10話 【イル視点】「俺」という名のプロトコル
液晶ディスプレイの青白い光だけが、深夜の自室を照らしている。
カチカチと小気味よく響くメカニカルキーボードの打鍵音。それが、この世界で私が唯一、自分らしくいられる鼓動だった。
画面の中では、チャットログが滝のように流れていく。自作PCコミュニティ。そこは、私にとっての聖域であり、同時に「律 依瑠」という女子大生を殺しておくための場所でもあった。
『ナギ:その構成、電源容量ギリギリだろ。負荷かけたら火を吹くぞ』
『俺:浪漫だろ。冷却ファンをフル回転させれば理論上は問題ない。計算上はな』
『ナギ:理論と現実は別もんだって、いつになったら学習するんだよ』
ナギ。三年前、パーツの相性問題で悩んでいた私に、ぶっきらぼうながらも的確なアドバイスをくれたのが始まりだった。以来、私たちは毎晩のように言葉を交わしている。
彼の言葉はいつも合理的で、それでいてどこか体温を感じさせる。女子大という、華やかで、それでいてどこか薄っぺらい人間関係に疲れ果てた私にとって、彼の「毒舌」はどんな甘い言葉よりも救いだった。
私は、彼に「女の子」だと思われたくなかった。
もし私が女だと知れば、彼はきっと、今の対等な口を利かなくなるだろう。気を使い、言葉を選び、最悪の場合、下心という名のノイズを混ぜてくる。そんな変質を恐れた私は、一人称を「俺」に固定し、無骨なガジェット好きの男を演じ続けた。
けれど、嘘を重ねるほどに、胸の奥には澱のような想いが溜まっていく。
ナギが送ってくる、少し無骨なデスク周りの写真。深夜まで一緒にゲームをして、ボイスチャットで聞こえる彼の、少し低くて落ち着いた声。
「……ナギ、お前さ。もし俺が、お前の想像と全然違う奴だったらどうする?」
一度だけ、冗談めかして聞いたことがある。
『ナギ:は? 中身がイルなら、外見なんてどうでもいいだろ。お前が実はAIだったとしても、このクソみたいな性格は変わらねーだろうしな』
その言葉に、私は救われ、そして絶望した。
中身が私ならいい。でも、私は「俺」じゃない。
新宿駅、西口。待ち合わせ場所に向かう私の足取りは重かった。
上京してきたナギと初めて会う。本当は、ずっと会いたかった。でも、会えばすべてが終わるかもしれない。
黒いオーバーサイズのパーカを深く被り、キャップで顔を隠す。鏡に映るのは、中性的な、どこの誰ともしれない「イル」の姿。
人混みの中に、彼を見つけた。
写真よりも少しだけ背が高くて、どこか頼りなげに周囲を見渡している、灯 凪。
彼を見た瞬間、心臓が跳ねた。それは、長年探していたラストパーツが、ぴたりと嵌まったような衝撃だった。
「……ナギ。そこに突っ立ってると邪魔。こっち来い」
精一杯、喉を低く鳴らして声をかける。
振り返った彼が、目を見開く。その瞳の中に、驚愕と、そして「女の子」を見る視線が混ざるのを私は見た。
終わった、と思った。
けれど、彼は「詐欺だろ」と吐き捨てながらも、すぐにいつもの、少し呆れたような顔に戻った。
「……何。その、鳩が豆鉄砲食らったような顔。失礼なんだけど」
震える声を必死に抑えて、私は彼を急かした。
嫌われてもいい。軽蔑されてもいい。
ただ、この瞬間から。私の三年に及ぶ「片想い」は、デジタルの海を越えて、この残酷なまでに鮮明な現実へとログインしてしまったのだ。




