友人はピザも好き
この部屋は初めて訪れた場所なのに、不思議と緊張することもなく、どこか眠気を誘われる。
笑美は朝から三時間も飲まず食わずで洋館を監視していた。その疲れが出たのだろうと、碧衣は胸を撫でおろした。
「お待たせ、紅茶でよかったかな」
白いトレイにティーカップを三つのせてトワが戻ってきた。カップを出されても、疲労感で声も出ず、ぺこりと頭だけを下げる。
部屋の隅に置いてあるオットマンを、碧衣が座っているソファの側に運んでトワも腰を下ろした。
「二人とも、無口だね。君は名前はなんていうの?」
「黒春直人です。勝手に入ってしまってすみません」
「いいんだよ。さっきも言ったけど、いつも鍵は開けているから」
碧衣は黙ったまま、話す二人をぼんやりと見ている。本当にくたくたで、今にも眠ってしまいそうだ。
会話が途切れ、トワはじっと碧衣を見つめた。この優しい視線をどこかで見たことがあるような、そんな既視感を碧衣は覚えた。
その考えを見透かしたかのようにトワは視線をそらして、いつもそうしているのであろう、自然に湧いたような微笑を浮かべた。
会話が途切れ、トワがティーカップに手を伸ばしたのを機に、碧衣と直人もお茶に口を付けた。どこか花の蜜を思い起こさせるような甘い香りのお茶だった。
ゆったりとお茶を飲み終えても、笑美は目を覚まさない。安らかな寝息をたてて幸せそうに眠っている。
「さて、困ったね。たたき起こすのもかわいそうだ。良かったら、今日は泊っていく?」
唐突な提案に、碧衣は慌てて首を横に振る。
「いえ、そんな。うちはすぐ隣ですから」
「俺が背負って連れて行きますよ」
直人が腰を上げようとしたが、トワは窓の外に目をやって「うーん」と唸る。
「この大雨の中だと、ちょっと大変なんじゃないかな」
言われて外を見ると、雨は激しく降っていて、カーテンのように景色を隠すほどだ。
「あ!」
小さく叫んで碧衣が立ち上がる。
「鍵をかけてきませんでした! 帰らなくちゃ」
トワは眉を顰めて悲しそうな表情を浮かべてみせた。だがいつまでも居座るわけにもいかない。
「お邪魔してしまって、本当にすみませんでした」
「いえ、かまわないよ。また遊びに来て」
笑美を背負った直人に防水のブランケットをかけてもらって靴を履く。
「その組み紐は……」
トワが碧衣の背中に声をかけた。振り返ると、鈴がちりんと小さく鳴った。
「ずいぶん古いもののようだね」
「はい。祖母の形見です」
トワがふわりと笑う。
「よく似合ってる」
その声はどこか遠い昔に向けて語られたように感じた。碧衣の髪に初めて組み紐を結んでくれた祖母も同じように褒めてくれたことを懐かしく思い出した。
「あれ?」
ほんの先ほど窓の外は酷い雨だったが、玄関を出て扉を閉めると青空が見えていた。
「通り雨だったのかな。ブランケットはいらなかったね」
歩き出した直人について行き、門を超えたところで碧衣は屋敷を振り返ってみた。
あんなに恐ろしかったのが嘘のように、今はこの洋館を見ると懐かしい気持ちでいっぱいになった。
笑美が起きるのを待って、温めなおしたピザを三人で頬張る。
「本当に覚えてないの?」
碧衣が笑美の顔を覗き込む。
「うん。なんだか頭がぼんやりして、お隣の門に着いたくらいから記憶があやふやだよ」
直人がスマートフォンで熱中症の症状について調べてから笑美に真面目な表情で語りかける。
「意識障害も熱中症の症状の一つだそうだよ。病院に行った方がいいんじゃないかな」
「だいじょうぶですよお。スポドリも飲んだし、ご飯も食べてるし、元気元気です。これから宿題もするし、夜はパジャマパーティーしますよ」
笑美は本当に元気に笑って見せる。
「でも、なにかあってからでは遅いよ。送っていくから、お泊り会はまたにして家に帰った方が……」
生真面目な直人の言葉に、笑美も真面目な表情になった。
「そうですね。また倒れたりしたら碧衣に迷惑かけますよね。よし!」
笑美は碧衣の両手をぎゅっと握る。
「碧衣、今日は帰るね。お盆過ぎたら、また来ていい?」
「もちろん。いつでも来てね」
「それでさ」
笑美が真剣な表情を見せる。
「お隣の人、イケメンだった?」
これくらい元気ならもう大丈夫だろう。碧衣も直人も、呆れ半分、安心半分、顔を見合わせて笑った。
笑美と直人を玄関先まで送っていった碧衣は、家の中に入る前に、ふと隣の洋館に目をやった。煙突から出ていた煙はもう見えない。居間には暖炉はなかった。
どんな部屋に設置してあるものなのだろう。本物の暖炉を見たことはない。ちょっと、見てみたい気持ちになった。
翌日、帰宅した母に事の顛末を語ると、大量の果物を渡された。神饌として神様に捧げた食べ物のお下がりだ。
「ご迷惑をかけたお詫びと、お隣になったご挨拶ですって、ちゃんと言うのよ」
同じことを三度言われた。高校生になっても信用がない、というより、引っ込み思案なため口ごもりがちなことを心配してのことだ。
碧衣もそれはわかっているが、やはり子ども扱いされ続けることを情けなく思う。
うつうつとした気分に浸りそうになって、慌てて首を左右に振った。長い髪がさらさらと肩の上で踊る。碧衣は気合を入れるため、組み紐で髪をまとめた。