寒い夜
もう21時も終わりかけ。あかりと言うにはとても頼りない小さな月の下、電柱の寂しくなるほど白い光だけが照らす閑静な住宅街を、一人の青年が走っている。
高校三年生の彼は、スポーツブランドのロゴが入ったティーシャツに短パン、背中にはやや大きいリュックサックの格好で家々の隙間を走る。およそ寒さを紛らわせるために走っているのだろう。何せ今の気温は14℃である。彼は早くも寝静まってしまったかのようにも思えるほど静まり返った住宅街に規則的な足音を響かせながら、考える。
今の月のいる位置に太陽が輝いていた時、その時は暑さにうだっていたはずだった。少なくとも28℃、いや29℃はあった。体感的に。ちょうどその時は体育の時間でランニングをやらされていて、汗が鬱陶しくてたまらなかった。今日は朝からまぁまぁ気温は高かったし、半袖短パンの上に着る物なんて持ってこようとも思わなかった。
それが間違いだったと気づいたのは、体育でランニングをやらされる日に何故か被っている塾を出た時だった。その時にはもう21時もまわっていて、あまりの寒さに塾まで乗って行った自転車をそのまま置いて行き、バスに飛び乗った。自転車は明日取りに行こう。明日は塾は空いていない日か、じゃあ明後日。それにしても寒い。まだ9月なのに。
彼が降りたバス停から家までは600メートルほどあり、まだその半分も進んでいない。彼はあまり走るのが得意ではなかった。息を切らす彼は、寒さゆえであろうか、考え事が捗っているようだ。
高三にもなって、今の自分のような滑稽な状況に陥るものはこの自分以外にいるのだろうか。いやきっといないだろう。そう考えると、今、自分は本当に独りで走っていると言えるのかも知れない。自分の足音が大きくなったように聞こえるのは気のせいか。
彼はちらりと、並び立つ家々のうちの一つのカーテンの隙間から漏れ出る、暖色系の光を捉えた。ああそうだ。自分は自分の間抜けから生まれたこの寒さを凌ぐために独り走り、そこからたった壁一枚を隔てた暖かい空間の中には、もちろんそれを享受する人々がゆったりとした夜の時間を過ごしている。自分ももう少しでそちら側の人々の一員になる。それでこの世には、寒い夜を半袖短パンで駆ける間抜けな高三男子はいなくなる。
彼は笑っていた。ここで注意しなければいけないのは、その笑いには一切の自嘲的要素が含まれていないと言うことだ。彼が時折こころの許せる友達などに見せる屈託のない幼い子供のような笑顔が、場違いのようにも思えるが今ここでも彼の顔に現れていた。
自分は何を心から面白いと感じているのか。自分は今、自分から家が離れていって欲しい、まだこの寂しい寂しい夜の道を走っていたいとさえ思い始めている。
彼は空を見上げてみた。弱々しかった月はもうどこかへ消え去っていて、ただただ無表情な黒い夜空が、走る彼に覆い被さらんばかりに広がるのみだった。今はそれすらも、彼が面白いと思うには十分だった。
大事な思い出だったので描きたくなりました。