第1話:「完全犯罪と冥界の目覚め」
光の神々が慈愛の光を降り注ぎ、永遠の繁栄を約束されたかのような豪奢な王都。
その一等地に広大な屋敷を構える名門アスター侯爵家は、その夜、静かな絶望と鮮血に染まっていた。
「ノア、生き延びなさい……絶対に……っ!」
腹部を深く刺され、真っ赤な血を吐きながら叫ぶ母の顔を、五歳だったノアは今でも鮮明に覚えている。
いつも優しくノアの頭を撫でてくれた父は、すでに首を裂かれ、冷たい大理石の床の上に物言わぬ骸となって転がっていた。
突如として屋敷の結界を破り、闇夜に紛れて襲撃してきた黒装束の集団。
彼らの目的は、単にアスター家を皆殺しにすることではなかった。
息絶えた父の書斎に、彼らは『敵対国への内通を示す偽造文書』と『横領の証拠』を、いかにも不注意に隠されていたかのようにばら撒いていったのだ。
完全犯罪。
そして、周到に計算し尽くされた完璧な政治的暗殺。
幼いノアの目の前で、王国に誰よりも忠義を尽くしてきた誇り高きアスター家は、ただの『汚らわしい国家の裏切り者』へと仕立て上げられたのだ。
燃え盛る炎と暗闇の中、息を潜めていた五歳のノアは、確かに見た。
母に止めを刺した暗殺者の首元から、一瞬だけ覗いた華麗な紋章を。
——美しく咲き誇る、薔薇の紋章。
それは、光と美の象徴として民衆から絶大な支持を集める王都最大の権力者、ローゼンバーグ公爵家の紋章だった。
「この忌み子が。貴様のような出来損ないは、スラムの泥水でも啜って生きるがいい」
国家反逆の罪により、アスター家は瞬く間に取り潰された。
しかし、五歳のノアだけは命を奪われなかった。いや、生かされたのだ。
彼が生まれつき持っていた魔力は、光の神々から祝福された輝かしいものではなく、泥のように黒く淀んだ不吉なものだった。
光を信仰する貴族社会において、それは一族の恥であり、呪われた忌み子の証。
暗躍したローゼンバーグ家は、そんな彼を『処刑する価値すらない虫けら』だと鼻で笑い、王都の最下層であるスラム街へと放り投げたのだ。
全てを奪われ、家名すら名乗ることを許されなくなった五歳の少年は、冷たい雨の降る路地裏で一人、泥水の中に倒れ伏した。
***
それから、五年の歳月が流れた。
十歳になったノアは、王都の最下層であるスラム街で、這いつくばるようにして生き延びていた。
貴族たちが捨てる残飯を漁り、時には泥棒の真似事をしてでも、ただ命を繋ぐことだけを考えてきた。
「おいノア、今日もネズミの肉で腹を満たしてるのか? ほら、硬いパンの切れ端だ。食え」
薄暗く湿った路地裏で声をかけてきたのは、隻眼の老人、ガルだった。
ガルはスラムの吹き溜まりで日雇いの仕事をして生きる荒くれ者の一人だったが、なぜか孤児のノアを気にかけ、時折こうして自身の少ない食べ物を恵んでくれた。
「……ありがとう、ガル爺さん」
「へっ、気にするな。ガキはしっかり食って、早くデカくなりな」
それが、ノアが聞いたガルの最後の言葉だった。
翌朝、ガルは冷たい路地裏の片隅で、骸となって発見された。
「ああ、またか。昨夜はひどく冷え込んだからな。安酒を飲んで寝こけて、そのまま凍死したんだろ」
スラムの自警団や住人たちは、一瞥しただけでガルの死体を処理しようとした。
このスラムにおいて、身寄りのない老人の死など路傍の石ころほどの価値もない。誰も不審に思わず、誰も涙を流さない。
だが、ノアだけは違った。
「……凍死? 違う」
ノアはガルの遺体のそばにしゃがみ込み、その顔をじっと見つめた。
ガルの顔には、凍死者に特有の眠るような安らかな表情がない。激しい苦悶に顔を歪め、何かから逃れようとするように手を伸ばして硬直している。
ノアが、そっとガルの冷たい胸元に手を触れた、その瞬間だった。
ドクン、と。
ノアの心臓が、内側から破裂するかのように大きく跳ねた。
視界が黒く反転し、ノアの脳内に『強烈なビジョン』が濁流のように流れ込んでくる。
それは、ガルの最期の視界。
暗い路地裏。突然現れた、上等な外套に身を包んだ男。
男の指先から放たれた、不可視の『魔法』。
そして、首筋を貫く鋭く冷たい痛み——。
『……なんだ、これ……っ!』
ノアは息を呑んだ。
ビジョンだけではない。ガルの遺体の周囲に残っていた『犯人の魔力の残滓』が、黒い霧となってノアの身体に猛烈な勢いで吸い込まれていく。
全身の血管が沸騰するような感覚と共に、かつてないほどの魔力がノアの身体を満たしていった。
五年間、ただの忌み子の力として蔑まれてきたノアの底知れぬ魔力。
それはただの闇属性魔法などではない。
死者の最期の記憶を読み取り、現場に残された魔力を喰らって己の力に変える、世界から忘れ去られた古代の権能。
——【冥界神の捕食】。
「……やっぱり、凍死じゃない。ガル爺さんは殺されたんだ」
覚醒した冥府の力と、流れ込んできた記憶の断片。
ノアは感情を押し殺し、冷静に事実を並べ、冷徹なロジックを組み立て始めた。
「ガルの襟元だけが、不自然に濡れている。昨夜雨は降っていないのに。それに……」
ノアはガルの遺体を裏返し、その後頭部、延髄のあたりを指差した。
「ここだ。極小の赤い点がある。虫刺されじゃない……注射痕のような傷跡」
犯人の男は、氷の魔法で極細の『針』を生成し、ガルの延髄に正確に撃ち込んだのだ。
氷の針はガルの命を奪った後、体温と血で溶けてただの水になり、凶器はこの世から完全に消滅する。
「魔法を使った暗殺……完全犯罪だ。こんな手口、スラムのチンピラにできるものじゃない」
ノアは立ち上がった。
【冥界神の捕食】によって犯人の魔力を喰らった今、その魔力の『匂い』が、暗闇に光る道標のようにくっきりと見えていた。
ノアは迷わず路地裏を駆け出した。
魔力の痕跡を辿り、行き着いたのはスラムの奥にある廃墟。
そこには、ノアがビジョンで見た上等な外套を着た男が、数人のチンピラに金貨の入った袋を渡しているところだった。
「あのボケ爺、この区画の土地買収に最後まで反対しやがって。たかがスラムのゴミを掃除するのに、手間をかけさせられたぜ」
「ヒヒッ、さすがは旦那。あの氷の魔法、見事な手際でしたよ。これであの土地は旦那のものですな」
ゲラゲラと下劣に笑う男たちの前に、ノアは音もなく降り立った。
「……お前か。ガル爺さんを殺したのは」
闇の中から現れた幼い少年に、男たちは一瞬ギョッとしたが、すぐに鼻で笑った。
「あ? なんだこの汚えガキは。目障りだ、殺せ」
男が顎をしゃくると、チンピラの一人がナイフを抜いてノアに襲いかかった。
だが、遅い。
犯人の魔力を喰らい、魔法の威力だけでなく身体能力まで爆発的に底上げされていたノアは、大人の男が振り下ろした腕をあっさりと掴み、その骨を無造作にへし折った。
「ぎゃあああっ!?」
「な、なんだと!?」
悲鳴を上げて転げ回る部下を見て、驚愕する外套の男。
ノアは血走った瞳で、男に向けて一歩を踏み出す。
男は慌てて指先に氷の針を生成しようとしたが、その魔法の発動よりも早く、ノアの手が男の顔面を鷲掴みにした。
「お前の過去も、罪も、魔力も……全て俺が喰らってやる」
【冥界神の捕食】が発動する。
「ひっ、ぎ、ああああああっ!?」
男の魔力が根こそぎノアへと吸い上げられ、男は白目を剥いて地面に崩れ落ちた。
その時、泡を吹いて倒れた男の懐から、一つの銀色の懐中時計が転がり落ちた。
ノアの視線が、その時計の蓋に刻まれた紋章に釘付けになる。
——華麗に咲き誇る、薔薇の紋章。
「……ローゼンバーグ、公爵家」
五年前のあの夜、両親を惨殺し、自分から全てを奪った暗殺者の首元にあったものと全く同じ紋章。
この男は、ローゼンバーグ家がスラムの地上げや裏の仕事を行わせるために飼っている、末端の犬だったのだ。
ノアは泥に塗れた手で、その懐中時計を拾い上げた。
全てが繋がった。
スラムでの強引な土地買収も、ガル爺さんの不審死も、そして五年前のあの日も。
奴らは、こうして平然と人の命を奪い、完全犯罪を気取って、この世界の頂点に君臨し続けているのだ。
「……見つけたぞ。俺から全てを奪った奴らの尻尾を」
薄汚れた路地裏で、十歳の少年は静かに、だが決して消えることのない冷たい復讐の炎を燃やした。
この忌み嫌われた【過去を喰らう力】で、奴らの嘘を暴く。
どんな完全犯罪も、どんな強固な身分も、俺の論理で全て引きずり下ろしてやる。
光の神々すら沈黙する、至高の復讐劇が、今ここから幕を開けた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!
全てを奪われた少年ノアの、冷たくも熱い復讐劇がいよいよ幕を開けました。
【過去を喰らう】という少し変わった魔法を使って、今後も貴族たちのドス黒い陰謀や完全犯罪を、論理で次々と暴いていきます。
次回、ノアの前に現れるのは、敵対するローゼンバーグ家のミステリアスな令嬢……!?
孤独な二人の運命がどう交差していくのか、ぜひノアと一緒に謎を解き明かしながら、今後の展開を見守っていただけると嬉しいです。
冥府の門は、まだ開かれたばかりです。
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