百物語はじまりました。
黒春直人が怪談を披露いたします。苦手な方はお気を付けください。
直人と笑美は三十分ほどで帰ってきた。アイスを買ったために、帰りは走って来たらしい。汗だくの二人のために朱里が冷茶のお代わりを淹れて運んできた。
「わあ、青いろうそくって、思ってたよりもずっときれい。それとね、百物語の参加者は青い着物を着るんだけど、浴衣でいいわね。皆の分、持ってくるから」
ぱたぱたと足音を立てて朱里が部屋を出ていき、すぐに様々な模様の藍色の浴衣を抱えて戻ってきた。
「笑美ちゃんは碧衣の浴衣で丈が合うと思うんだ。直人くんは父の浴衣をなんとかたくし上げて着てほしいです。トワさんは、申し訳ないんですけど、長身に見合う女物がなくて。父の浴衣で勘弁してください」
一人一人に手渡しながら朱里はぺらぺらと説明した。
「あの、俺、浴衣の着付けはしたことないんですけど」
「私が着せてあげるから安心して。笑美ちゃんとトワさんは碧衣が面倒見てね。ろうそくを立て終わったら着替えて。それから晩ご飯にしましょう」
早口で捲し立てて朱里はまたぱたぱたと階段を下りていった。
完成したろうそくを朱里に指示された部屋に運ぶ。大きな盆を三枚使って、ずらりと並べた百本の青いろうそくは壮観だ。
部屋には文机が据えられ、その上に手鏡が置いてある。碧衣と笑美が手鏡をしげしげと見つめていると、直人が説明した。
「ろうそくを吹き消したら、鏡を覗いてから部屋を出るんだ。自分が怪異に憑りつかれていないことを確認するためにね」
真っ暗な部屋でろうそくの明かりの元、鏡を覗き込む。自分の後ろに人影が見えたら……。碧衣は想像しただけで震えあがる。直人と笑美が火を消しやすいろうそくの配置について語り合っているが、碧衣の耳には入っていない。
「碧衣さん」
トワが碧衣の背中をそっと撫でた。
「大丈夫。怖いことはなにも起きないよ」
碧衣は何度目かの慰めの言葉に、深くうなずく。トワの言葉に共鳴したかのように、組み紐の鈴がちりんと鳴った。
夕食は野菜の浅漬けとそうめんという夏らしくもヘルシーなメニューだ。全員そろって食卓につく。黙々と食事が進む中、トワはほんの少しそうめんを口にしただけだ。トワが箸を置くと、朱里がちらりと目を向けた。あまりにも小食なことになにか言われるのではないかと碧衣が危惧したが、とくになにもないまま、食事は終わった。
食卓の片づけをしながらも、碧衣は時計を気にして、ちらちらと視線をさまよわせる。とうとう百物語の開始時刻が近づいていた。怪異が起きようが起きまいが、怪談が怖いことに変わりはない。
玄関で呼び鈴が鳴った。碧衣は大げさなほど驚いて飛び上がりそうになる。
「はーい」
朱里が大きな声で返事をして玄関へ向かう。
「だ、だれ? こんな時間に」
碧衣の脅え方を見ていて、つられて怖い思いをしていた笑美が碧衣の腕に縋りつく。
「ただいま」
「お帰りなさい。お疲れ様です」
玄関から元気な女性の声がする。碧衣がほっと胸を撫でおろす。
「お、お母さんだ」
力が抜けた様子の笑美に直人が「怖がるのは、まだ早いよ」と脅すような口調で言う。
「やめてくださいよ、直人先輩!」
母が部屋に入ってきて、皆をぐるりと見渡す。
「いらっしゃいませ。碧衣と朱里の母です。皆さん、浴衣なのね。花火でもするの?」
朱里と似た、シャキシャキとした話し方の母に、百物語のことを話してもいいものかと目を見かわす。
「あら、あなた、すごくきれいねえ。もしかして、お隣の洋館の方?」
「はい。茜部と申します」
やはり朱里同様、母もトワの美しさに目を留めた。トワが外見についての感想をさらりと聞き流したのも同じだ。
朱里がぱたぱたと足音を立てて廊下をやって来た。
「お母さん、荷物は奥に運んだよ。それでね、今日、二の間と三の間で百物語するから」
「あら、楽しそうねえ。火の扱いには気を付けてね。じゃあ、皆さん、楽しんでくださいな」
そう言い置いて家の奥の間へ入っていく母の背中を、碧衣は救いを求めて見つめたが、百物語を止めてくれる様子は微塵もない。ぱたんと奥の間の襖が閉まった。
「片付けも終わったし、始めよう」
朱里が意気揚々と百物語の作法のおさらいを始める。
「真っ暗にした部屋に参加者が集まって、怪談を披露する。話し終えたら隣の部屋に移動してろうそくを一本吹き消す」
話しながら皆を手招き、真っ暗な部屋とろうそくを並べている部屋の襖を開けて中を見せる。ろうそくの部屋には明かりがついている。碧衣は明かりがついていれば安心だとほっとしかけた。
「じゃあ、ろうそくに火を点けていきましょう。皆、マッチかライター、好きな方を使って」
碧衣は逃げたい気持ちが表に出て後退さったが、朱里は容赦なく、碧衣にマッチ箱を押し付けた。
「急がないと、ろうそくは大したサイズじゃないから、話し終えないうちに火が消えちゃうかも」
笑美が三本目のろうそくに火を点けながら質問する。
「途中で消えちゃったら、どうするんですか?」
「怪異が起きるって言われてるから、怪異に備えて震えるしかないんじゃないかな」
笑美が顔を引き攣らせ、素早く手を動かしていく。碧衣も慌ててマッチを擦ろうとした。だが指先が震えて一向に火はつかない。
「貸して」
トワが碧衣からマッチを受け取り、火を点けた。碧衣が狙っていたろうそくに火を移す。
「その火を他のろうそくに移していってね」
こくりとうなずく碧衣の代わりに朱里が礼を言う。
「妹が甘えちゃって、すみません。いつまでも子ども気分が抜けない子で」
口を開いても朱里は手を止めない。トワも素早く働きながら返事をした。
「高校生なら、もう少し子どもでいても、いいかもしれないね」
百本のろうそくに火を点け終わったときには、点け始めのものの蝋がかなり溶けていた。
「急いで始めましょう!」
直人が隣の真っ暗な部屋に飛び込む。皆が後に続き、朱里がろうそくの部屋と廊下の灯りを消した。真っ暗だと思っていた部屋は真の闇と思える暗さになる。
「ひい……」
碧衣が小さく呻く。隣から手が伸びてきて、緊張と恐怖で冷え切った指を握られた。びくっと身を竦めたが、すぐにトワの手だと気づいた。何度も握られた滑らかな肌。心地よい感触に、少し心が落ち着いた。
「一番、誰から話す?」
闇の中、襖の辺りから朱里の声がする。視覚を塞がれ、誰がどこにいるのか分からない空間で、声は異様に歪んで聞こえる気がする。
「じゃあ、俺から」
直人が嬉々として語りだす。
「廃村になった鞴村の診療所の話だ。村の最後の住人が町に移住するときには、もう診療所は閉院していた。だが……」
雰囲気を出すためだろう。直人は言葉を切って間を取る。碧衣が、まんまと怖がり、トワの手に縋りつく。
「診療所からは、夜な夜な、電動ドリルが骨を削る音が聞こえていたんだ。それは村に最後まで残っていた人の手術中に響いていた音。その人は何度も何度も自分の痛みを思い出しながら暮らし続けた」
しんと静まった部屋の中にドリルの音が聞こえる気がして、碧衣も笑美も耳を塞ぎたい気持ちになっている。
「その人が移住して、完全に廃村になった村には、肝試しの若者がやって来るようになった。ある日、二組のカップルが村で宿泊しようと、廃墟を探索した。まともに泊まれそうなのは、最後の住人の家、診療所に最も近い家だった」
ぶるぶる震える碧衣の手をトワが撫でる。
「深夜にドリルの音がした。これが噂に聞く怪異だろう。四人は足音を忍ばせて診療所に近づいた。窓からそっと中を覗くと……」
直人が声を低める。
「白衣を着た老人が、自分の膝に電動ドリルを押し込んでいた。辺りは血の海で肉片らしきものも飛び散っている。思わず若者たちは叫び声をあげた。老人が四人に気付き、ゲラゲラと笑い出した。四人は車に飛び乗り、街まで逃れた。翌日、ニュースで鞴村の診療所から穴が穿たれた大量の白骨と、白衣の男性の変死体が見つかったことを知った」
直人の囁き声が背筋を凍らせる。
「昨夜、彼らが見た白衣の男は、生きた人間、村に最後まで残った老人だったんだ」
無言で直人が立ち上がった気配を感じる。とすっ、とすっ、と足音が襖に近づく。
「あいた!」
朱里の声がする。
「す、すみません。蹴とばしちゃって」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと避けるから待って」
なんだかんだと言いながら道を開けられたらしく、襖が開いた。電気もなく、月光もないというのに、廊下は部屋の中より少し明るいようだ。部屋の中にいる皆の輪郭もうっすら見える。
直人の怪談に震えあがったが、人が怖いという話だったことが碧衣には救いだった。おばけは突然やってくるが、変な人は気を付けていれば会わなくて済むような気がしている。
「ろうそく消してきました」
「鏡も覗いた?」
朱里が部屋に入ってきた直人に確認する。
「もちろんです」
やる気満々といった様子の直人が羨ましくて恨めしい。
「次、碧衣」
朱里に指名されて碧衣は飛び上がりそうになった。怪談のレパートリーなど自分の中にあるわけがない。
「早く。ろうそくが溶けちゃうでしょ」
そうだ、急がなければ怪異が起きるかもしれないのだ。
「しょ、小学校の女子トイレ、奥から二番目の個室のドアを叩いて『花子さん、遊びましょ』って言うと、『はあい』って返事が来るって……」
場がしいんと静まった。皆の息遣いさえ聞こえない。誰もいなくなってしまったのかと、碧衣は耳をそばだてる。
「……それだけ?」
笑美の声がする。
「そうだよ」
プッと、誰かが噴きだした。それが伝染したのか、部屋中に笑い声が響く。
「え、なに? なに?」
事情が飲み込めない碧衣は闇のなか、きょろきょろと目を動かす。なにも見えないが、先ほどまでの緊迫した空気はどこかへ行ってしまった。
「碧衣さんらしい、かわいい怪談だったね」
トワが感想を述べると、笑い声はさらに大きくなった。理由は分からないが、自分の話は、どこかおかしかったらしい。笑われたことにムッとしたが、おかげで恐怖はどこかへ行ってしまった。
「ろうそく、ろうそくを消しておいで」
朱里が咽ながら指示を出す。トワが碧衣の手を優しくぽんぽんと叩いてくれてから、そっと離した。たった一人、笑わずにいてくれたトワに感謝の念が絶えない。その恩に報いるため、早くろうそくを消そうと手探りで襖を開けた。




