13話 【イル視点】「イル」から「依瑠」へ ――解かれた暗号
女子大の学園祭。それは私にとって、一年で最も憂鬱な「アウェイ」のイベントだった。
周囲は華やかに着飾り、恋人や友人と浮かれている。
私は、その中心にいる「律 依瑠」という記号を演じるのに疲れていた。
だから、ナギに招待状を渡したのは、一種のSOSだったのかもしれない。
正門前で彼を見つけた時、私は自分の心拍数が異常な数値を叩き出しているのを感じた。
いつもと違う、少し小綺麗な格好をしたナギ。
彼が私を見た瞬間、一瞬だけ言葉を失ったのを見て、私は「勝った」と思った。
同時に、猛烈な羞恥心が襲ってきた。
……彼に、可愛いと思われたい。そんな、ありきたりな願いを抱いている自分が、たまらなく惨めだった。
「……馴染めてるかどうかは知らんけど、お前はお前だろ」
校庭の隅、夕暮れの中でナギが言ったその言葉に、私は涙が出そうになった。
彼は、私がどんな服を着ていても、どんな場所にいても、私の「核」を見てくれている。
……なら、もう隠す必要はない。
十一月の夜風が吹き抜ける、バイト帰りの道。
私は、意を決して彼に問いかけた。
「……いつまで『イル』って呼ぶつもり?」
それは、三年にわたる「偽装」を、完全に終了させるためのコマンドだった。
私は、画面の中の「イル」としてではなく、今ここにいる「依瑠」として、彼に名前を呼んでほしかった。
「…………依瑠」
彼の口からこぼれた私の名前。
それは、どんな高性能なスピーカーで聴くよりも、澄んでいて、温かくて、私の魂を震わせた。
「……凪」
私も、初めて彼の名前を呼んだ。
彼が立ち止まり、驚いたように私を見る。
その瞬間、私たちの間を繋いでいた「ID」という名のケーブルが、本物の「心」というネットワークに置き換わった。
私はたまらず、彼のコートの袖を掴んだ。
冷たい空気の中で、そこだけが異常に熱を帯びている。
……離したくない。
もし私がここで手を離せば、彼はまた、ドライな「相棒」に戻ってしまうかもしれない。
そんな不安をかき消すように、私は彼の袖を強く握りしめた。
凪の隣にいることが、私のデフォルト設定(初期設定)になればいいのに。
そんな切実な願いが、冬の夜空に白く溶けていった。




