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補佐官は、始末書なんて怖くない。

作者: 桜の浜
掲載日:2026/05/11

「ドーナツが空を飛んでいる?」


 私は、今、不思議な光景を見上げている。


 昨日、私――ステラ・ホプキンスは、美味しいドーナツを食べた。

 それを見て、私は思い出す。


「おいしいですね」


 甘い香りが、口いっぱいに広がった。

 最初の感触は、チョコの味だった。

 そして、カカオの香りが舌の上に置かれる。

 その後を追いかけるように、小麦と卵の優しい味と感触がくる。

 口の中でそれが混ざり、新たな味わいが続く。


 ずっと食べていたい。

 私は、もう一口食べようと口を開きかけた。

 その時、隣に座っているノーラ・ブラックウッドが口を開く。


「待って、ステラ。紅茶を一口飲んで」


 そこで、私は手に持ったドーナツを少しお皿の上で待たせ、紅茶のカップに手を伸ばした。

 紅茶からは、少し強い茶葉の匂いがする。

 何かに似ているが、思い出せない。

 そのまま一口飲む。


「こ、これは」


 つい言葉が出てしまう。

 先ほど食べたドーナツの甘みを、さらに引き立てる味だ。

 茶葉の匂いは強く思えたが、口に含むことで味が引き締まる。


「どう? この組み合わせ」


 ノーラは、まるで勝負に勝ったかのように私を見る。


「うん、これは、すごい」


 私の答えに、ノーラは満足そうに笑みを浮かべる。


 ノーラは、私が勤務している魔法省監視局とは別の局、魔具保管局で働いている。

 魔具保管局は、魔法省の建物の奥、さらに地下にある。

 そのせいもあり、同じ魔法省にいるが、用事がない限り、ほぼ会うことがない。

 私の数少ない同期の一人なのだけど、こうした集まりでもないと、お互い忙しくて会えなくなってきている。


 その事態を解決するためにできたもの。

 それが、女子会。


 最初は同期女子の集まりだったのだが、いつの間にか、それ以外の女子も集まるようになり、今や、あのエセリン監査官もたまに来るようになった。

 エセリン監査官は、監視局でもかなり忙しい人である。

 私の上司であるレストレード監査官と同じくらいにだ。

 なので、こういう集まりに出るとは思えなかった。


「え、みんなでスイーツ食べるのでしょ。行く」


 と話していた。

 甘いものには目がないのかもしれない。


 この紅茶は、エセリン監査官が持ってきてくれたものだ。


「これ、高いのでは?」


 ついつい、私は言ってしまう。


「ええ、ちょっとね」


 きっと“ちょっと”ではない。


「あ、そうだ。エセリンさん。この前のあれ、どうなりましたか?」


 ノーラは、紅茶の匂いを楽しみながら尋ねる。


「そうね。まだ、わからないわ」


「そうですよね」


 二人は、視線を合わせている。


 ドーナツに夢中だった私も少し気になり、口の中のものがなくなったところで聞いてみる。


「何かあったのですか?」


「それがね」


 エセリン監査官は、お皿にあったドーナツを持ち上げ、空中で動かした。


「こんな感じで、空を飛んでいるのよ」


 私は、エセリン監査官のドーナツを目で追いながら、その姿を想像した。


 それは、見たことがない光景だ。


「ということなんですけど」


 いつもの監視局前のカフェで、私はワトソンさんとお茶をしていた。

 もちろん、お昼休憩中にだ。


「そう。不思議ね」


「ドーナツがロンドンの空を飛んでいるなんて」


「ですよね」


 事件は、一か月くらい前からの市民からの通報だった。

 上空にドーナツが現れる。

 スコーンでも、プディングでも、最近人気のマカロンでもない。

 ドーナツである。


 夕方近くの、南西の方向らしい。

 現れる時間が一瞬なので、確かな情報が少ない。

 それも毎日ではなく、週に多くても一度か二度だ。

 だから、監視局も優先して捜査していない。


 昨日、女子会で手に入れた新しいスイーツ情報と、その中で出た話を、私はワトソンさんに話していた。

 ワトソンさんは魔法省の職員ではなく、いつも捜査の手伝いをしてくれる魔導学園の生徒、シャーロットさんの“保護者”である。


 話をしていると、レストレード監査官がカフェに入ってきた。

 資料を確認しているのか、こちらに気づいていない。

 ワトソンさんも一瞬そっちを見たが、すぐに紅茶のカップに視線を戻した。

 私は、その滑らかな動きに見とれてしまった。


 ワトソンさんは私の視線に気づいたのか、どうしたの、という顔をする。


「シャルに聞いてみようか?」


 魔法の言葉だ。


 事件の解決や、謎を解くことができる。

 シャーロットさんは、そういう能力を持っている。

 そう思う反面、私はこの前の始末書のことを思い出す。


 あれは、かなり上層部で揉めていた。

 私は怒られはしなかったが、めちゃくちゃ嫌な顔をされた。

 レストレード監査官は、ニヤニヤしていたけど。


「いえ、大丈夫です」


 私は、きっちりと断る。

 私の管轄事件ではないので、無理をしない。

 まず自分の報告書をやらねばならない。


「そう?」


 ワトソンさんは、“いいの?”という顔をしていた。

 いいんです。

 私は今、目の前のスモークサーモンサンドに集中することにした。


 お、おいしい。


 しかし、いつも事件は、私の報告書の山を軽く飛び越える。


 事件が動いたのは、ちょうど一週間後だった。


 本日の仕事を終えようとした時だった。

 珍しく残業もなく、始末書もなく、報告書もほぼない。

 しかも、明日は休み。

 こんな良いことは、何か月もなかった。


 隣にいるエドガー先輩に挨拶をして、私は席を立った。


「ステラ、通信入っているわよ」


 通信。

 魔導通信機を使って、遠くの場所と会話ができる魔法具だ。

 少し嫌な感じがしたけど、私は通信機に向かう。


「あ、ステラ。あのね、すぐに来て」


 ワトソンさんだった。


「え、はい。その、どこにですか?」


「リッチモンド・パークよ」


 それは、魔法都市ロンドンで一番大きな公園だ。


 リッチモンド・パークは、二百年以上の歴史がある王室由来の公園だ。

 ロンドン市民も簡単に入ることはできないその場所に、私はいる。


「あの、ここって、その、許可がないと入れない場所ですよね」


 私の涙ながらの質問に、ワトソンさんが答える。


「ええ、そうみたいね」


 そうみたいね、じゃないですよ。

 私は、心の中で叫び声をあげる。


「しょうがないわよ。シャルが中に入っちゃってるみたいだし」


 なんで、勝手に入るんですか。


 私は、もうどうでもよくなった。

 わかりました。

 わかりましたよ。

 書けばいいんでしょ、始末書を!


 なるべくバレないように、こっそり入ろう。

 警備員がいない場所。

 なぜかワトソンさんは、すでに知っていた。

 私は、後をついて行く。

 こそこそと。


 千ヘクタール。


 リッチモンド・パークは、広い。

 広すぎる。

 えっと、今どこにいるのかもわからなくなってきた。


「ワ、ワトソンさん。どういうことなんですか?」


 私は、なるべく声の音量を抑えて話す。


「この前、ドーナツの話をしていたでしょ」


 ワトソンさんは、周囲を警戒している。


「はい」


「あれ、シャルに聞いてみたのよ。そうしたら、シャルの返答がおかしかったの」


 おかしい?

 私は、その言い方が気になった。


「シャルは、嘘が下手なのよ。特に、自分にやましいことがある場合は」


 私は、シャーロットさんの無表情の顔を思い出す。

 モフモフと一緒にいる時は、柔らかい顔をしている。

 しかし、シャーロットさんが話している時に嘘をついているかは、まったくわからない。


「そうなんですね」


 とりあえず、相槌を打つ。


「そう。そして、シャルはこう言ったのよ。“何でもないから、大丈夫”って」


 何でもない?

 大丈夫?


 それは、何かおかしい言い方だ。


「知っていたのよ。全部」


 ワトソンさんは、私を正面から見つめる。


「だから、後をつけたの」


 一週間前。


 ワトソンさんは、私からの情報とシャーロットさんの言動から、調査を開始した。

 シャーロットさんは、日課が多い。

 しかし、その日課があまりない日がある。

 土曜日だ。

 学園の授業も半日だけしかない。

 日が沈む少し前、シャーロットさんは動き始めた。


 そしてシャーロットさんは、ここに向かっていた。


「先週、ここにいたのよ」


「何をしていたかまでは、わからなかったけど、空にあったわ」


「ドーナツ」


 私は、何もない上空を見た。


 いや、そこにはドーナツが浮いていた。


 蒼い色のドーナツ?

 夕日の光の加減で、小麦色にも見える。


「あれって、もしかしたら」


 ドーナツをコーティングするように、シャーロットさんの魔法がかかっている。


「そう。あれは、シャルの円ね」


 円は、シャーロットさんの固有魔法だ。

 ということは、犯人はシャーロットさん?


 私たちは、ドーナツに向かって走った。


 意外に距離がある。

 いつまでたっても、その場所にたどり着かない。


「ワ、ワトソンさん。まだ、着かないのですか?」


「もう少し、だけど」


 ワトソンさんは、ロンドンの街なら、シャーロットさんの居場所が大体わかるらしい。

 空にあるドーナツの大きさも、あまり変わらない。

 あれ、めちゃくちゃ大きいのでは。


 何十分走っただろうか。

 私とワトソンさんは、やっとドーナツの真下近くに着いた。


 木々に隠れている私たちは、小声で話す。


「あれ、誰ですかね?」


 公園の中央の広場に人がいた。

 肩まで届く髪は、金色に光っている。

 着ているのは、白いドレスだ。

 その色は、夕日を浴びることで、さらに際立つ。

 肩からのレースの袖から白い肌が見え、袖口にはフリル。

 首回りには、レースの装飾があしらわれている。

 ドレスのスカートは、やわらかな光沢を帯びた白一色で仕立てられていた。


 どこか威厳を感じるその姿。

 見たことがある気がした。

 どこだったかな?


「あれ、シャルよ」


「え?」


 シャーロットさんは、銀髪のショートボブ。

 服は、学園の制服か作業着しか見たことがない。

 シャーロットさんの中に、おしゃれという文字はないはず。

 いや待って、クローゼットの中に服がたくさんあったような気がする。

 そういえば、シャーロットさんの部屋にあったかつらを思い出す。

 シャーロットさんは、それをたまにつけているとか言っていた。


「誰か来た」


 ワトソンさんが、その相手を睨むように見ている。


 もしかして。

 デ、デート。

 あ、あり得る。

 バレないような秘密の場所で。

 ワトソンさんにも内緒で。

 あんな変装や、普段着ないようなおしゃれな服を着て。


 私は、シャーロットさんの涙ぐましい努力に感動すらしていた。

 これは、私たちが居てはいけない場所。


 私は、ワトソンさんに声をかけようとした。

 その時、足音が近づいてくるのが聞こえた。


 足音の主は、白いドレスを着た金髪の女性だった。

 その姿は、シャーロットさんにそっくりだ。

 いや、シャーロットさんが、その女性に似せているのだろう。

 そういえば、顔のメイクまで同じだ。


「お待たせしました、シャーロット」


「はい。今、準備中です」


 シャーロットさんも、いつもとは少し違う口調だった。


 なぜか、私の胸が少し熱くなる。

 これは、二人の密会デートなのだ。

 邪魔をしてはいけない。

 そう思っていた。


 しかし、二人の姿は、似すぎている気がする。

 まるで、双子のようだ。


 私は、小さな、小さな音が頭の中に聞こえた。


 すでに、ワトソンさんは、二人の前に立っていた。


「あの方は、お知り合いですか?」


 白いドレスの女性は、私たちの方を見る。

 シャーロットさんも、こちらを見ている。


「はい。え、ステラもいたの?」


 私の存在に、シャーロットさんは少し驚いていた。


「シャル、どういうこと?」


 ワトソンさんは、単刀直入に聞く。


 シャーロットさんは、白いドレスの女性の方を見る。


「よろしいですか? 王女殿下」


 王女殿下。

 あ、やはりそうだ。

 見かけたことがある。


「はい。お任せいたします」


「このお方は、ヴィクトリア・アレクサンドラ王女殿下です」


 シャーロットさんは、カフェでお昼の注文をするように、あっさりと言う。


 私は、それを聞いて、すぐに膝をつく。

 や、やはり、王族の方。

 しかも、アレクサンドラ王女殿下。

 ど、どうしよう。

 これは、始末書だけでは済まないかもしれない。

 頭と心臓が、どうにかなりそうだ。


「なんだ。ヴィクトリア王女じゃない」


 ちょっと、ワトソンさん。

 タメ口は駄目です。

 不敬罪で捕まります。

 私は嫌です。


「ワトソン先生、お久しぶりです」


 まさかのお知り合い。

 私、おかしくなりそう。

 に、逃げたい。


「ここで何しているの?」


 ワトソンさんは、シャーロットさんに聞く。


「ええ。あれよ」


 そう言って、シャーロットさんは空中のドーナツを指差した。


「これは、王女殿下の魔法実験の手伝い」


 シャーロットさんは、今回の事件の説明を始めた。


 天使の輪。


 空中に魔法式を付加した輪状の物体を置くことで、その場所全体の観察ができる。

 人、動物の場所を確認できる。

 もちろん、動くものがあれば、その動きも。

 さらに観測値を上げれば、観察できる人数を増やすことができる。

 それは、その輪の大きさに比例していく。


 最初は、人ひとりくらいの大きさだった。

 それが、だんだんと大きくなっていった。

 大きくなった理由は、シャーロットが研究に参加してからだった。

 シャーロットの情熱と王女の資金により、誰も止められないくらいの大きさになっていった。

 魔導学園の研究禁止命令が出るくらいに。


 二人は場所を探し求め、この場所、リッチモンド・パークにたどり着いた。

 しかし、あまりにも大きなその輪は、ロンドンのほかの場所からも確認され始めていた。


 私は、空を見上げる。

 その輪は、大きい。

 大きすぎる。

 タワーブリッジが丸ごと入るくらいの大きさではないだろうか。


「どうして、シャーロットさんは王女殿下の格好をしているのですか?」


 私は、先ほどから気になっていたことを、シャーロットさんに聞いてみた。


「だって、ここ、王族専用よ。勝手に入ると捕まるでしょう」


 なんで、いきなり常識的なことを言うの、この人。

 そういう性格じゃないでしょ。


 疲れた。


 これは、さっき走ったせいだけではない気がした。


 実験も無事終わったので、アレクサンドラ王女殿下とお別れをし、解散となった。

 研究もだいぶ進んだので、今後はしばらく行わないということだった。

 事件の解決もしたし、エセリン監査官に後で連絡することにした。

 この前の件のお詫びになるだろうと、私は都合のいいように気持ちを切り替えた。

 今回の不法侵入が不問になったので、ほっとしていたのが大きい。


 帰り道。


 アレクサンドラ王女殿下、気品があったな。

 すっごい綺麗だし。

 あんな近くでお会いできるなんて、今後ないだろうな。


 私が王女殿下のことを思い出していると、後ろから、ワトソンさんとシャーロットさんの会話が聞こえてきた。


「それで、シャル? 本当の目的は何なの?」


「え?」


 私は、ワトソンさんの方を振り返る。


「実験の手伝いだけで、あんな格好しないでしょう?」


「このリッチモンド・パーク、何回も入ったけど、ワトソン以外、誰も気づかないのよ、私だって」


 そう言うと、シャーロットさんはドレスの両脇を軽く摘まみ、優雅に膝を折って一礼した。


 それは、まるで本当の王女殿下のようだった。

 もしかして、本当の実験って、変装のほうですか。


 私は、今の話を聞かなかったことにするために、歩く速度を上げた。

 二人からの距離を少しでも広げようと思ったからだ。


「はあー」


 ため息が出た。

シャーロットのスピンオフです。

ステラの主人公の第二弾です。

少し後の話です。


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