敵か?
姿が見えなくなっても、杏に対する恐怖心が消えない。あの大きな口で、喉に食らいつかれるかと思った。
「大丈夫だよ、碧衣さん」
トワに肩を抱かれて、見上げる。トワは力強く碧衣を見つめていた。
「きみは私が守るよ」
「トワさん、どうしていつも……」
碧衣に対する執着とも取れる感情の理由を聞きたかったのだが、グヒンが口を挟んだ。
「美味しそうな少女の独り占めは良くないぞ」
からかい口調のグヒンにトワは至極真面目に言い返す。
「碧衣さんは碧衣さん自身のものだ。他の誰のものでもない、独り占めなんて出来るわけがないだろう」
その言葉は碧衣の気持ちを震わせた。
いつもふらふら他人の言葉に流されて生きている自分を叱咤された気がした。
自分は自分として存在出来ているだろうか。誰かに依存して自分を甘やかしていないだろうか。
「トワは案外、スパルタだよな。お嬢ちゃん、つらくなったら言えよ。俺がかまってやるよ」
どんなかまい方をされるか、わかったものではない。そっとトワの陰に移動して、グヒンから身を隠す。
「トワさんは、いつも優しいです」
それだけは伝えておかねばと、一生懸命に声を振りしぼろうとしたが、出てきたのは細々とした呟きだった。
それでもトワには聞こえたようだ。一人で上機嫌になっていた。
碧衣の部屋に、いくつもの紙袋を持ち込んで、とりあえず部屋の隅に置いてみた。
先程見た、半分正体を現した杏の姿。今にも襲いかかろうとした鋭い牙。
それらを思うと、紙袋を開けるのが怖い。立ち尽くして紙袋を見下ろすことしか出来ない。
「杏は普段、人間に興味を示さないんだ」
トワが碧衣の手を引いて、座らせる。
「だから油断していた。ごめんね、怖い思いをさせて」
碧衣の手を放して、トワはうつむいてしまう。
「私がいると、碧衣さんは安心して暮らせないね」
次に出てくる言葉がわかった碧衣は、先手を打つ。出ていくなんて言わせない。
「怖くても大丈夫です。トワさんが、いてくれるから」
うつむいたトワの表情は見えない。
「きみを守るためには、私がいなくなることが一番なんだろうな」
トワの言動が行ったり来たりと揺らぐのは、感情の震えのせいなのだろう。ここにいたい、でもそれは危険を呼び込むことになる。
「トワさん。私、強くなります。安心してこの家で暮らして欲しいから。トワさんのために真言を覚えるし、祓詞だって暗記します」
顔を上げたトワは幼い子どものように真っ直ぐに碧衣を見つめる。
「私が今まで怖がって逃げていたもの全部、なんだって勉強します。だから、安心してください」
碧衣はきっぱりと言い切る。
「トワさん、ここにいてください。トワさんが安心していられるよう、私、強くなります」
碧衣が生まれて初めて発した、力強い願いだった。
翌日から、碧衣は神社に通った。巫女のバイトをしながら、父について神道と仏教を基礎から学ぶ。
家で一人でいるよりは安全だろうと、トワもついてきて、座学にも加わる。
トワは宗教学に精通していて、宮司が碧衣に教えることのほとんどを知っていた。
宮司は仕事上の顔を維持できず、甘い父親の顔をしてトワと問答したがった。それでは碧衣の勉強にならないと、朱里が何度も叱りにきて、やっと講義が前に進むという塩梅だ。
宗教学の話は宮司が伝えたが、神宮寺での憑き物落としの話は朱里から聞くことになった。
「憑き物落としの方法は流派によって、かなり違うらしい。うちは、憑き物を一旦、依代に移してから祓うの」
どうやら、そのことも知っているらしく、トワは無言でうなずく。碧衣は初めて知ることばかりで、どんどん与えられる知識の洪水に流されそうだ。
「流派の名前は関係者以外には秘密。碧衣にも教えられない。先代宮司と依代が亡くなってから、知ってるのは現宮司と私だけになっちゃった」
先代宮司は碧衣たちの祖父、先代依代は祖母だ。十年ほど前、事故で二人共に亡くなった。
碧衣はちらりとトワを見た。祖母を知っているらしいトワに聞きたいことがたくさんある。
「碧衣、よそ見しない」
鋭い声で叱られて、碧衣は首をすくめた。
結局、憑き物落としは家族といえども、関係していないものは部外者だった。
その部外者に教えられることはほとんどなく、基礎的な心構えと、朱里が身を守るために使う不動明王の真言を教わった。
それに加えて、憑かれた人が暴れたときのための捕縛術と護身術。
体力のない碧衣は訓練中、すぐにギブアップしたが、トワはあっという間に身に着けた。いや、元から知っていたのではないだろうか。碧衣がそう思うほど、トワの動きは自然だった。
「トワさん、出来たら碧衣の復習に付き合ってやってください」
成長の遅い碧衣には付き合いきれないと表情に丸出しにして、朱里は仕事に戻っていった。
「すみません、トワさん。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げると、トワは珍しく笑顔もなく「頑張ろうね」と応えた。
昼間は、お堂を使う予定はないからと、講義のあとそのまま復習することになった。
不動明王の真言を梵字で覚えることと、それに準じる複雑な手印は、なんとか形になった。
「まだ法力は込もってないけど、それでも無防備でいるよりずっといい」
どこか冷たいように聞こえるトワの声だが、今までが甘すぎたのだ。
いつの間にかトワに依存していると思えるほど、甘やかされることに慣れきってしまっていた。
しっかりしなくては。トワを守りたいと思うなら、どんな方法でも強くならなくては。自宅に匿っても、本当に安全なのか、確証はないのだ。碧衣が自分自身を守れなくては、トワの足手まといになるだけだ。
「護身術は身につけておいたほうがいい。いつなにが襲ってきても逃げられるよう……」
突然、ギシギシと木材が軋むような音がした。トワが身動きを止め、言葉も途中で止まってしまった。
「トワさん? どうしたんですか!」
苦しそうに顔を歪めるだけで、トワは声もない。
「邪魔されないように、縛っただけだから、心配ないよ」
お堂の扉が開いて、強い西日が差し込んだ。逆光で顔は見えないが、一度覚えた恐怖は声を聞いただけで蘇り、碧衣は後ずさった。
「……杏さん」
じりじりとお堂の奥へと退く碧衣を追い詰めるかのように、杏がゆっくりとお堂に足を踏み入れた。
「な、なにをしに来たんですか」
震える声で問うと、杏はからかうような口調で答えた。
「アフタヌーンティーに誘いに来たんだよ。ほら、はやく行こう。もうすぐイブニングになっちゃう」
明るい声に邪気はない。それなのに、背筋が凍るほどのおぞけを感じた。




