5話 配線と、解けない方程式
約束の午前十時。俺は依瑠のマンションの前に立っていた。
エナジードリンク二本という報酬につられて、休日の貴重な午前中を捧げることになったわけだ。
オートロックを呼び出し、エレベーターで彼女の階へ。
ドアが開くと、そこには昨日とは違う、グレーのスウェットに身を包んだ依瑠がいた。
「……おはよ、ナギ。……律儀に時間通りじゃん」
髪はラフにまとめられ、少し眠そうな目。
バイト用の「外行き」の顔ではなく、完全にオフの、無防備な姿だ。
「……誰が報酬を無駄にするか。ほら、エナドリ。……お前、ちゃんと飯食った?」
「……まだ。先にセットアップ終わらせたい」
彼女はそう言って、エナドリを受け取ると、そのまま奥のデスクスペースへと俺を促した。
そこには、新しいマザーボードやCPUの空き箱が山積みになっていた。
「……お前、これ最新の第13世代じゃん。また金注ぎ込んだな」
「うるさい。浪漫優先って言っただろ。……ほら、ナギは配線担当。私はCPUのグリス塗るから」
俺たちはデスクの前に並んで座り、作業を開始した。
彼女は真剣な眼差しで、CPUにグリスを薄く、均一に塗っていく。その集中力は、ゲーム中のエイムと変わらない。
俺は俺で、無数に伸びる電源ケーブルやSATAケーブルを、ケースの裏に通していく。
「……おい、イル。このケース、裏配線のスペース狭すぎだろ。これじゃあ、ケーブルがパツパツになる」
「えー、そう? でも、見た目重視だからさ。……ナギなら、なんとかしてくれるでしょ?」
彼女は俺の方を向き、少し悪戯っぽく笑った。
その距離、わずか数十センチ。
モニターの青白い光ではなく、自然光に照らされた彼女の肌は、透き通るように白い。
「…………チッ。……めんどくせぇな」
俺は視線を逸らし、無理やりケーブルを束ねた。
チャットでは、どんなに煽り合っても気にならなかったのに、こうしてリアルで距離が近くなると、なぜか自分の心拍数が計算外の数値を叩き出す。
「……よし、これで通電テスト。……スイッチ、オン」
依瑠が電源ボタンを押すと、ケースファンが静かに回り出し、内部が虹色に光った。
「……よっしゃ! 通電確認! ……ナギ、サンキュ。やっぱりお前がいないと始まんないわ」
「……お前が不器用なだけだろ。……で、報酬は?」
「……あ、忘れてた。……これ、昨日バイト先で貰った、余り物のメモリ。……お前のPC、まだ8GBだろ? これで16GBにできるじゃん」
彼女が差し出したのは、エナドリではなく、俺のPCを強化するパーツだった。
「…………おい。……これ、結構いいやつじゃん」
「……お礼。……ナギには、これからも私の『相棒』でいてほしいからさ。……変な意味じゃなくて、技術的な意味で」
依瑠はそっぽを向いて、少しぶっきらぼうに言った。
けれど、その耳の先が、わずかに赤い。
ネットの世界から、リアルの隣へ。
そして、今度は彼女のプライベートな空間へ。
俺たちの関係は、画面越しの「ログイン」と「ログアウト」だけでは、もう定義できないところまで来ていた。
「……まあ、悪くない取引だな。……よし、メモリ増設したら、さっきのFPSの続きやるか。……今度は負けねぇからな」
「……誰が負けるか。……行くぞ、ナギ」
俺たちはどちらからともなく歩幅を合わせ、改札へと向かった。
画面を介さず、隣り合って歩く。
ただそれだけのことなのに、夜の空気は少しだけ、いつもより鮮明に感じられた。




