滑らかに着水した。
重量センサーも、防衛砲台の火線管制も、一切反応していない。
防壁の上を物理的に跳び越えるという、敵の想定を完全に超越した力学突破であった。
「……水門突破完了! 帝都外郭防衛線を完全離脱しました!」
アッシュが歓喜の声を上げる。
「見事です、ノア様……!」
リアが胸を撫で下ろし、主君の横顔を見つめた。
その双眸には、不可能を淡々と可能にする青年への、絶対の信愛が満ちていた。
「全速で下流の河口へ向かえ。……海へ出れば、王国のローゼンバーグ大型商船が待機している」
ノアは冷淡に告げ、遠ざかっていく帝都の夜景を一瞥した。
暗黒の巨人工業都市は、いまや地平線の彼方で小さく赤黒く滲む煙の塊に過ぎなかった。
帝都地下の第三工廠を葬り、奪われた一族の至宝【始原の氷核】をその胸に抱いた復讐者。
向かう先は、鉄壁の守りを固めて待つ、愛しき自らの絶対領国――アスター領。
大陸全土に激震を走らせる真の凱旋が、いま白銀の波濤を越えて始まろうとしていた。
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