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トワのケガ

 トワはほんのわずか口の端を上げたが、はっきりした笑みになることなく、目を閉じた。


「トワさん!」


 驚いた碧衣が呼びかけても、トワは目を開かない。急いで呼吸を確認すると息はある。気絶しただけのようだと一応安心はしたが、ケガは重い。

 トワが人でないのだと知れた今、救急車を呼ぶわけにはいかない。自分がなんとかしなければ。


 傷の様子を見ようと乾いた体液を指で拭うと、紫色はすっと消えた。蒸発したかのように一瞬でなくなったのは、どういうことか。


 碧衣が触れたせいなのか確かめるために、トワの頬をもう一度撫でる。やはりすぐに紫色の汚れは取れ、真っ白な肌が現れた。小さな切り傷を撫でると、紫色が取れただけでなく、傷が塞がる。


「なに、これ」


 思わず声が出た。自分の両手を見下ろすが、とくに変わったところはない。呆然としていると、トワが呻いて顔を顰めた。

 今は考えている場合ではないと、碧衣はトワの肌を撫でさする。

 頬の大きな傷も、切り裂かれた左手も、何度も撫でているうちに何ごともなかったかのように消えてしまった。


 トワの服に鈎裂きと汚れがあるだけで、ケガをしたことなどなかったようにしか見えない。

 碧衣は自分の両手を見下ろした。裏表と何度も反してみたが、普段と変わった様子はない。ケガを癒す力などあるとも思えない。

 問題はトワにあるのだろうか。


 気を取り戻したトワがゆっくりと目を開いた。心配そうに自分を見下ろす碧衣を、ぼんやりと見あげる。


「大丈夫ですか?」


 囁く碧衣の頬に手を伸ばし、そっと触れた途端、悲しそうに顔を歪めた。泣きそうな視線をそらして静かに起き上がる。


「怖い思いをさせてごめん」


 なんとも返事が出来ず碧衣は黙り込んだ。怖かったことは確かだ。だが怖いと思う気持ち以上に知りたいことが多すぎた。


 なにから聞いたらいいか迷っている間にトワは立ち上がり、碧衣の手を引き立たせてくれた。すっとトワの手が離れていく。今までなら握った手をなかなか離してくれなかったのに。


「ついていてくれたんだね、ありがとう」


 弱々しい声で話すトワと視線が合わない。まるでここにいないものにされているように感じて、碧衣はとても寂しくなった。自分の手をぎゅっと握る。


「トワさん、あれは、なんだったんですか?」


 トワが顔を上げて碧衣を見つめる。一気に百歳も二百歳も年をとってしまったように、トワは疲れ果てていた。


「ごめん、今日は帰ってくれる? この家を出れば、もうあんな目には会わないから」


 質問に答えることなく視線をそらす。突き放された碧衣はもう口を開く気にはなれなかった。

 トワさん、あなたはなにものなんですか?


 そう聞いてしまったら、トワは目の前から消えてしまうのではないかという気がして。




 翌日は碧衣の父が宮司を勤める霧舞神社の夏の大祭当日だった。

 トワの家を出ても様々な疑問が頭の中をぐるぐる回っていたが、帰宅するとすぐに神社に向かい、そのまま徹夜で巫女のアルバイトに就いた。

 色々と考える時間もなく、バタバタしているうちに、大祭は無事に終わった。


「上野部さん」


 もうすぐ昼時という時刻。祭の後の直会という行事の手伝いに走り回っている碧衣を呼び止めたのは直人だった。


「黒春先輩! どうしたんですか?」


 授与品の入った紙袋を両手いっぱいに抱えた巫女装束の碧衣に、直人は「手伝おうか?」と尋ねる。


「いえ、これは私の仕事ですから。それより、今日は参拝にいらしたんですか?」


「うん。せっかくだから普段見られないお祭りの様子を見せていただこうと思って。忙しいのに呼び止めてごめん。じゃあ、もう行くね」


「待ってください!」


 踵を返そうとした直人に、碧衣は紙袋を取り落としそうな勢いで追いすがる。


「教えて欲しいことがあるんです。待っていてもらえませんか?」


 直人は思いもよらぬ幸運に出会ったかのように明るい笑顔を見せた。


「もちろん、いいよ。その辺をぶらぶらしてるから、仕事が終わったら連絡して」


「ありがとうございます」


 深々と頭を下げた碧衣に手を振って直人は社殿の方へ去っていく。夏の日差しが、敷き詰められた玉砂利に反射して眩しい。

 その中を飄々と歩く直人の背中が頼もしく見えた。


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