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効かない真言

 お堂の中に入ってきて、ようやく杏の全身を見ることが出来た。

 碧衣を襲おうとした細身の男性の姿をしている。夏だというのに首周りに白いボアが付いたタートルネックのニットを着込んでいる。


 口が裂けることはなく、それでも左右にぎゅうっと引き上げられた笑顔は作り物めいている。目が糸のように細くなるほど力を込めた笑みが自然なもののはずがない。


 ちらりとトワを見ると、苦しそうな様子なのに、碧衣に『逃げろ』と目線で命じていた。

 碧衣がいる場所からお堂の扉まで直線で走っていける。杏に邪魔されさえしなければ逃げられる。だが、碧衣は動かない。


 両手で覚えたばかりの印を組み、顔の前に据える。

お堂に安置されている不動明王の像に心を寄せて真言を唱える。


「ナウマク サンマンダ バザラ ダン カン」


「へえ、不動明王を信仰してるの。真言も覚えていてえらいねえ」


 幼い子どものように扱われて、碧衣はほんの少し緊張を解いた。杏は碧衣がなにも出来ないと侮っている。だが、杏があやかしであるなら、どんなに小さな神力でも不動明王から借りてみせる。たとえ髪の一本でも切り取ってみせる。そこにきっと光明は差すはずだ。


「ナウマク サンマンダ バザラ ダン カン」


 杏が一歩前に出る。思わず視線がそちらに向く。

 いけない。心をそらしたらだめだ。


「ナウマク サンマンダ バザラ ダン カン」


 真言に集中しろ。心を仏に預けろ。そう思うのに、頭の中は雑念で埋まってしまう。怖い、逃げたい、泣き出しそうだ。


「ナウマク サンマンダ バザラ ダン カン」


 杏は碧衣の真言などまったく気にも留めず、軽快な足取りで歩いてくる。靴音が耳の底に響く。


「ナウマク サンマンダ バザラ ダン カン!」


「うん、うん。上手だねえ。声もきれいに出ているし、印も正確だ」


 杏は笑みを崩さない。

 いくら真言を唱えても、なんの力も持たない自分に仏の功徳が降りるはずもなかったのだ。唇を噛んで非力な自分を悔いた。


 自分に出来ることはないのか。なにかこの状況を打開する方法は。碧衣はめまぐるしく思考する。

 杏が妖艶な笑みを浮かべて、碧衣の頬に触れようと右手を伸ばす。

 護身術の成果か、自然と体が動き、杏の左脇に向かって避けた。


 チリン。


 その音を聞いた杏がビクリと震えて手を戻す。

 組紐だ。

 急いで組紐をほどく。チリンチリンと鳴る鈴の音に合わせるように碧衣の長い黒髪がふわりと踊る。

 自分を一度傷つけた組紐を、杏は警戒して動きを止めた。


「まいったなあ。それ、嫌いなんだよね。どこかに捨ててくれない?」


 碧衣は両手で組紐をぴんと左右に張って、杏に近づく。

 組紐を向けると、人の顔が崩れていく。

 口は裂け、鼻は尖り、目は吊り上がった。

 杏が、ぬるりと滑るような動きで碧衣の両手首をがっしりと掴んだ。


「つかまえた」


 舌なめずりする杏が碧衣の手首を強く握る。あまりの痛みに顔を顰めた碧衣の手から組紐が滑り落ちる。


「碧衣ちゃんは本当に美味しそう。ちょっと味見しようかな」


 碧衣を引き寄せようとした杏の力が弱まった。

 その隙を見逃さず、掴まれた両手を杏から引きはがす。

 肘を支点に右手を跳ね上げ、同時に左手の肘を杏の肘に向かって押し出す。その勢いのまま、杏に体当りして数歩下がらせた。

 組紐を拾い上げ、杏に向けて思い切り突き出す。


「ぎゃん!」


 甲高い声を上げて杏は飛び退った。


「あなたはキツネなんですね」


 息を切らしたまま言い当てると、杏は裂けた口をさらに引き上げて笑う


「よくわかったね。えらい、えらい」


 なにを考えているのか、杏は静かに組紐が当たり傷ついた二の腕を舐めている。

 また襲ってくるかと、碧衣は右手に組紐を巻き付けて杏を強く見据えた。


「あーあ。疲れちゃった。日も暮れたしアフタヌーンティーは終わりだね」


 あらかた傷を癒やしてしまった杏が背を向けてお堂の扉をくぐった。


「また遊ぼうね、碧衣ちゃん」


 そう言って振り返ったときには、杏の顔は人のものに変わっていた。暗くなった境内を、悠々と歩き去っていった。


 どさりと音がして、碧衣は、はっと振り返る。


「トワさん!」


 杏の呪縛が解けたのだろう。トワが床に倒れ込んでいた。

 慌てて駆け寄り顔を覗き込むと、青白くはあるがトワの表情にはまだ余裕があった。


「大丈夫ですか? どこか痛いところは?」


 首を横に振って、ゆっくりと体を起こす。


「ごめん、碧衣さん。また危険な目に合わせた」


 碧衣はトワの乱れた髪を梳こうと右手を伸ばしかけ、あわてて組紐を取り去る。


「大丈夫。その組紐は碧衣さんを害そうとするものから、守ってくれるものだから」 


 そう言うと、トワは碧衣の右手を取った。いつも感じているトワに対する懐かしさが、一気に膨れ上がる。碧衣が知らない感情が右手から、組紐から流れ込んでくる。


「トワさん、教えてください。トワさんが私のことを大切にしてくれるのは、祖母のためですか?」


 トワは顔を上げ、碧衣の視線を真っ直ぐに受け止めて悲しそうにうなずいた。


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