なごやかな昼食
食後の片づけを終えて、直人は二の間、女性四人は三の間に布団を延べた。四人並んで布団に横になっていると、修学旅行を思い出す。碧衣は楽しくなって眠気がどこかへ飛んでいた。
「そういえば、トワさん。お腹空いてないですか? 私、また泣き真似しましょうか?」
トワを挟んで向こう側にいる笑美が言う。笑美の泣き真似をまた見るのも楽しいかもしれないと思っていると、トワが答えた。
「昨夜、碧衣さんの涙をたくさんいただいたから、大丈夫だよ」
「碧衣ってば、怖くて泣いちゃったんだ」
ニヤニヤしながら朱里に指摘されて、碧衣は真っ赤になった。からかわれたからというよりは、トワの唇の気持ちよさを思い出したからという理由の方が大きい。
「トワさん、私の涙と碧衣のと、どっちが美味しかったですか?」
笑美の問いに、トワは、ふふふと笑ってみせた。
「さあ、どうだっただろう。また飲ませてもらったら、しっかり覚えておくよ」
「いつでも言ってくださいね! 泣きますから!」
元気良く言いながら、笑美は両こぶしを握って、天井に突きあげた。
楽しいおしゃべりも、十分もしたら静かになった。笑美の寝息が聞こえてきて、皆、黙ったのだ。朱里が眠った気配がする。碧衣もつられて目を閉じると、そっと手を握られた感触がある。
幼い頃、暗い部屋を怖がる碧衣の手を朱里が握ってくれていたことを思い出した。そっと目を開けると、手を握っていたのはトワだった。トワも不安なんだろうか。碧衣は手を握り返して、眠りに落ちた。
昼過ぎには皆、起きだした。最後まで寝ている笑美を置いたまま着替えていると、父が帰ってきた。朱里が中途半端に着替えかけたまま、襖を開けて顔だけ廊下に出す。
「おかえりなさい」
「靴の数がすごいねえ。お客さんかな」
「碧衣の友達が泊まってるの。着替え中だから覗かないでね」
「はいはい」
のんびりした口調で父が返事をした。廊下を歩いていく足音を聞いていると、歩き方ものんびりしているようだ。
「優しいお父さんなんだね」
いつの間にか着替え終わっていたトワが言う。碧衣はうなずいたが、朱里は首を横に振った。
「厳しくて怖いです」
二人の感想の差は、家庭でしか父と触れ合わない碧衣と、日常的に仕事で鍛えられている朱里の視点の違いだ。
布団を上げて廊下に出ると、食卓で父と直人がおしゃべりをしていた。なにを話しているのかと思えば、怪談だった。碧衣が耳を塞いで後退さる。
女性たちがやって来たことに気付いた父が廊下に目を向けた。直人も話しやめて振り返る。
「皆、昼食がまだだってね。私が準備しよう」
立ち上がった父に朱里が言う。
「お父さん、私がやります」
だが、父は聞く耳持たずという風情で、台所の水屋箪笥から大量のカップ麺を取り出してきた。
「お父さん、カップ麺は塩分が多いから……」
「いやだ! やっと潔斎期間が終わったんだ! お父さんはジャンクなものが食べたい!」
子どものように駄々をこねる父と朱里の攻防はしばらく続いた。父が祭礼の間、どれだけ大変だったかを知る朱里が折れ、全員でカップ麺を啜ることになった。
それぞれに好きなものを取る中で、トワは一人、動かない。父がトワに笑いかける。
「あなたは人間の食べ物は摂らないのかな」
笑美と直人は目を丸くした。なにも知らないはずの碧衣の父親が、トワが人間でないことを易々と見抜いたのだ。だが、よく考えれば朱里でさえも気付いたことだ。憑き物落としの力を持つ父が気付かないはずはなかった。
「ええ。摂取しても栄養にはならないので。食べられないということはないのですが」
「それなら、ぜひ浅漬けを……」
いそいそと冷蔵庫を開けようとする父を、朱里が力づくで止める。
「カップ麺に加えてお漬物なんて、ダメに決まってるでしょう。それに浅漬けは、皆、朝ごはんにモリモリ食べました」
父はシュンとして、やかんを火にかけた。
「若い人はいいなあ。食事制限なんてしなくていいんでしょう」
誰かに話しかけているというより、独り言のようだ。朱里は完全に無視してカップ麺のフィルムを剥がしていく。皆も遠慮がちに自分の食料を開く。
トワは碧衣の側に立ち、遠野らーめんと書いてあるパッケージをしみじみと見つめた。
「遠野にもご当地ラーメンがあるんだねえ」
あまりにものんびりした口調がトワらしくなく、碧衣はクスリと笑った。
「なに? どうかした?」
クスクスと笑いが止まらない碧衣は、言葉にならない感情を伝えようというのか、トワの腕に手をかけた。
「トワさん、ご当地ラーメンなんて、知ってるんですね」
碧衣の明るい表情を堪能してからトワが答えた。
「幻想文学しか書いていないといっても、一応、小説など記しているからね。知識欲はあるんだよ」
相変わらず楽しそうな碧衣の横から、笑美が顔を突き出した。
「トワさん、小説家なんですか!?」
「まあ、そうとも言えるかな。小説を買ってもらっているから」
笑美がキラキラと目を輝かせる。
「生きている小説家に初めて会いました!」
父が楽しそうに口を挟む。
「死んでいる小説家には、会ったことがあるのかい?」
笑いの琴線に触れたようで、笑美は腹を抱えて笑い出した。
「な、ないですぅ」
息も絶え絶えに答えた笑美を見て、父は満足げだ。
「若い人にウケたよ」
「はいはい」
朱里からぞんざいな扱いを受けても機嫌の良さは変わらない。トワは皆の表情を見渡して寛いだ様子を見せた。
「碧衣さんの周りは優しい人ばかりだね」
女性の会話に入りづらく黙っていた直人が尋ねる。
「それって、俺も入ってますか?」
「もちろん」
トワが返事をしてやると、直人ははにかんで笑った。
なごやかな食卓に、皆、満足して昼下がりの食事を終えた。
「お父さん、お願いがあるんですけど」
食後のお茶を飲みながら碧衣がそっと口を開く。
「なんだい?」
「しばらくの間、トワさんに泊まってもらっても……」
「いいよ、いいよ。若い女性は大歓迎」
「お父さん、それはセクハラです」
朱里にたしなめられて、そっと肩を縮めたが、父はもう一度「大歓迎」と繰り返した。
トワは驚いたようで薄く口を開いたまま父を見つめた。
「どうかしたかい?」
「事情も尋ねずに、見ず知らずの私などを家に上げてくれるのですか」
父はにっこりと大らかに笑ってみせた。
「碧衣のお友達なら、いつでも遊びに来て欲しいし、いつまで泊まってくれてもいいよ」
トワの表情が、今まで以上に明るくなった。
直人は帰って本格的に寝ると言い帰っていったが、笑美はイケメンから離れ難いといつまでも居座ろうとしている。
「笑美、スマホ鳴ってるよ」
マナーモードらしく着信音は鳴らないが、振動で着信がわかった。だが笑美は気づかないふりをし、碧衣の言葉も聞こえていない風を装う。
「お家からじゃない?」
笑美はそっぽを向いて口笛を吹き出した。どうしても出たくないらしい。翻って、電話をかけている人物は、どうしても笑美と通話したいらしく、いつまでもいつまでもスマホは振動し続ける。
「笑美さん、もう諦めたら」
トワがにこにこと話しかけると、笑美はつられて笑い、スマホを手に取った。
「いったい、どこでなにしてるのー!」
ものすごい怒鳴り声が碧衣とトワにまで聞こえる。笑美はスマホを耳から離した。
「この忙しいのにフラフラ出歩いて! すぐに帰ってきなさい!」
笑美が恐れおののいていると、怒鳴り声がもう一度流れてきた。
「返事は!」
「はいー……」
情けない小声の返事でも満足したのか、通話は切れた。スマホに表示された文字を確認して、笑美が青ざめる。
「うわ、着信履歴、三十件とか……」
「今の電話はご家族からかな?」
トワは楽しそうに尋ねるが、答える笑美は泣きそうだ。
「母です。お盆前は手伝わなきゃなんですう」
「ご、ごめんね、笑美。昨日帰らなきゃいけなかったんだよね。泊まらせちゃって」
慌てる碧衣に笑美は手をひらひら振ってみせた。
「大丈夫、大丈夫。お尻を叩かれるわけじゃないから。んじゃ、私は帰ります。お盆明けにお会いしましょう」
そう言い置くと笑美は荷物をごそっと鞄に突っ込んで駆け出していった。
「たいへんそうだね」
「夏休みは毎年、あんな感じです」
「笑美さんも、碧衣さんも、しっかりお家の手伝いをしていて偉いね」
「そんなそんな。笑美は偉いですけど、私は全然です」
「謙遜しなくていいのに」
トワに頭を撫でられ、碧衣は困惑した。子ども扱いされたようでいて、どこか甘さを感じる。
「そ、そうだ。トワさん、着替えとか、どうしましょう。父のもので良ければサイズも合うと思うんですけど」
「お借りするのは申し訳ないな。買いに行こうかな」
「お家を突然出てきましたけど、お財布は持ってるんですか?」
「うん。ここに」
トワが真っ白なシャツの胸ポケットをポンと叩くと、今まで平らだったはずのポケットが膨らんだ。そのポケットから折りたたみ式の財布を出してみせる。碧衣はぽかんと口を開けた。トワはクスリと笑う。
「ひみつのポケットだよ。誰にも言わないでね」
コクリと頷いて、なぜか顔が熱くなる。二人だけのひみつなのだろうか。もしかしたら、そうなのかもしれない。なにやら気恥ずかしくてうつむいた。




