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トワはなに?

 碧衣の息遣いが変わったような気がしてトワが顔を上げると、碧衣は静かに涙を流していた。トワは立ち上がり、碧衣の肩にそっと手を置く。


「私の物語で泣いてくれたんだね」


 トワは碧衣の頬を伝う涙を指で掬って舐めとった。うっとりと目を細める。


「甘いね」


 そう言ったトワの微笑こそ甘いお菓子のようだと思った碧衣は、トワの顔が近づいてきていることも、頬を舐められたことも夢の中の出来事のように感じていた。


 その時、甘い夢を掻き消すような、悪夢のような声が部屋の隅から聞こえてきた。


「見つけたぞ、バケモノ」

「見つけたぞ、同族の恥」

「見つけたぞ、醜いやつ」


 トワがびくりと震えて声のした方に顔を向けた。部屋の隅、書棚と壁の隙間から灰色のねっとりしたものが湧きだしてくる。それが声を発していた。


「また人間を飼っているのか」


「飼ってなどいない! 碧衣さんは大切な友人だ」


 ぞろぞろと隙間から流れ出したものが少しずつ形を変えていく。一塊だったものが三つに分かれ、口が開き、腕が生え、鈎爪のある足が左右に割れた。碧衣の身長の半分ほどの背丈だ。体型は子どものようにも見えるが、腰を曲げている様子は老人のようでもある。


「人間と友人だと?」

「なれるわけがない」

「人を食べるお前が」


 どろどろした表皮が波打つ。どうやら、トワを嘲笑っているようだ。


「こんなところに隠れているとは」

「塵もない館とでも思っていたか」

「知らぬか汚れはどこにでもある」


 濁った泥のような目で、それらはトワを睨みつけた。トワはそれらと碧衣の間に立ちふさがり、睨み返す。


「どこに逃げても無駄だ」

「どこまでも追いかける」

「今度こそお前を殺すぞ」


 長い舌をべろりと出して涎を垂らす。その涎からまた灰色の生き物が湧き出てくる。あまりの気味悪さに碧衣はトワの背中に縋りついた。


「碧衣さん、離れないで」


 低めた声で言って、トワは灰色の生き物たちを睨みつける。


「もうやめてくれ。私は人間界の片隅にいるだけだ。なにもせず存在することを許してくれないか」


「存在が罪なのだ」

「存在が恥なのだ」

「存在が悪なのだ」


 今や十数匹にもなったモノたちがトワに飛びかかった。鋭い鈎爪を剥きだしにしてトワを蹴りつける。

 トワは両腕で顔と首をかばうだけで反撃しようとしない。両腕はずたずたに引き裂かれ、血が流れだしていた。


 血、だろうか。碧衣はトワの白いシャツを染める濃い紫色の液体を呆然と見ていた。切り裂かれるたびに飛び散る紫色の液体。人間にはあり得ない色のそれは、確かに傷口から流れ出る体液だ。


 いったい、なにが起きているのか。トワはどうしてしまったのか。混乱して恐怖がどこかへ行ってしまった。


「人間、こいつに食われ続けるより、ここで死ぬのが幸運というものだ」


 灰色のモノの声にハッとして顔を向けると、すぐ目の前に鈎爪が迫っていた。


「碧衣さん!」


 トワが叫んで碧衣と灰色のモノの間に手を伸ばす。鈎爪はトワの手のひらに深々と刺さった。紫色の体液が噴きだす。


 鈎爪がトワの左目を狙って繰り出された。間一髪、顔をのけぞらせて避けたが、鼻梁から目尻まで一線に深い傷が付き、肉がのぞく。体液だけでなく、皮膚の下、その肉も紫色をしていた。


 灰色のモノたちの半数がトワへの攻撃をやめ、背後に、碧衣に向かって飛びかかろうとした。


「オン クロダノウ ウンジャク」


 トワの口から発される言葉を聞いたモノたちが、びくりと震えて動きを止めた。


「オン クロダノウ ウンジャク」


 指を複雑な形に組み、何度も繰り返すうちに、紫色のトワの体液から真っ赤な炎が立ち上る。炎はあっという間に部屋中に広がった。碧衣の体も炎に巻かれた。だが、熱くもなければ服が焼けることもない。


 灰色のモノたちだけが、のたうち、叫び声をあげ、部屋中を転げまわっている。


「去れ!」


 トワの声を聞くと、それらは部屋の隅でひとまとまりのごみ屑になり、窓の隙間から外へ出て風に吹き飛ばされて消えた。


 部屋に残された熱のない炎を、碧衣はぼんやりと見ていた。危機は去ったようだと思えたが、とても平常心には戻れない。

 視線をそっとトワに移すと、トワは腕の傷を押さえて微動だにせず佇んでいる。俯き加減で表情が見えない。全身を汚す紫色の体液がなんなのか、碧衣にはわからない。

 わかったことは、トワが人間ではないだろうということだけだった。


 ぐらりとトワの体が傾いだ。碧衣が慌ててトワに抱きつき支える。高い身長に見合わず、トワの体は異様に軽かった。


「大丈夫ですか?」


 トワは返事も出来ず、がくりと膝を折った。碧衣は床に座り、トワを横にさせた。体中の切り傷が痛々しい。傷口にそっと触れてみると、体液はもう流出していないようだった。ほっと息をつく。


 乱れたトワの髪を指で梳いていると、トワがうっすらと目を開き、碧衣を見つめた。


「怖いだろう、私が」


 碧衣は黙って首を横に振る。なにもかもわからない。なにがやってきて、なぜトワを襲ったのか。トワが人ではないなら、いったいなんなのか。なぜ自分は逃げなかったのか。


「怖くないです。トワさんは大切な、友人……ですから」


 トワが言ってくれたことを口に出してみた。すると心の底から愛着が湧いてきて、トワを信頼しているのだとわかった。

 トワが身を挺して守ってくれたこと、碧衣を魅了する甘い空気。

 それより何より、出会ったときに感じた懐かしい気持ちが、トワに引き寄せられる一番の理由だった。

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