芽生え
あの日“すず”と会ってから、俺の脳裏には常にすずがいた。小さな体を震わせ、大きく声を上げて泣く姿が頭から離れなかった。
結局あの日の帰り際は、すずは全く俺から離れようとせず、施設の人が無理やり俺から引き離すと「やぁ!! やだぁ!!」と泣きながら暴れて大変だった。
俺が「また来るから」と言って頭を撫でると少し受け入れたように感じたが、しばらくするとまた泣き出してなかなか帰れなかった。
母はそんな俺を見て「やっぱり女の子の扱いが上手いのねぇ」なんて気色の悪い笑顔で言っていたが、父は「俺の方が何回も会ってるのに……」と落ち込んでいた。
なんだか不思議な気分だ。子供に懐かれるってこういう気分なのだろうか。
*
「え!? ハル、妹できんの!?」
週明け、登校すると小学四年生から同じクラスが続いている柳航太の声が教室中に響く。
「航太、いちいち声がでかいんだよ……」
「いや驚くだろ!」
航太は静かに過ごしたい俺の人生に無理やり割り込んでくる声デカ男だ。勝手に俺を親友だと言い、ゲームを口実に家に押しかけて来たりするはた迷惑な男。
だが悪いヤツじゃないから邪険にできない。
昔俺が泣かせてしまった女児にフォローを入れて泣き止ませてくれた男でもあるから。
「すげー! でもハル、兄弟とか面倒臭そうって言ってたじゃん? ましてや妹なんて、子供も女子も苦手なのに大丈夫かよ」
確かに、昔航太に弟が産まれたときそんな話をした気がする。よく覚えているな、と思いながら「さぁな」と返事をした。
相変わらず俺も自信が無いままだ。無愛想で優しくもないだろう俺が、あんな小さな子供の兄を出来るだろうか。次に会った時、すずは俺を忘れているんじゃないだろうか。この間からグルグル考えては分からなくなっている。
話をしていると突然「私妹いるよ!」と女の横槍が入る。
割って入ってきたのは山口明日香、今年中学生になり初めて同じクラスになった俺の苦手なタイプの女だ。俺と航太が話しているとよく割り込んでくる。
「へ〜、妹ってどんな感じ?」と律儀に会話をしてやる航太に尊敬の念さえ抱きそうだ。
「もうねぇ、マジでうざい! めちゃくちゃ我儘で、お嬢様って感じ!」
「マジ!? 俺の弟は兄ちゃん兄ちゃんってかわいいけどな〜。この間も、俺がショートケーキのイチゴ譲ってあげたらお礼の手紙くれてさ〜」
勝手に盛り上がるな、うるさい。
そしてまた、施設に行く日がやってきた。
父と母は毎週末俺に秘密で会いに行っていたらしいが、俺は今回二度目。正直不安だ。すずはもう俺を忘れているだろうか、それとも時間が経って“自分を泣かせた男”として覚えられているかもしれない。
「不安か?」
いつもはヘラヘラと適当なことを言っている父が優しい顔で聞くものだから、「……別に」と普段より少し小さな声での返事になってしまった。
施設に着きまたあの部屋に案内され、耳を劈く子供たちの騒ぎ声にあの日と同じように不機嫌になる。
ゆっくり耳を慣らしていると、足元に小さな衝撃が走る。
見てみると、すずが俺の足にしがみついていた。
「あら」と呟く母の声が聞こえる。
「…………」
すずは何も言わないが、その大きな目は俺を見て逸らさない。俺の心配は杞憂だったようだ。
「……向こうですずと遊んでくる」と子供たちのいる方へ指をさせば、父と母は笑顔で頷いた。
歩こうとすると、すずが俺の方に手を伸ばしてきた。抱き上げろということだろうか、としゃがみこみゆっくりと抱き上げれば、すずは小さな腕を俺の肩に回す。
意外と重くて驚いた。
それからしばらくすずと二人で過ごした。絵本を読んだり、俺が積み上げた積み木を破壊するという遊びをしたり……すずはよく分からないことを好んだ。笑わないから楽しいのかどうかもわからない。そこが妙に自分と似ているような気がした。
父と母が遠くで恨めしそうに見ているのに気づいて、俺は少し面白かった。
帰りの時間、すずはまた泣き出した。俺から離れたくないとでも言っているかのように、俺の服を涙で濡らした。
施設の人は「すずめちゃん、あんまり泣かないのに」なんて呟きながらすずを抱き上げる。
だけど俺は知っている、すずがただ我慢しているだけだということを。
俺のことを母親と重ねて見ている、母親に似た人のそばにいたい、そんな心の声が聞こえるようだった。
嫌だ嫌だと泣き喚くすずの頭を撫で、またすぐ会えるよと囁き車に乗る。振り向けばまだ泣いていて、まるで俺を求めるかのように手を伸ばしていた。
その姿が、俺の胸に小さく痛みを走らせた。
そんな日々がしばらく続き、春がきた。
春休みに突入し、正式にすずを迎える準備が出来たと家族に伝えられた。
やっと、やっとだ。
もう毎週末すずを泣かさなくていいんだ。
いついなくなるか分からない恐怖から、やっと解放してやれる。
すずが満足するまで傍にいてやれる。
血の繋がらない妹と上手くやれるかあんなに不安だった心は、いつの間にかどこかへ行ってしまったようだった。
すずを迎える日を待ち望んでいる、そんな自分の気持ちに気付いて少し恥ずかしくなった。
当日迎えに行くと、すずは変わらず一目散に俺の方へやってきた。
俺にはこんなだが、未だに父と母には心を開いていない。二人がどんなに話しかけても何も答えなかった。だが二人ともあまり気にしていないようで「大好きなお兄ちゃんがいるんだから、大丈夫よ」と母は言う。
施設の人がすずに別れを告げ、俺が車へ乗せるとすずは不思議そうにこちらを見た。
「今日からずっと一緒だ」
そう言うと、安心したのか発進してすぐに眠ってしまった。
その寝顔を見て一気に実感が湧く。
俺に妹ができたのだ、と。