二、天文部の部室にて、暫定的な前世を語る
幸か不幸か、姫野誠には、生まれた時から“前世”の記憶があった。
それは、彼にとってはごく当たり前のことだったので、幼い頃は誰にでも同じように、違う世界の記憶があるのだと思っていた。
前世を記憶しているということが、世の中を見回した時に、極めて特異な(と言えば聞こえばいいが、端的に言えば“異常”な)ことだと気がついたのは、家族に困った顔をされていることに気がついた時だった。
まだ幼稚園に行く前、本当に小さな頃だ。
誠の記憶している、前世としか言いようがない記憶において。
誠の前世と思しき睡蓮姫は、日本とは違う文化圏の土地の、貴族階級の女性として生まれて育っていたので、その違いが面白く感じた誠は、前世の自分が、今の自分と同じ年ごろに行っていた遊びの話や好きだったものなんかについて、家族の前で気軽に口にしたのだ。
“あのころ”は、
こういう服を着て、
こういう場所に行って、
こういう友達がいて、
自分は“あのころ”それが好きだった。
今とは少し違う。
あのころと全く同じものがほしいとは言わないけれど、懐かしい。
あのころの友達に、家族に、また会いたい、会えたら嬉しい。
それは、いささかノスタルジックな、焦がれるような気持ちが含まれているにしても特に害のない、幼い誠の、ただの感想のようなものだった。
けれど、誠が語るそれらの思い出は、家族の中で異質なものとして受け止められた。
今現在の血のつながった家族を前にして、
共有されない思い出を懐かしみ、
その場に存在しない身内に会いたいと語る子どもは、
“家族”という小さな共同体にとっては、異質なだけでなく、危険ですらあった。
誠は言うなれば頭の良い、
要するに大人の顔色を読むことのできる、
大人にとって大層都合のいい類の賢さを持った子どもだったので、
家族が自分の話を歓迎していないことに気がついた時から、ピタリとその話をするのをやめた。
それまではごく当然のように口にしていたものを、あまりにもピタリと口にしなくなったので、かえって母親から水を向けられることもあったのだが、決して口にせず、何のことかとしらばっくれた。
それで家族や周りの大人たちは、子どもにありがちな夢や想像を現実といっしょくたにしていてのことだったのだろう、現実と虚構の区別がつくようになったのなら、成長の証だと結論づけて安心した。
けれど、誠の前世の記憶は言わなくなっただけで、消えることは無かった。
自分以外には誰も持っていない記憶の存在は、誠を混乱させた。
成長するにつれて、はたしてこれは本当に前世というものなのだろうか、という疑問も生まれた。
その混乱も疑問も、家族に相談することはできない。
この記憶は、妄想なのか。本当に起きたことなのか。
記憶の中の自分は、今世の“姫野誠”と乖離していく。そのことにも戸惑った。
同じ世界にいたのだろう記憶を持っている二人の友人に出会えたのは、誠にとっては幸いなことだった。
それでもなお、絶対にそれが本当にあったことだと確かめる術はない。
自分たち三人の記憶について“暫定的前世”と表現したのは誠だ。
本当に前世なんてものがあったとして。
本当にそこにいた自分たちが“自分たち”だと思っている存在なのかどうか。
本当にお姫様、あるいはその護衛なんて立場だったのか。
同じ前世の記憶がある、とは言っても、その記憶の量はお互いにまちまちで、全てをはっきりと覚えているわけでもない。
三人の記憶は、ピースの揃っていないパズルのようなものだ。
お互いに持っている分だけの、完全ではないピースを出し合って、三人で補い合っている。
その不完全さが、そのままでは心もとなくて、誠は自分と、自分の友人のために、自分たちのこれは暫定的に言えば前世なのだ、と考えることにした。
確証のなさは一旦棚上げにして、暫定的に、という注釈があれば、不完全でも、前世として認められるように思ったのだ。
「曖昧な記憶なら曖昧であるせいで、怪しい気がしちゃうし、あまりにも鮮明な記憶なら、それはそれで変なように思うんだよね」
「なにが?」
「だってさ、こうやっている今だって、自分の姿って見えないじゃない? その代わり、さっきから落ち着きのない姫乃のことならとてもよく見える」
「あー、視点の問題ってこと?」
「そうそう。この今の僕たちのことをさ、来世というか。全然違う人間になって思い出した時に、目の前にしている姫乃のことしか思い出さないかもしれなくない?」
「あー、そしたらそれで、これだけジタバタしている姫乃の印象ばっかりあるから、自分のことだって記憶になるかもだけど、実際にはジタバタしているところを見ている私なわけだから、それは違う、みたいなことね。そうやって考えると私の菫青の記憶も怪しまなきゃいけなくなるねえ」
「より正確に物事を捉えようとするのなら、ね。ただまあ、姫乃はなんかインファなんだろうなあって思うよね。あのジタバタ具合を見てるとね」
「ああ、たしかに。なんかインファは……そうだね……」
「もう! さっきからなんなんです、人のこと見ながらジタバタとか言わないの!」
顔を真っ赤にして、姫乃が振り返った。
大きな目をきょろきょろとさ迷わせて、座っているはずなのに動きが派手だ。
こんなに小柄で華奢なのに、なんでだろうか。
見るからに落ち着きが無くて、ジタバタしている、としか言いようがない。
天祥学園高等部の天文部部室。
姫野誠、二瀬姫乃、金子煌は、それぞれお昼ごはんを持って集まっていた。
天文部の部員は、今のところこの三人だけ。学校内でも平気で前世にまつわる相談ができるこの部室は、三人にとっては大事な拠り所になっている。
今は、姫乃の前世である“インファ”の想い人、“丹桂”の生まれ変わりの可能性がある人物に、どうやって近づこうかという相談中だったのだが、姫乃の挙動が不審で話はあまり進んでない。
数日前の放課後、姫乃から丹桂と思しき相手を見つけた話を聞きだして、その目撃した場所へと向かったけれど、残念ながらその日は見つけることができなかった。
「多分……いや、ぜったい、駅周りの工事現場のおにいさんなんだよお……」
学校の最寄り駅である“天祥学園前駅”北口の再開発エリアは、もともと建てられてから50年ないし、60年ほど経っている古いビルが幾つか立ち並んでいて、建物の老朽化や、建築当時の事情から複雑に入り組んだ構造になっていることが、危険視されていた。
数年前に再開発の対象区画となることが決まり、現在はその真っ最中だ。
近未来的で華やかなイメージボードが大々的に印刷された看板が立ち、古いビルはどれもこれも工事現場へと様変わりしている。
「この工事現場の中のどこかに、丹桂はいるはず……と」
煌がつぶやきながら、液晶画面を指ではじいた。
普段ならば、それなりに天文部らしく、天文雑誌なんかを積んでいる机に、今は駅周りのマップを開いたスマートホンを乗せて、三人で覗き込んでいる。
「う……、え。でもさ、これ会えちゃったらどうすればいいんだろ……。記憶が、私たちみたいにあるとは限らないんだよ……ね」
「話しかけるしかないんじゃない?」
「ぐ……え、なんて……」
「まあ、いきなり前世の話からはしないほうがいいだろうねえ」
誠の言葉を、煌は鼻の先で笑う。
「それはないでしょ、普通に考えて怪し過ぎ」
「え」
姫乃が漏らした声に、煌が反応する。
「姫乃、待って。まさかあんた前世の話からする気だったわけじゃないよね」
「いやあ、それは……」
「だって、姫乃前科があるもんね。中等部で姫乃が転校してきて、校内案内の担当になった僕に初対面で会ったときの第一声『睡蓮様!』だから」
「はあああ?!」
「ちがう! だって、あんときは確実だって思ったから!」
「どんなに、ほぼ確で見るからに睡蓮でも、記憶があることまでは確証はないでしょうが! なんであんたそうやって見切り発車なの……」
「待って、そんなに僕って見るからに睡蓮ではなくない?」
「誠はどっからどう見ても睡蓮だよ」
「誠ちゃんはどっからどう見ても睡蓮様だよ」
こんな時ばかり気が合っている姫乃と煌に、納得がいかない誠だった。
「だって、その、睡蓮はお姫様だったけど、今は普通に男子だよ? 前世とは全然ちがうじゃない?」
うーん、と唸ってから、こてんと首をかしげる。
その頬に、きっちりと品よく揃えられた指先を当てていることには、本人は気が付いていないだろうなと、姫乃と煌は口には出さずに思った。
「見た目とかじゃなくて所作が」
「あと雰囲気が」
「だいたい、そんなたおやかな男子高校生はそうはいない」
「ね! なんか全然変わらないよね!」
「えええ、どう受け止めていいかわからない評価……」
「や、でも今回は、だいじょぶ。私だってそんな……。だいたい見ず知らずの人、なわけだし。その、そもそも確証があるわけじゃない……というか……でも、私は多分丹桂だとは思ってはいるんだけど。その、でも、どの工事現場で働いてるのかとかもちょっとわからないし、えっと、どこでそもそも見かけたかってのは、この前だいたい話した通りで最初に見かけたのはバイト先で……」
さっきからこの調子で、話は行ったり来たり。姫乃の心はジェットコースターのように乱高下しているのだろう。
埒の明かなさに、ちっと煌が舌打ちをする。
「誠ちゃああん、煌ちゃんがこわいいいい。私が優柔不断だからって、圧かけてくる!」
「はいはい大丈夫大丈夫」
泣き言を言ってしがみついてくる姫乃を、誠は気持ちのこもっていないなだめ方をしながら抱き止めた。
駅直結のケーキ屋が、姫乃のアルバイト先だ。
丹桂かもしれない、という男性は、その店先に現れたらしい。
「閉店前に店の外ですれ違ったんでしょ?」
誠の質問に、気を取り直した姫乃が答える。
「そう、先々週だったかな。閉店前にね、そろそろ看板片付けようかなって思って外見たら、なんて言うんだろ。作業服? そういうの着た人が外のディスプレイ見てるのがガラス越しに見えて……。声かけようとしたら、すっていなくなっちゃったんだけど。同じことが何回かあって」
何回か、とは聞き捨てならなくて、誠と煌は顔を上げる。
「何回か? え、店にも入らず? 外から覗くの?」
「待って。細かい話のディテール聞いたら不安になって来た。だいじょうぶ? その男、あんたのストーカーじゃない?」
「ていうか、閉店間際のシフトに入ってんのもよくないよね。その辺詳しく聞いてなかった。姫乃、今度から終わり時間教えて、迎えに行く」
「誠は塾あるでしょ、私が行くよ」
「もー! 二人とも大丈夫だから! あと、その人私が入ってる以外の日もいるみたいだから、違うよ! それにいつも、ケーキのディスプレイしか見てないみたいで、ぜんっっっぜんこっち見てないから、女の子目当てじゃないと思う!」
なぜなのか。
姫乃のフォローが安心なような、そうでもないような。
誠と煌はなんとも言えない気持ちになって顔を見合わせた。
「最初は顔が良く見えなかったから。背が、おっきかったのね。それで、お店の中からだと見えなくて。でも、そのあと、」
そう言って、姫乃の言葉が不自然に止まった。
「姫乃……?だいじょうぶ?」
突然口を閉ざした姫乃の背を、誠が軽い調子でポンと押した。
ハッとして顔を上げた姫乃は、ごまかすように「へへ」と照れ笑いをしている。
時折起きることなのだ。
直前まで楽しそうに笑っていたのに、何かを思い出したように突然すっと無表情になって黙ってしまう。
実際“何か”を思い出したのかもしれない。
そしてそれは、何も姫乃だけに起きることではない。
誠も、煌も、身に覚えがある。
どこでどんな風に過ごしていたとしても、偶然目にした色が、耳にした音が、聞こえた言葉が、映像が、頭の隅をひっかいて息ができなくなるときがある。
困った顔をした誠に、煌は首を振る。そうして、姫乃の背中をゆっくりと撫でる。
「姫乃、私も誠も、これがあんたにとっては、“楽しい”“今の”“恋バナ”だと思って話しているわけ」
「うん」
「でも、そうじゃなくて、何か嫌なことを思い出すようなことなんだったら、一度やめよう」
「だいじょうぶだよお」
と、姫乃がくしゃりと笑った。
「本当に会いたいと思ってるんだよ。会いたいし、二人にも会ってほしいから、だから大丈夫」
姫乃の小さな手がすっとあがる。
ぴっと伸ばされた指がまっすぐにマップ上の交差点を指差した。
「丹桂だって思ったのは、ここ。ここの信号のとこで、すれ違ったの。信号待ちしてるときは、ああ、向かい側にいる人、もしかすると最近うちの店のディスプレイ見てる男の人じゃないかなあって思って、なんかスマホで電話してて。すれ違いざまに、何話してるかは全然わかんないんだよ。わかんないんだけど。どこもかしこも工事中で、あんなにあちこちから色んな音がしていてうるさいのに、その人とすれ違ったとき、一瞬、他の音がなにも聞こえなくなって。何も聞こえない中に、笑い声だけが聞こえたの……丹桂の」
姫乃は柔らかい顔をして、ふっと微笑んだ。
丹桂は、武官だった。
派閥としては第一皇子、睡蓮姫が許婚となる皇子の側にいる人で、睡蓮の警護にあたることがよくあった。
許婚である第一皇子も、友人である菫青も見抜けない、親ですら間違える、睡蓮とインファの完璧な入れ替わりを、当たり前のような顔で見抜くことができる唯一の人だった。
睡蓮の影として生きているインファを、インファという個人として見ることができる人間は限られていた。睡蓮本人と、ごく限られた睡蓮に仕える護衛の仲間たちだけで、インファの世界は閉じていた。
本来のインファ、睡蓮とはまるで違う性格、性質を殺して、影として徹する。
そんなインファの小さな世界を、こじ開けるようにして現れた人、というのが誠の、いや睡蓮の丹桂に対する印象だ。
インファが“睡蓮姫”ではなく、インファ本人として丹桂と言葉を交わす時間は、きっとそんなになかった。
その短かった時間を、姫乃は今でも大切に思っている。
丹桂を今でも想っているインファがいじましい。
誠は何かを思い出しているような顔をしている姫乃の横顔の向こうに、丹桂とインファが、笑いあっている姿が一瞬見えたような気がした。
そんなことを思っていると、とんとんと扉をたたく音がした。