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碧衣は暖炉と揺り椅子が好き

 心配で碧衣の顔色も青ざめていた。もしグヒンになにかあったら、どうしたらいいのか。自分はただ果物を届けに来ただけなのに、人に危害を加えることになるなんて。出来ることなら今すぐ家に逃げ帰りたい。


 逃げたい思いと、なんとか助けになりたいという思いに板挟みになっていたが、十分も待った頃、じっとしていることに耐えられなくなった。

 もうなにも考えられないほど、考えは煮詰まっている。立ち上がり、ノブに手をかけようとしたとき、ドアが開いてトワが戻ってきた。


「グヒンさんは?」


 思わず立ち上がった碧衣が、勢い込んで尋ねると、トワは変わらない優しい微笑を見せた。


「心配ないよ。少し横になってるけど、なんてことない。彼は大げさなんだ」


「でも、苦しそうでした……」


 トワはふわりと碧衣の肩を抱き、耳元で囁く。


「碧衣さんは優しいね。そんなに心配して」


 深く響く声が碧衣の胸を跳ねさせた。一気に顔が赤くなる。いくらなんでも距離が近い。そう思っても、しっかり囚えられたトワの腕から逃げ出せない。


 なんの対応策も浮かばず、首を深く折って俯く。トワはくすりと笑って碧衣をソファに座らせた。その隣に腰かけて、巨峰を一粒口に入れる。碧衣はまたなにか起きるのではないかと、思わず顔を上げた。


「うん。すごく美味しい。もう秋が近いんだね」


 笑顔のトワはすぐに二粒目に手を伸ばす。それを食べても楽しそうな笑顔は消えない。碧衣はほっと胸を撫でおろした。


「碧衣さんも食べるでしょ」


 そう言ってトワは三粒目の巨峰を摘まみ、碧衣に差し出した。受け取ろうと手を出すと「あーん」と言いながら碧衣の口元に近づける。驚いて動きを止めた碧衣の唇に巨峰を押し当てる。


 みずみずしい巨峰の甘い香りと、とろけそうなトワの微笑。くらくらするほど蠱惑的な雰囲気に浸って、碧衣は口を小さく開けた。巨峰がころりと舌の上に落ちる。口を閉じるとトワの指先が唇に触れ、そっと撫でられた。


 あまりの気持ちよさに、うっとりと目を閉じる。


「おい、トワ。お子ちゃまを誘惑するな」


 ハッと目を開くと、グヒンがテーブルのすぐ側に立っていた。碧衣は今までのトワとの艶めかしい空気を思い返して、カッと顔を赤くする。


「邪魔しないでくれ、グヒン」


「お嬢ちゃん、油断しているとトワに食われるぞ」


「く、食われるって……」


 そっとトワに目を向けると、トワは真剣な表情で碧衣の顔を見つめ続けている。真正面からそのまなざしを受けてしまうと、また先ほどのような甘い感覚を覚えそうで、碧衣は俯いた。


「言わんこっちゃない。お嬢ちゃん、逃げるなら今の内だぞ」


 グヒンがなにか言っていることは分かったが、内容が頭に入ってこない。トワの視線を感じ続けて顔を上げられない。

 なにか話を振ってトワの気をそらさなければと、碧衣は必死に頭を捻る。


「トワさんって漢字では、どう書くんですか?」


 作戦は成功だ。トワは碧衣にピタリと寄せていた体を少し離してくれた。上目遣いに様子をうかがうと、なぜか寂しそうに俯いていた。


「カタカナだよ。古臭い名前でしょう」


「いいえ。とても素敵です。大好きな小説の主人公も同じ名前です」


 顔は伏せたままトワはちらりと横目で碧衣を眺める。


「小説が好きなの?」


「はい。私の部屋は狭いからあまり本を置いておけないんですけど。自分の家に書庫を作るのが夢なんです」


 碧衣の引っ込み思案がどこかへ消え去り、少女らしい明るい表情を見せる。


「寒くて雪の降る日に暖炉の側で揺椅子に座って読書してみたいんです。笑美には年寄り臭いって言われるんですけど、いつか実現したくて」


 グヒンが、どさりと肘掛椅子に腰かけて話題に割り込んできた。


「その夢ならすぐ叶うんじゃないかな。この家の暖炉の前には揺椅子がある」


「本当ですか!」


 ぱっと明るい表情を見せた碧衣に頷いてみせてトワが立ち上がる。手を差し伸べて碧衣が立つのを手伝い、そのままエスコートしてドアを開けた。


「暖炉のある部屋は居間に使っているんだ。居心地はすごく良いと思うよ」


 居間は客間の隣だった。重そうな分厚い木製のドアが開くと、碧衣が夢見たままの空間がそこにあった。

 ドアから真っ直ぐ進むと大きな暖炉。レンガ組みで、上部のマントルピースには大小のキャンドルが飾られている。

 炉には薪が組んであり、すぐにも火を入れられそうだ。


「湿気を飛ばすために夏でも火を入れることがあるんだよ。いつでも炎があるのは落ち着くね」


 暖炉の前に置かれた揺椅子は磨き込まれているようで、深い琥珀色をしている。

 座面には、緑を基調にしたタータンチェックのクッションが主を待ちわびているようにコロンとのっている。


「座ってごらん」


 夢の中にいるようなふわふわした足取りで、碧衣は椅子に近づき、背もたれに手を触れた。重厚な見た目に反して、軽く触れただけでゆっくりと揺れる。そっと腰かけると、ゆらゆらと波に揺られているかのように静かな気持ちになった。


 碧衣がほうっとため息をつくと、トワは嬉しそうに笑った。


「良かった、気に入ってもらえて。そうだ、碧衣さんの夢には続きがあったね。二階に行こう」


 再び手を取られ、幸福感でぼうっとしたまま二階に連れられていく。トワが六室ある部屋の最奥の扉を開ける。

 広々としたこの部屋も碧衣の夢の通りだった。四方の壁一面に高い天井まで書棚が作りつけられている。いったい何冊の本があるのか、すべて読もうと思ったら何年かかるのか、想像も出来ない量だ。


「すごい……」


 碧衣はふらりと部屋に入ると、端から本の背を拾い読みしていく。辞書、美術書、写真集、歴史書、そして小説。日本のものだけでなく、英語やロシア語、アラビア語のものまである。


 まるで図書館のように整然と並べられた本に碧衣は圧倒された。家にこんな書庫を持っているなんて、どれほど本が好きなんだろう。勢いよく振り返って、ドアに凭れて碧衣を見つめているトワに駆け寄った。


「この本、全部読んだんですか?」


「そうだね。暇に飽かせて」


「外国語の本も?」


 トワは黙ってうなずくと、手近な棚から一冊の英和辞書を引き出した。表紙は剥げかけていて、ページも反っている。ずいぶん古いもののようだ。


「この辞書を知人に譲ってもらってから、翻訳して外国の本を読むようになったんだ。自己流だからどこまで意味を把握出来ているか、わからないんだけどね」


 その知人を懐かしんでいるのか、トワは少し寂しそうに見えた。

 年月を共にした書物とその思い出にまつわる親しい人がいることが、碧衣にはとても羨ましく、少し妬ましい。


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