【第5話】約束の地(2160年)
2160年
2145年に始まった火星移住計画から15年──
毎年のように地球から火星へ多くのクローン人間が移住をしてきていた。
時は2160年の春を迎えようとしていた。
幾度もの試練を経て築かれた新火星都市ネオ・マルスは、居住ドームと緑地帯、人工水路が織りなす壮大な都市へと成長を遂げた。
赤い大地を背景に立ち並ぶ白いドーム群は、まるで砂漠に浮かぶ真珠のように輝きで、内部には酸素再生プラントの静かな稼働音と、クローン人間が営む日常の暮らしが息づいていた。
人口はすでに30億人に迫り、ほぼすべてのクローンは火星への移住を完了させていた。
市街地を巡る自動走行車が運ぶ物資、宙を飛ぶ小型ドローンが補給食品を運搬し、ハイドロポニックス設備で育まれる新鮮な青菜が食卓を彩る。
ここは、かつて戦火に荒廃した人類が目指した「社会」の結晶の地である。
ユウマは都市開発の統括責任者として、あちこちで絶え間なく走り回っていた。
地上の新区画開発から地下資源循環システムのメンテナンス、そして空間利用の最適化に至るまで、ありとあらゆる課題を一手に担うのが彼の役割だった。
40歳となった今も、彼は若い技術者たちに設計図を広げ、熱心に意見を交わす日々を続けている。
一方のレアは、「火星の王の娘」として都市の統治チームをまとめる要職にあった。
クローン人間代表のリーダーとして、火星独自の制度設計や市民の犯罪抑止施策を監督し、文化行事のプロデュースまで手掛けている。
彼女の目には、かつて感情を抑え込まれていた面影はもはやなく、柔らかな笑顔としなやかな強さが共存していた。
だが、理想郷とはいえ、小さくない課題も積み重なっている。
ドーム外周の気候シールドに小さな亀裂が入り、急遽補修部隊が発動されたり、資源潜水プラットフォームのパワーコアが予期せぬ異常を起こしたり。
また、人口増加に伴い新居住区のドーム建設が急務となり、エンジニアたちは昼夜問わず稼働を続けた。
そんな折、ユウマのもとへ地球側の最高意思決定機関から「帰還の最終プログラム」が発表される。
戦争の傷跡を修復し、残された家族や故郷の風景をもう一度見る機会としての地球回帰プログラム──
その利用申し込み期間は限られており、「火星に残る」か「地球へ帰る」かを一度きりで宣告しなければならない、まさに人生の分岐点が訪れた。
都市中心部の大広場では、その知らせを聞きつけた市民が集まり、多くのクローン人間がユウマをはじめとした生殖人間へ賞賛の声を上げた。
しかし、ユウマには心残りが一つだけあった。
レアのことである。
ユウマとレアは控室の奥で静かに話し合った。
―― 「君はどうしたい?」
ユウマは目を伏せながら問いかける。
彼自身にも答えは定まっていなかった。
母を一人置いてきた地球への後ろ髪を引かれる想いと、この星で人々の未来を支える使命感が胸の内でせめぎ合っていた。
―― 「私…」
レアは魚の目をしたように一瞬戸惑った。
火星に来る前の記憶は薄れてしまっているが、それでもシャワー越しに聞いた波の音や、子供のころに見上げた青い空の匂いは、心の奥底に残っている。
「火星は私の家だわ。でも…あなたと過ごした毎日が、私の新しい人生を彩ってくれた。地球であなたと再び笑い合うことも、私の願いなの」
その言葉に、ユウマは胸を抑えた。
彼の目にも、淡い涙がにじむ。
出発の日。
ドッキングベイにはアリオスをはじめ、多くの同僚と仲間が残り、見送りに駆けつけた。
アリオスは杖をつきながら静かに佇み、ユウマへ向かって深く頭を下げる。
そしてレアが現れた。
レアは覚悟を決めたように歩みを進め、地球行の宇宙船に乗り込む。
アリオスが言った
―― 「レア、私はお前の決断を誇りに思う。火星に残る者も、戻る者も、お前の選択を讃えるだろう」
レアは泣き笑いの表情で父を見返し、大きく息を吸い込む。
ともに火星の都市創りに勤しんだクローン仲間である
エンジニアのサミュエル、農業部隊長のリア、医療チームのタルコフ博士らも各々声を詰まらせながら握手と抱擁を交わした。
最も感情を抑えていたのはクローン仲間のマヤだった。
感情を抑制されていたはずの彼女が、ぎこちなく手を伸ばし、「さようなら」と伝えた。
レアは初めて本当の涙を流した。
そしてレアは宇宙船の方を向き、ユウマに伝える
「心で決めたわ。あなたの隣で…もう一度、地球を見てみたい。」
ユウマはレアの手を優しく握り言った。
「行こう、心で決めた場所へ」
輸送船「パシフィカ号」がゆっくりとドッキングベイを離れる。
背後には赤い大地に浮かぶ丸いドーム群が見えた。
レアとユウマは窓越しに手を振り火星を後にした。
船内に入ると、レアは銀色の髪をそっと撫でながら、窓ガラス越しに地球を探す。
―― 「青い…こんなにも青いのね」
―― 「帰っても、またここへ来るから」
―― 「約束よ」
二人はお互いに握り返した手に、未来への確かな熱を感じていた。
捕虜と監視官として始まった関係は、国と種族の境界を乗り越え、
人類の過去と未来をつなぐふたりだけの物語へと昇華していく。
そして二人は地球で二人だけの時間をゆっくりと過ごすのであった。