補佐官は、始末書なんて怖くない。
「ドーナツが空を飛んでいる?」
私は、今、不思議な光景を見上げている。
昨日、私――ステラ・ホプキンスは、美味しいドーナツを食べた。
それを見て、私は思い出す。
「おいしいですね」
甘い香りが、口いっぱいに広がった。
最初の感触は、チョコの味だった。
そして、カカオの香りが舌の上に置かれる。
その後を追いかけるように、小麦と卵の優しい味と感触がくる。
口の中でそれが混ざり、新たな味わいが続く。
ずっと食べていたい。
私は、もう一口食べようと口を開きかけた。
その時、隣に座っているノーラ・ブラックウッドが口を開く。
「待って、ステラ。紅茶を一口飲んで」
そこで、私は手に持ったドーナツを少しお皿の上で待たせ、紅茶のカップに手を伸ばした。
紅茶からは、少し強い茶葉の匂いがする。
何かに似ているが、思い出せない。
そのまま一口飲む。
「こ、これは」
つい言葉が出てしまう。
先ほど食べたドーナツの甘みを、さらに引き立てる味だ。
茶葉の匂いは強く思えたが、口に含むことで味が引き締まる。
「どう? この組み合わせ」
ノーラは、まるで勝負に勝ったかのように私を見る。
「うん、これは、すごい」
私の答えに、ノーラは満足そうに笑みを浮かべる。
ノーラは、私が勤務している魔法省監視局とは別の局、魔具保管局で働いている。
魔具保管局は、魔法省の建物の奥、さらに地下にある。
そのせいもあり、同じ魔法省にいるが、用事がない限り、ほぼ会うことがない。
私の数少ない同期の一人なのだけど、こうした集まりでもないと、お互い忙しくて会えなくなってきている。
その事態を解決するためにできたもの。
それが、女子会。
最初は同期女子の集まりだったのだが、いつの間にか、それ以外の女子も集まるようになり、今や、あのエセリン監査官もたまに来るようになった。
エセリン監査官は、監視局でもかなり忙しい人である。
私の上司であるレストレード監査官と同じくらいにだ。
なので、こういう集まりに出るとは思えなかった。
「え、みんなでスイーツ食べるのでしょ。行く」
と話していた。
甘いものには目がないのかもしれない。
この紅茶は、エセリン監査官が持ってきてくれたものだ。
「これ、高いのでは?」
ついつい、私は言ってしまう。
「ええ、ちょっとね」
きっと“ちょっと”ではない。
「あ、そうだ。エセリンさん。この前のあれ、どうなりましたか?」
ノーラは、紅茶の匂いを楽しみながら尋ねる。
「そうね。まだ、わからないわ」
「そうですよね」
二人は、視線を合わせている。
ドーナツに夢中だった私も少し気になり、口の中のものがなくなったところで聞いてみる。
「何かあったのですか?」
「それがね」
エセリン監査官は、お皿にあったドーナツを持ち上げ、空中で動かした。
「こんな感じで、空を飛んでいるのよ」
私は、エセリン監査官のドーナツを目で追いながら、その姿を想像した。
それは、見たことがない光景だ。
「ということなんですけど」
いつもの監視局前のカフェで、私はワトソンさんとお茶をしていた。
もちろん、お昼休憩中にだ。
「そう。不思議ね」
「ドーナツがロンドンの空を飛んでいるなんて」
「ですよね」
事件は、一か月くらい前からの市民からの通報だった。
上空にドーナツが現れる。
スコーンでも、プディングでも、最近人気のマカロンでもない。
ドーナツである。
夕方近くの、南西の方向らしい。
現れる時間が一瞬なので、確かな情報が少ない。
それも毎日ではなく、週に多くても一度か二度だ。
だから、監視局も優先して捜査していない。
昨日、女子会で手に入れた新しいスイーツ情報と、その中で出た話を、私はワトソンさんに話していた。
ワトソンさんは魔法省の職員ではなく、いつも捜査の手伝いをしてくれる魔導学園の生徒、シャーロットさんの“保護者”である。
話をしていると、レストレード監査官がカフェに入ってきた。
資料を確認しているのか、こちらに気づいていない。
ワトソンさんも一瞬そっちを見たが、すぐに紅茶のカップに視線を戻した。
私は、その滑らかな動きに見とれてしまった。
ワトソンさんは私の視線に気づいたのか、どうしたの、という顔をする。
「シャルに聞いてみようか?」
魔法の言葉だ。
事件の解決や、謎を解くことができる。
シャーロットさんは、そういう能力を持っている。
そう思う反面、私はこの前の始末書のことを思い出す。
あれは、かなり上層部で揉めていた。
私は怒られはしなかったが、めちゃくちゃ嫌な顔をされた。
レストレード監査官は、ニヤニヤしていたけど。
「いえ、大丈夫です」
私は、きっちりと断る。
私の管轄事件ではないので、無理をしない。
まず自分の報告書をやらねばならない。
「そう?」
ワトソンさんは、“いいの?”という顔をしていた。
いいんです。
私は今、目の前のスモークサーモンサンドに集中することにした。
お、おいしい。
しかし、いつも事件は、私の報告書の山を軽く飛び越える。
事件が動いたのは、ちょうど一週間後だった。
本日の仕事を終えようとした時だった。
珍しく残業もなく、始末書もなく、報告書もほぼない。
しかも、明日は休み。
こんな良いことは、何か月もなかった。
隣にいるエドガー先輩に挨拶をして、私は席を立った。
「ステラ、通信入っているわよ」
通信。
魔導通信機を使って、遠くの場所と会話ができる魔法具だ。
少し嫌な感じがしたけど、私は通信機に向かう。
「あ、ステラ。あのね、すぐに来て」
ワトソンさんだった。
「え、はい。その、どこにですか?」
「リッチモンド・パークよ」
それは、魔法都市ロンドンで一番大きな公園だ。
リッチモンド・パークは、二百年以上の歴史がある王室由来の公園だ。
ロンドン市民も簡単に入ることはできないその場所に、私はいる。
「あの、ここって、その、許可がないと入れない場所ですよね」
私の涙ながらの質問に、ワトソンさんが答える。
「ええ、そうみたいね」
そうみたいね、じゃないですよ。
私は、心の中で叫び声をあげる。
「しょうがないわよ。シャルが中に入っちゃってるみたいだし」
なんで、勝手に入るんですか。
私は、もうどうでもよくなった。
わかりました。
わかりましたよ。
書けばいいんでしょ、始末書を!
なるべくバレないように、こっそり入ろう。
警備員がいない場所。
なぜかワトソンさんは、すでに知っていた。
私は、後をついて行く。
こそこそと。
千ヘクタール。
リッチモンド・パークは、広い。
広すぎる。
えっと、今どこにいるのかもわからなくなってきた。
「ワ、ワトソンさん。どういうことなんですか?」
私は、なるべく声の音量を抑えて話す。
「この前、ドーナツの話をしていたでしょ」
ワトソンさんは、周囲を警戒している。
「はい」
「あれ、シャルに聞いてみたのよ。そうしたら、シャルの返答がおかしかったの」
おかしい?
私は、その言い方が気になった。
「シャルは、嘘が下手なのよ。特に、自分にやましいことがある場合は」
私は、シャーロットさんの無表情の顔を思い出す。
モフモフと一緒にいる時は、柔らかい顔をしている。
しかし、シャーロットさんが話している時に嘘をついているかは、まったくわからない。
「そうなんですね」
とりあえず、相槌を打つ。
「そう。そして、シャルはこう言ったのよ。“何でもないから、大丈夫”って」
何でもない?
大丈夫?
それは、何かおかしい言い方だ。
「知っていたのよ。全部」
ワトソンさんは、私を正面から見つめる。
「だから、後をつけたの」
一週間前。
ワトソンさんは、私からの情報とシャーロットさんの言動から、調査を開始した。
シャーロットさんは、日課が多い。
しかし、その日課があまりない日がある。
土曜日だ。
学園の授業も半日だけしかない。
日が沈む少し前、シャーロットさんは動き始めた。
そしてシャーロットさんは、ここに向かっていた。
「先週、ここにいたのよ」
「何をしていたかまでは、わからなかったけど、空にあったわ」
「ドーナツ」
私は、何もない上空を見た。
いや、そこにはドーナツが浮いていた。
蒼い色のドーナツ?
夕日の光の加減で、小麦色にも見える。
「あれって、もしかしたら」
ドーナツをコーティングするように、シャーロットさんの魔法がかかっている。
「そう。あれは、シャルの円ね」
円は、シャーロットさんの固有魔法だ。
ということは、犯人はシャーロットさん?
私たちは、ドーナツに向かって走った。
意外に距離がある。
いつまでたっても、その場所にたどり着かない。
「ワ、ワトソンさん。まだ、着かないのですか?」
「もう少し、だけど」
ワトソンさんは、ロンドンの街なら、シャーロットさんの居場所が大体わかるらしい。
空にあるドーナツの大きさも、あまり変わらない。
あれ、めちゃくちゃ大きいのでは。
何十分走っただろうか。
私とワトソンさんは、やっとドーナツの真下近くに着いた。
木々に隠れている私たちは、小声で話す。
「あれ、誰ですかね?」
公園の中央の広場に人がいた。
肩まで届く髪は、金色に光っている。
着ているのは、白いドレスだ。
その色は、夕日を浴びることで、さらに際立つ。
肩からのレースの袖から白い肌が見え、袖口にはフリル。
首回りには、レースの装飾があしらわれている。
ドレスのスカートは、やわらかな光沢を帯びた白一色で仕立てられていた。
どこか威厳を感じるその姿。
見たことがある気がした。
どこだったかな?
「あれ、シャルよ」
「え?」
シャーロットさんは、銀髪のショートボブ。
服は、学園の制服か作業着しか見たことがない。
シャーロットさんの中に、おしゃれという文字はないはず。
いや待って、クローゼットの中に服がたくさんあったような気がする。
そういえば、シャーロットさんの部屋にあったかつらを思い出す。
シャーロットさんは、それをたまにつけているとか言っていた。
「誰か来た」
ワトソンさんが、その相手を睨むように見ている。
もしかして。
デ、デート。
あ、あり得る。
バレないような秘密の場所で。
ワトソンさんにも内緒で。
あんな変装や、普段着ないようなおしゃれな服を着て。
私は、シャーロットさんの涙ぐましい努力に感動すらしていた。
これは、私たちが居てはいけない場所。
私は、ワトソンさんに声をかけようとした。
その時、足音が近づいてくるのが聞こえた。
足音の主は、白いドレスを着た金髪の女性だった。
その姿は、シャーロットさんにそっくりだ。
いや、シャーロットさんが、その女性に似せているのだろう。
そういえば、顔のメイクまで同じだ。
「お待たせしました、シャーロット」
「はい。今、準備中です」
シャーロットさんも、いつもとは少し違う口調だった。
なぜか、私の胸が少し熱くなる。
これは、二人の密会デートなのだ。
邪魔をしてはいけない。
そう思っていた。
しかし、二人の姿は、似すぎている気がする。
まるで、双子のようだ。
私は、小さな、小さな音が頭の中に聞こえた。
すでに、ワトソンさんは、二人の前に立っていた。
「あの方は、お知り合いですか?」
白いドレスの女性は、私たちの方を見る。
シャーロットさんも、こちらを見ている。
「はい。え、ステラもいたの?」
私の存在に、シャーロットさんは少し驚いていた。
「シャル、どういうこと?」
ワトソンさんは、単刀直入に聞く。
シャーロットさんは、白いドレスの女性の方を見る。
「よろしいですか? 王女殿下」
王女殿下。
あ、やはりそうだ。
見かけたことがある。
「はい。お任せいたします」
「このお方は、ヴィクトリア・アレクサンドラ王女殿下です」
シャーロットさんは、カフェでお昼の注文をするように、あっさりと言う。
私は、それを聞いて、すぐに膝をつく。
や、やはり、王族の方。
しかも、アレクサンドラ王女殿下。
ど、どうしよう。
これは、始末書だけでは済まないかもしれない。
頭と心臓が、どうにかなりそうだ。
「なんだ。ヴィクトリア王女じゃない」
ちょっと、ワトソンさん。
タメ口は駄目です。
不敬罪で捕まります。
私は嫌です。
「ワトソン先生、お久しぶりです」
まさかのお知り合い。
私、おかしくなりそう。
に、逃げたい。
「ここで何しているの?」
ワトソンさんは、シャーロットさんに聞く。
「ええ。あれよ」
そう言って、シャーロットさんは空中のドーナツを指差した。
「これは、王女殿下の魔法実験の手伝い」
シャーロットさんは、今回の事件の説明を始めた。
天使の輪。
空中に魔法式を付加した輪状の物体を置くことで、その場所全体の観察ができる。
人、動物の場所を確認できる。
もちろん、動くものがあれば、その動きも。
さらに観測値を上げれば、観察できる人数を増やすことができる。
それは、その輪の大きさに比例していく。
最初は、人ひとりくらいの大きさだった。
それが、だんだんと大きくなっていった。
大きくなった理由は、シャーロットが研究に参加してからだった。
シャーロットの情熱と王女の資金により、誰も止められないくらいの大きさになっていった。
魔導学園の研究禁止命令が出るくらいに。
二人は場所を探し求め、この場所、リッチモンド・パークにたどり着いた。
しかし、あまりにも大きなその輪は、ロンドンのほかの場所からも確認され始めていた。
私は、空を見上げる。
その輪は、大きい。
大きすぎる。
タワーブリッジが丸ごと入るくらいの大きさではないだろうか。
「どうして、シャーロットさんは王女殿下の格好をしているのですか?」
私は、先ほどから気になっていたことを、シャーロットさんに聞いてみた。
「だって、ここ、王族専用よ。勝手に入ると捕まるでしょう」
なんで、いきなり常識的なことを言うの、この人。
そういう性格じゃないでしょ。
疲れた。
これは、さっき走ったせいだけではない気がした。
実験も無事終わったので、アレクサンドラ王女殿下とお別れをし、解散となった。
研究もだいぶ進んだので、今後はしばらく行わないということだった。
事件の解決もしたし、エセリン監査官に後で連絡することにした。
この前の件のお詫びになるだろうと、私は都合のいいように気持ちを切り替えた。
今回の不法侵入が不問になったので、ほっとしていたのが大きい。
帰り道。
アレクサンドラ王女殿下、気品があったな。
すっごい綺麗だし。
あんな近くでお会いできるなんて、今後ないだろうな。
私が王女殿下のことを思い出していると、後ろから、ワトソンさんとシャーロットさんの会話が聞こえてきた。
「それで、シャル? 本当の目的は何なの?」
「え?」
私は、ワトソンさんの方を振り返る。
「実験の手伝いだけで、あんな格好しないでしょう?」
「このリッチモンド・パーク、何回も入ったけど、ワトソン以外、誰も気づかないのよ、私だって」
そう言うと、シャーロットさんはドレスの両脇を軽く摘まみ、優雅に膝を折って一礼した。
それは、まるで本当の王女殿下のようだった。
もしかして、本当の実験って、変装のほうですか。
私は、今の話を聞かなかったことにするために、歩く速度を上げた。
二人からの距離を少しでも広げようと思ったからだ。
「はあー」
ため息が出た。
シャーロットのスピンオフです。
ステラの主人公の第二弾です。
少し後の話です。




