真実の愛を見つけたから婚約破棄? 殿下がなんと言おうとも、了承するつもりはありませんわ
遠くの喧騒が聞こえてくる。
「アデリーヌ・ラフォン! 君との婚約は破棄した!」
王城の誰もいない廊下で、わたくしの婚約者である王太子リザンドロが叫んだ。
「なぜでしょうか」
わたくしは怯まず、尋ねる。十の歳に婚約をしてから八年。陛下が勝手にお決めになった政略的なものだったけれど、リザンドロもわたくしも時間をかけて信頼と愛情を育ててきた。だというのに、こんなときに婚約破棄だなんて。
「私は真実の愛を見つけたのだ!」とリザンドロ。
「まあ、どなたですか」
「……ノ……ノーラ・フォースターだっ!」
ノーラ? 誰? 聞いたことがない名前だわ。
「もう君はいらぬ! 私の足枷でしかないからな」
リザンドロはそう言って上着の内側から畳んだ書類を出して、わたくしの手にむりやり持たせた。
仕方ないので受け取り、開く。
「婚約破棄に関する公式文書だ」とリザンドロ。「これを持って去れ!」
確かに彼の言うとおりのものだった。だけど日付けが一ヶ月も前だ。
「こんなもの」
書類をふたつに裂く。
「なにをするっ!」
叫ぶリザンドロには構わず、二切れになったそれを重ねてさらに裂く。
「やめろっ」
手を伸ばす彼から身をよじって逃げ、さらに細かくする。
これ以上ムリ、というところで紙片を投げ、足で踏みにじった。
「アデリーヌ!」リザンドロが悲鳴のような、怒声のような声を上げる。
「あなたはわたくしをあなどり過ぎよ。婚約破棄なんて認めるものですか。王太子リザンドロの婚約者はわたくしアデリーヌ・ラフォン。アデリーヌ・ラフォンの婚約者は王太子リザンドロ。挙式を執り行うそのときまで、わたくしたちの間柄は変わらないわ!」
「愚かなことを言うな!」とリザンドロ。廊下の奥、図書室の開いた扉を指し示す。「早く行け!」
「どうしても行けと言うのなら、真実の愛のお相手に会わせて」
「私はもう君がいらない――そう、いらないのだ!」
リザンドロが泣きそうな顔をする。
その表情に胸が痛んだ。
リザンドロ。
良き友人で理解者。
だけど自分の中にそれ以外の感情もあることに、今、このときになってわかった。
わたくしは彼を好きなのだ。
リザンドロの頬を両手ではさみ背伸びをして、唇を重ねる。
初めてのキス。令嬢としてはありえない行動だけど、今しなかったら最期まで後悔してしまう。
カラン、と音がした。リザンドロから離れると、彼が手にしていた血まみれの剣が床に転がっていた。
「……アデリーヌ、頼む、去ってくれ……」震える声でそう願う彼は大粒の涙をこぼしている。
わたくしはもう一度伸び上がって、彼にキスをした。
背後で乱暴な足音が迫ってくるのが聞こえた。急いでリザンドロの首に手を回して体を密着させる。彼は諦めたのか、わたくしを強く抱きしめた。
足音がすぐそばまで来ている。
リザンドロの抱擁は一瞬だけだった。わたくしは力まかせに離され、それから彼の背に押しやられた。
わたくしたちは敵国の兵士たちに囲まれていた。その中で地位が高いと思われる三十がらみの男が進み出る。
「王太子リザンドロか」
「そうだ」と答えるリザンドロ。「私はどれほど残酷な目にあっても構わない。だから彼女を――」
男が首を横に振る。
「その令嬢はアデリーヌ・ラフォンだろう? 婚約者ならば妃と同然だ」
わたくしはリザンドロのとなりに並び立った。
「そのように扱っていただけたら、光栄ですわ。あなたの国が理不尽に攻め込んで来なければ、わたくしたちはとうに式を挙げていましたの」
リザンドロがわたくしの手を握りしめる。骨がくだけてしまいそうなほどの力だ。
「許して」と彼にささやく。「ひとりで生き延びるより、最期までリザンドロとともにいたいのよ」
◇◇
長らく良好な関係を保っていた隣国が戦を仕掛けてきたのは、ひと月前のことだった。あまりに予想外のことで応戦準備は整わず、あっと言う間に都近くまでの進軍を許してしまった。
なんとか態勢を整えた軍を陛下が率いて善戦したけれど、数日で敗走。陛下は戦死。
リザンドロは都を守ろうと、残った軍と共に戦った。でも、やはり勝つことはできなかった。それはそうだ。数で負けてしまっているのだから。
ただ、王妃陛下と妹姫たちを脱出させる時間は稼げた。彼はわたくしも逃そうとしたけれど、従わなかった。当然じゃない。戦に負けることは分かっていたもの。
わたくしは、リザンドロをひとりで死なせたくなかった。
リザンドロとわたくしは、王城の地下にある牢に入れられた。別の房だけど隣り合っている。
「君には生きてほしかった」
厚い石の壁を隔てた向こうから、リザンドロの声がする。
「わたくしもよ」
「……ずっとアデリーヌのことは同士だと思っていた。この国を共に背負ってくれる相棒というか」
「そうね。ぴったりの表現だわ」
「だけどこうなってみて、わかった。私は君を愛している」
「わたくしも。さっき気がついたばかりよ」
「そうか」
リザンドロの声が幾分か明るい。
「こんなことなら、結婚しておいたほうが良かったかな」
「ええ」
目をつむり、リザンドロと夫婦になった姿を想像してみる。
楽しく素敵な夢想だ。
そこにコツコツと靴が立てる音が響いてきた。
音はわたくしの房の前で止まった。カチャカチャと鍵が鳴り、扉が開く。現れたのは、わたくしたちを捕らえた男だった。
「やあ、アデリーヌ嬢。俺と取り引きをしないか」
「なんでしょうか」
「俺の現地妻になれ。そうすれば王太子を生かしてやろう」
「……本当ですか!」
立ち上がり、彼の元に駆け寄る。
「ああ」にたり、といやらしい笑みを浮かべる男。
「俺は気の強い女が大好きでね」
「ありがとうございます!」
男に飛びつき、首に手を回す。
「フフ。いとも簡単に堕ちてくれるなぁ」と嬉しそうな男。
「そうかしら」
わたくしは隠していた小さな短剣を男の首筋に当てた。捕まったとき、彼らはわたくしのボディチェックをろくにしなかった。女だから問題ないと思ったのだろう。
「貴様……!」
慎重に動いて、男の背後に移動しつつ、彼の剣を奪う。
「少しでもおかしな動きをしたら殺すわ。さあ、出て。リザンドロの牢の鍵を開けるのよ」
ノロノロと男が外に出る。六人の見張りの兵士が困惑顔でこちらを見ていた。壁に背をつけ、攻撃を受けないように進む。解錠され、リザンドロが出てくると、奪った剣を渡した。
「行けるとこまで、行こう」
リザンドロが覚悟を決めた声で言う。
「逃げられるものか!」と男。
そのとき、兵のひとりが膝から崩折れた。すぐに隣の兵士も続く。
「なんだ!?」と男。
ひゅんっという音がして、さらにもうひとり。
倒れた兵士の背、心臓の辺りに短剣が刺さっている。
「敵襲!?」
誰かが叫ぶ。と、通路の奥から何者かが飛び出てきて残りの三人を瞬く間に倒した。
唖然とするまもなく、わたくしが捕らえていた男も倒れた。リザンドロが持つ剣が脇腹に刺さっている。
「あれは誰? 味方?」とリザンドロに尋ねる。
「ああ」
はい、と飛び出てきた人物も答える。服装は男物だけど声は女性だ。彼女は跪いた。
「アデリーヌ様。近衛の秘密部隊に所属するノーラ・フォースターです」
どこかで聞いた名前だわ。
「殿下の命令で図書室の隠し通路でお待ちしていたのですが――」
「ああ、よく来てくれた」とリザンドロ。
「アデリーヌ様を安全なところまでお連れするのが任務ですから」
リザンドロを見る。
「あなたも一緒になら、彼女について行くわ」
「私が一緒だと、ずっと敵国に追われる」
「あなたが来ないなら、わたくしはここで自分の喉笛を切り裂くわ」
短剣をそこに当てる。
「……君がここまで強いとは知らなかったよ」
リザンドロが微笑む。それからかがむと男から剣の鞘とベルトを取り、身につけた。
「急ぎましょう」とノーラ。
うなずいて短剣を左手に持ち変える。あいた右手をリザンドロが握りしめた。
「こちらに」と奥に走るノーラ。
きっと秘密の通路の出入り口がここにもあるのだろう。城中に張り巡らせてあると聞いている。
「ねえ、リザンドロ」
小走りでノーラを追いかけながら、愛する婚約者らに尋ねる。
「彼女が真実の愛の相手かしら」
「あの一瞬は本気でそう言ったつもりだ」とリザンドロ。「だが私の真実の愛の相手は君だけだよ、アデリーヌ」
「婚約破棄は?」
「偽造書類だ」
万が一、わたくしが敵国に捕まっても、生き延びられるように。
リザンドロはそう願ってくれたのだろう。
優しい気遣いだけど、嬉しくはない。
「外に出たら、一番に結婚したいわ。ノーラ、立会人になってくれるかしら」
「お任せください」
リザンドロがわたくしを見て微笑む。
「地位も財産もなにもかも無くしたけれど、アデリーヌ、私と結婚してほしい」
「ええ。一緒に生きていきましょう」
繋いだ手を持ち上げ、リザンドロがわたくしの右手の甲にキスをする。
そういえば無我夢中すぎて、初キスの記憶がほぼないわ。最初にするのは、やり直しのキスのほうが嬉しいわね。
《おしまい》