3話 デスクトップ越しの境界線
依瑠の家は、秋葉原から数駅離れた場所にある、築年数の浅いワンルームマンションだった。
オートロックを抜け、エレベーターを降りる。
「……一応言っとくけど、変な期待とかすんなよ。ただのゲーム部屋だから」
「誰がするか。お前の部屋の配線がスパゲッティ状態じゃないか確認しに来ただけだ」
そんな憎まれ口を叩き合いながら、彼女が鍵を開ける。
玄関に入ると、微かに残る石鹸の香りと、電子機器特有の熱を帯びた匂いが混ざり合っていた。
「お邪魔します。……意外と、普通だな」
室内は白を基調としたシンプルな内装だったが、部屋の隅に鎮座するL字デスクだけが、異様な存在感を放っていた。
トリプルモニター、プロ仕様のデバイス、そして内部が虹色に光る自作PC。
「……お前、ケースファン買い替えただろ。これ、静音性の高い最新のやつじゃないか?」
「よく気づいたね。先週、給料入ったからさ」
依瑠はキャップを脱ぎ、ラフに髪をかき上げた。
外ではどこか武装しているように見えた彼女が、自分の城に入った途端、ふっと肩の力を抜く。その無防備な仕草に、一瞬だけ視線を逸らした。
「ほら、座って。ナギには予備のゲーミングチェア貸してあげる。……夕飯、どうする? 適当にデリバリー頼むか、それとも冷凍食品でいい?」
「……お前、飯くらいまともに食えよ。自炊は?」
「包丁握るよりマウス握る方が得意なんだよね。文句ある?」
開き直る彼女に溜息をつきつつ、俺はデスクの横に腰を下ろした。
至近距離で見る彼女の横顔は、やはり驚くほど整っている。モニターの光に照らされた瞳が、真剣な色を帯びてゲームのログイン画面を追う。
「……ナギ、先行アクセスのコード、送っといたから。スマホ確認して」
「了解。……お、これか。結構重そうなタイトルだな」
俺たちは並んで座り、慣れ親しんだオンラインの世界へと「ログイン」した。
ヘッドセット越しではない、生の声での連携。
「右、角待ち。ナギ、カバーいける?」
「任せろ。……よし、ダウン」
「ナイス。やっぱりお前と組むと楽だわ。野良の連携とか、ストレス溜まるし」
ゲーム中の彼女は、やはり俺の知っている「イル」そのものだった。
けれど、ふとした瞬間に彼女がマウスを動かす手が、俺の腕に軽く触れる。
その体温が、この「相棒」が血の通った一人の女性であることを、無慈悲に突きつけてくる。
「……なあ、イル」
「何? 今、エイム集中してるんだけど」
「……お前、リアルで見ると、意外と手が小さいんだな」
反射的に出た言葉だった。
依瑠の動きが、ぴたりと止まった。
画面の中のキャラクターが撃ち抜かれるのも構わず、彼女はゆっくりと僕の方を向いた。
少しだけ赤くなった頬を隠すように、彼女はぶっきらぼうに言い返す。
「……当たり前だろ。女の子なんだから。……そういうのは、チャットで言えって言ったじゃん」
至近距離で目が合う。
モニターの青白い光と、部屋の暖色系の照明が混ざり合う、狭いワンルーム。
俺たちの間にある「スクリーンの壁」は、もうどこにも存在していなかった。
「……晩飯、俺が作るよ。冷蔵庫、何か入ってんのか?」
「……卵と、賞味期限ギリギリのベーコンなら。……いいよ、ナギ。お前、意外とお節介だよね」
依瑠は再び前を向き、死んだキャラクターのリスポーンを待った。
けれど、その唇には隠しきれない柔らかな笑みが浮かんでいた。
ネットの向こう側にいた親友。
その距離が、今、数センチまで縮まっている。
俺の東京生活は、どうやらFPSのランクマッチよりも、ずっと攻略が難しそうだった。




