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ソクラテスの哲学が開いた「外部」の視点

掲載日:2026/05/25

 古田徹也の「不道徳的倫理学講義」という本がある。これは哲学の解説書としては優れたものなのでおすすめだ。

 

 この中ではいわゆる「福徳の一致」という問題が扱われる。これは徳のある人間は幸福になれるのか、という問題だ。

 

 悪人が幸福な人生を送る事もあれば、善人が不幸な人生を送る事もある。そうした人生の理不尽さに対して哲学者はどのような態度を示してきたかを古田は順に説明していく。

 

 私はこの本をパラパラと読んで、改めてソクラテスの重要性を思い知らされた。しかし、それは普通考えられているような、賢者としてのソクラテスではなく、どちらかと言うと、過激思想家としてのソクラテスだ。

 

 哲学の勉強をはじめた当初、私はソクラテスとかプラトンとかいう人をなんとなく偉い哲学者としてしか思っていなかった。彼らの本を読みながら(ここはおかしいんじゃないか)と思うところがありながらも(まあ何かそういう事なんだろうな)というぼんやりした認識しか持っていなかった。

 

 しかし哲学について勉強していくうちに、(どうもプラトンとかソクラテスとかいう人は過激思想家なのではないか)と思うようになっていった。

 

 ソクラテスに関しては、死刑になっているという事実がそれを裏打ちしている。プラトンに関してはそのような事実はないが、プラトンの詩人追放の論理などは、どう考えても過激思想家のそれとしか思われない。

 

 私もはじめは人並みに「古代の哲学者だからこういうのも普通だったんだろう」と思っていたが、勉強が深まるにつれ、彼らが過激な思想の持ち主で、強烈な反骨心、天邪鬼な人と考える方が納得がいくと考えるようになっていた。

 

 現代ではプラトンとかソクラテスとかいった有名な名前だけが残っているので、人はプラトンやソクラテスを読んで「賢くなれる」と考えたりする。


 しかしソクラテスの本を読んだ感心した人のうち、一体どのくらいの人がソクラテスのように死刑になってもいい、と思えるだろうか。ソクラテスは真剣だった。ソクラテスは実際に「そういう人」だった。

 

 ※

 「不道徳的倫理学講義」でソクラテスとプラトンの「福徳の一致」問題に関する思想は一文で要約されている。

 

 「徳を備えた善き人は、どれほど悲惨な状況に置かれたとしても、幸福であるーーソクラテスとプラトンはそう主張していた。」

 (p135)

 

 しかし古田が指摘するように、この理屈はおかしい。世の中には、徳を備えた善人がひどい人生を送る事はあるし、悪人が栄える事もある。そうした現実をソクラテスやプラトンはどのように見ていたのだろうか。

 

 ソクラテスはこの問題の解決を、神話に訴える。つまり、徳を備えた人物は、現実で不幸だったとしても、あの世において正当な裁きを受けて、幸福になる。これがソクラテスの言ったところだ。

 

 古田はこの理屈のあやふやさを指摘している。古田の指摘は常識的なもので、正しい。というのはソクラテスが自身の「正しさ」を神話に訴えるのは論理の証明としては「逃げ」でしかないし、そんな事をすればどのような屁理屈でも正論として通ってしまう。ただ、私はこの強烈な矛盾こそがソクラテスの価値なのだと感じた。

 

 古田はソクラテスの論理を説明した後に、アリストテレスの「福徳の一致」に関する論を紹介している。アリストテレスは、ソクラテスに比べれば煮えきれない、なんともすっきりしない理屈だが、「幸福になるにはある程度の偶然が必要であるし、ある程度の徳も必要だ」という事を言っている。

 

 アリストテレスの意見は、ソクラテスやプラトンのような過激な意見と違って中庸を心得た大人の論理という感じである。幸福になる為には、ある程度偶然に恵まれなければならない。幸福になる為にはある程度徳を発揮しなければならない。

 

 これは、そこそこの家柄に生まれて、良き友人や家族に恵まれた人が、周囲との関係の中で穏和に幸福になっている姿が思い浮かぶ。恵まれているからこそ、他人の為に尽くせる。アリストテレスの論理の方が現代の感覚に近い。

 

 ただ、私は、ソクラテスの極端な理屈「徳を備えた人はどのような悲惨な状況にあっても幸福である」というのは、現実的には絶対的な矛盾であるが、しかしその矛盾故に歴史の中で強烈な魅力を放っていると思う。


 なぜなら、この事は現実には不可能に近い故に、不可能に挑戦したいような高い精神にとっては魅力があるだからだ。

 

 ソクラテスが死んで二千年以上が過ぎた後の哲学者ウィトゲンシュタインは、ソクラテスの論理をそのまま遂行しようとした。ウィトゲンシュタインは「人は死を前にしても幸福でなければならない」と言った。彼は「幸福に生きよ!」とも自らの草稿に書いている。

 

 しかし現代の自分の快楽を幸福としか考えない人々がこうしたソクラテスやウィトゲンシュタインの言説から「勇気」やら「元気」やらをもらったとしたら、私はそれは虚偽だと思う。実際のところ、ソクラテスやウィトゲンシュタインの言う「幸福」とは我々にとっての「不幸」とに近いからだ。

 

 ソクラテスは死刑になって、毒杯を仰いで死んでみせた。ウィトゲンシュタインは、兵士になる事は免除されていたにも関わらず、自ら戦争に赴いて、危険な役割を引受け、前線で仕事をしていた。これらの人達は自分の極限的な不幸の中に幸福を発見できるかどうか、自らの魂を試そうとしていたのかもしれない。

 

 ただ、私が思うのは、このソクラテスの極端な論理「徳のある人は幸福でなければならない」というのは、それ自体が現実の説明としては間違っているのは確かだとしても、このような言説によってはじめて開かれた論理の地平があるのではないかと思う。私はそれを次に述べたい。

 

 ※

 ソクラテスの現実的には誤った論理はどのような世界を開いたか。それを私は「外部の視点」や「他者の視点」と呼んでいる。

 

 ソクラテスの論理を点検すると、「徳のある人が幸福である」のは、その人の主観においてではないという事になる。その人の主観において幸福が決まるとすると、この人が例えば拷問を受けて苦しんでいる時には彼は幸福ではないという事になる。そうなるとソクラテスの論理は破綻する。

 

 ソクラテスはそうした事をわかっていたからこそ、論理の証明を「神話」に頼った。となると、この人の「幸福」は現実における主観的な幸福ではないという事になる。

 

 それではどのような領域において彼は幸福なのだろうか。それは彼の生涯を「外」から眺めた時だ。


 彼が生涯にどれだけ善を発揮したとしても、その内面は終始苦しいものだったとする。この場合、彼の主観は「不幸」としか言えないが、外から見るとその人の全体は幸福だったと見るのは不可能ではない。

 

 私は同じような事をキリストについて考えた事がある。キリストが復活し、偉大な人物であるのは、彼が復活したからであるが、もしキリストが復活する事がなければ、彼は多大な苦痛を受けて、神に呪いの言葉を吐いて死んだ死刑囚に過ぎない。

 

 キリストの内面は苦しみのまま終わっているが、彼は復活した。「復活」とはキリストの主観的な生の外部の物語である。これはソクラスが神話の話を持ち出すのと同じ構造だ。

 

 これらの事でわかるのは、ソクラテスが言うような「幸福」とは、主体の外部から当てた視線によって現れたものだという事だ。

 

 死ぬまで苦しみしかないような人生を送った人も幸福であるとしたら、それはその人の存在を「外」から眺めた場合だけだろう。

 

 この「外」からの視点は、宗教的とも言えるし、超越的な領域とも言えるが、アリストテレスの常識的な論では決して出てこない視点である事は確かだろう。

 

 「哲学」というものが歴史を通じて残っていくのは、人々が考えるように「正しい論理」「正しい意見」を哲学が叙述したからではなく、むしろ矛盾として現れるような、人間にとって不可能とも言えるような理想を打ち出し、そこに駆け上ろうとした人間が存在したという事実によってであろうと私は思う。

 

 ソクラテスが意気揚々と毒杯を仰いだのは、彼が自分は「幸福」だと確信していた為かもしれない。だとすると、彼は「信仰」を持っていたという事になる。ソクラテスは自分一個の主観が全てではなく、彼を外部から眺めて、その生を新たに意味づける外部の視点を信じていた。


 この視点をソクラテスの論理は開いたが、その現実的帰結は、彼が毒杯を仰いだという事実に現れた。

 

 ソクラテスという人間が彼の死後、偉大な哲学者として歴史のうちに現れたという事は、彼が予期した外部の視点が歴史の中に具現化したと言っても良いだろう。彼はいわば、キリストのように「復活」した。

 

 私はこのように、哲学というものの価値の大きな部分が実は、超越的な領域に対する祈念にあるのではないかと思っている。ソクラテスが正しい論理ばかり語る真っ当な人間なら、彼の名前は今に残っていなかったはずだ。ソクラテスやプラトンは当時の過激思想家であり、ソクラテスはある意味で死刑になるのもやむを得ない人物だった。

 

 そのような人間の角を取って丸くして、自分達の常識にむりやり丸め込むのは私は哲学の本質に反する行為であると思う。もっとも、ソクラテスが闘いを挑んだのも当時のそのような世俗的で常識的な意見の在り方ではなかったか。


 私にはソクラテスの価値は、彼が正しい論理を人々に語ったからではなく、矛盾として現れざるを得ないような人間にとっての高い理想を率直に語り、それを「実践」してみせたからではないかと思っている。この事は、現代の主観的に幸福になろうとしている人々の論理と合致するものではないと私は思う。



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