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第9話:夢の残滓

 夜の静けさが、狭山市の住宅街を包んでいた。

 遠くで犬が吠える声がして、それすらすぐに闇に吸い込まれていく。


 朔弥の家の客間。

 レオンは毛布にくるまり、静かに眠っていた。

 呼吸は穏やかで、まるで深い湖の底に沈んでいくような眠り。


 だが――

 その瞼の裏に広がったのは、見知らぬ世界だった。


 湿った土の匂いが、鼻の奥にまとわりつく。

 足元の泥は重く、踏みしめるたびにぬかるんだ音が微かに響く。

 暗い森を吹き抜ける風は、まるで生き物のように冷たく、肌の上を這うたびに、体温を奪っていった。


 鎧が触れ合う金属音が、遠くでカン……カン……と鳴る。

 その音は、仲間がすぐそばにいるはずなのに、なぜか遠ざかっていくように聞こえた。


 レオンは剣を握りしめていた。

 柄に伝わる冷たさが、手の震えを隠してくれる。

 前を歩く誰かの背中を追っている――

 そのはずなのに。


 その背中は、霧の中に溶けるようにぼやけて見えた。


(……誰だ……? どうして……思い出せない……?)


 森の奥から、声が聞こえる。


「レオン、急いで!」


 ――澄んだ少女の声。

 その声は、胸の奥を強く揺さぶるほど懐かしい。


「置いていくぞ、レオン!」


 ――豪快な男の声。

 頼もしさと温かさが混ざった声。


「……大丈夫、私がついてるから……」


 ――優しい女性の声。

 その響きは、涙が出るほど安心する。


 三つの声。

 どれも鮮明で、耳に残るのに――

 顔が見えない。

 名前も思い出せない。


 胸が締め付けられる。

 心臓が、誰かの名前を叫ぼうとしているのに、声にならない。


(……どうして……こんなに……苦しい……? 俺は……誰を……失った……?)


 森の闇が揺れ、風が止む。

 世界が息を潜めたような静寂が訪れた。


 レオンは歩みを止められない。

 前へ進むほど、胸の痛みは強くなる。

 それでも――

 その背中を追わずにはいられなかった。


 森を抜けると、巨大な黒い城が姿を現した。

 黒い霧が渦巻き、空間そのものが軋んでいる。


 《魔王城》――。


 城門の前で、仲間たちが武器を構えていた。

 だが、やはり顔が見えない。


「レオン、行こう!」


 ――ツンデレ気味の少女の声。


「お前がいなきゃ勝てねぇだろ!」


 ――兄貴分の豪快な声。


「絶対に……勝って……」


 ――震える女性の声。


 声だけが鮮明に響く。

 レオンの胸が痛む。


(……誰なんだ……? どうして……こんなにも……大切だと感じる……?)


 城門が開き、黒い瘴気が吹き荒れる。

 レオンは剣を握りしめ、仲間たちと共に駆け出した。


 玉座の間。


 黒い霧が床から立ち上り、天井へと吸い込まれていく。

 空気は重く、呼吸をするたびに肺が軋むような圧迫感があった。

 世界そのものが魔に侵食されているような空間。


 その中心――玉座の前に立つ影。


 《魔王ヴォルネクサス》


 その姿は、ただそこに在るだけで異様だった。

 人の形をしているようでいて、どこか根本的に違う。

 黒鉄のような筋肉が鎧のように隆起し、背中から伸びる翼は闇そのものを形にしたようだった。


 角は鋭く、瞳は深淵のように黒い。

 その存在を見るだけで、心が削られる。


 レオンは息を呑んだ。

 恐怖でも驚愕でもない。

 もっと原始的な――

 本能が震えていた。


(……魔王……)


 それ以上の言葉は浮かばなかった。

 違和感も、疑問も、記憶のざわつきもない。

 ただ圧倒的な魔がそこに立っているという事実だけが、レオンの視界を支配していた。


 レオンの両脇には、仲間たちが立っていた。

 だが――

 顔が見えない。


 輪郭はある。

 武器も、立ち姿も、確かに仲間のそれなのに。

 顔だけが、霧に覆われたように見えない。


「レオン……頼んだぞ……」

「最後は……あなたが……」

「……お願い……勝って……」


 三つの声が重なり、レオンの胸を抉る。


(……どうして……どうして思い出せない……? こんなにも……大切なのに……!)


「待ってくれ……! 君たちは……誰なんだ……! どうして……そんな顔で……!」


 仲間たちは――

 霧の向こうで、微笑んだように見えた。


 その微笑みは別れを覚悟した者の微笑みだった。


「やめろ……! そんな顔するな……! 俺は……まだ……!」


 その瞬間――

 光が爆ぜた。


 魔王の咆哮が空間を裂き、黒い霧が嵐のように吹き荒れる。


 仲間の叫びが重なり、金属が砕ける音、肉が裂ける音、血の匂いが一気に広がった。


 レオンは手を伸ばす。


「やめろ……! 行くな……! 俺を……置いていくな……!!」


 指先が、仲間の影に触れそうで触れない。

 ほんの数センチの距離が、永遠の隔たりのように遠い。


 光が弾け、世界が白く染まる。


 その白さは――

 終わりの色だった。


「……っ……は……!」


 レオンは勢いよく上体を起こした。

 毛布が胸元から滑り落ち、冷えた空気が肌に触れる。

 その冷たさが、夢の余韻と混ざって胸を刺した。


 息が荒い。

 肺が焼けるように痛む。

 胸の奥が、何かに強く締めつけられたまま離れない。

 まるで心臓そのものを掴まれ、捻じられているようだった。


 視界が揺れ、天井の木目が滲んで見えた。

 涙でぼやけているのだと気づくまで、数秒かかった。


 頬には――

 涙が伝っていた。


「……どうして……泣いて……?」


 声はかすれ、震えていた。

 喉の奥がひりつく。

 夢の中で叫んだ声が、現実にまで残っているようだった。


 夢の内容は霧のように薄れていくのに、胸の痛みだけが鮮明に残っている。

 その痛みは、失ったものの重さを思い出させるようだった。


 ただ――

 大切な誰かを失った。

 その感情だけが、心臓の奥に杭のように刺さっていた。


 レオンは震える手で胸を押さえた。

 心臓が、何かを思い出そうと暴れている。

 思い出せないことへの焦りと恐怖が、胸を締め付ける。


(……誰なんだ……俺は……誰を……守れなかった……?)


 問いかけるたびに、胸が痛む。

 痛みは、記憶の欠片がどこかに埋まっている証のようだった。


 記憶は戻らない。

 顔も名前も思い出せない。

 思い出そうとすると、頭の奥がズキリと痛む。

 まるで思い出すなと誰かに止められているように。


 だが――

 感情だけが、鮮明に蘇っていた。

 まるで心だけが過去を覚えているかのように。


 喪失の痛み。

 後悔。

 叫び。

 伸ばした手が届かなかった感触。

 そのすべてが、胸の奥でまだ燃えている。


 レオンはゆっくりと息を吸い、震える指先を見つめた。

 その指先は、夢の中で誰かに触れようとして――

 届かなかった。


 その事実だけが、やけに鮮明だった。


(……俺は……何を……失った……? どうして……こんなにも……苦しい……?)


 胸の奥が、空洞になっているようだった。

 何か大切なものが抜け落ちたまま、そこに冷たい風が吹き込んでいるような感覚。


 その瞬間――

 胸の奥の空洞に、微かな温もりが灯った。


 レオンの身体から、淡い光が立ち上る。

 涙の粒に反射して、光が揺れた。

 暗闇の底に沈んだ心をそっと照らすような、弱々しい光。


 最初は、呼吸の乱れによる幻覚かと思った。

 だが光は確かに、皮膚の下から滲み出るように脈動している。

 胸の奥の痛みと同じリズムで、静かに、確かに。


「……これは……?」


 光は熱を持たず、ただ静かに揺れていた。

 封印の奥から、勇者の力が微かに溢れ出す。

 忘れた記憶が、扉の向こうで拳を叩いているようだった。


 胸の奥で、何かが目を覚まそうとしている。

 それは痛みと同時に、確かな力の感触だった。

 絶望の底に沈んだ心の奥で、小さな火がかすかに揺れながらも消えずに残っている。


 ――力が戻っていく。


 レオンはゆっくりと拳を握った。

 指先に力が入る。

 その感覚が、確かに自分のものだと分かる。

 夢の中で伸ばした手は届かなかった。

 守れなかった。

 失った。

 その痛みは消えない。


 それでも――

 まだ、動ける。


(……俺は……まだ……終わっていない……)


 胸の奥に、静かな決意が灯った。

 それは炎ではなく、夜の中でひっそりと光る小さな灯火のようだった。

 弱い。

 頼りない。

 けれど、確かにそこにある。


 涙の跡が頬に残ったまま、レオンはまっすぐ前を見据えた。


 夜の静けさの中で、勇者の力が微かに脈動していた。


 襖が、そっと音を立てて開いた。

 夜の静けさを破らないように、慎重に。

 その隙間から、朔弥が顔をのぞかせた。


「レオン、起きてるか?」


 月明かりが差し込み、朔弥の輪郭が淡く照らされる。

 レオンはゆっくりと顔を上げた。

 夢の余韻がまだ胸の奥に残っていて、現実に戻るまでに少し時間がかかった。


 それでも――

 朔弥の姿を見た瞬間、胸の痛みがほんの少し和らいだ。


 レオンは微笑んだ。

 その笑みは弱々しく、どこか影を落としていた。


「……ああ。少し……夢を見ていた」


 声はかすれ、喉の奥がまだ震えている。

 夢の中で叫んだ声が、現実にまで残っているようだった。


「どんな夢?」


 朔弥は部屋に入り、そっと襖を閉めた。

 気遣うように距離を詰めすぎず、けれど心配を隠しきれない目でレオンを見つめる。


 レオンは首を振った。

 その動きはゆっくりで、どこか痛々しい。


「……わからない。でも……とても大切な夢だった気がする」


 言葉にすると、胸の奥がまた締め付けられた。

 思い出せないのに、失ったものの重さだけが残っている。

 その矛盾が、レオンの心をさらに苦しめた。


 朔弥は不思議そうに首をかしげた。

 だが、それ以上は追及しない。

 レオンの表情を見て触れてはいけない痛みがあることを察したのだ。


 レオンは胸に手を当てた。

 そこにはまだ、夢の中の痛みが残っている。

 誰かの声。

 誰かの笑顔。

 誰かの手。

 伸ばした指先が届かなかった、あの瞬間。


(……必ず思い出す。あの声の主を……あの笑顔を……)


 胸の奥で、微かな光が脈動する。

 それはまだ弱く、頼りない。

 けれど確かに、そこにある。


 そして――

 その時が来れば。


 勇者レオンは、封印を破り完全覚醒する。


 その未来を、まだ誰も知らない。

 レオン自身でさえも。

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