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記憶のない僕らは  作者: 青山 立
第2章 永薪食堂とオヤジさん
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(100) Area 3 Sea 商店街のはずれの食堂

 初めて来た場所で、初めて出会った人と普通に食事をしている。


 会話は弾まないどころか、ひどくちぐはぐだったけれど、息苦しさは感じなかった。

 

 今思えば、記憶とともに感情までも欠落していたのかもしれない。この時、僕は感情の起伏をほとんど感じてはいなかった。


 ただ、何もかも初めてのはずなのに、この食堂の中にあるテーブルや時計、そして空気までもが無性に懐かしくて、僕はとても居心地がよかった。ゆっくりと柔らかな時間が流れていていった。


 用意された食事は、どれも本当に美味しいものばかりだったけれど、僕の体は長い眠りから覚めたように、ゆっくりとしか動くことができず、食事にはひどく時間がかかった。永薪さんはそんな僕の様子に気がついて、スピードを合わせてくれていたのだろう、パンを小さくちぎってはゆっくりと口に運んでいた。


 食事を始めて小一時間ほど経った頃、僕は再び永薪さんに質問をした。


「あの……永薪さんは、僕のことを何か聞いていますか?」


 僕の問いが聞き取れないのか、それとも質問の意図がわからないのか、永薪さんは何も言ずに食事を続けている。


 聞いてはいけないことだったんだろうか?

 僕はこの時、この食堂に来てから初めて不安な気持ちにかられていた。


「えっと、施設の人から説明があったんじゃないかと思って……」


 僕の声は、不安が大きくなるにつれて、どんどん小さくなり、終いには、言葉が口の中でモゴモゴと絡まってしまった。そして、それ以上言葉が出ず、体までガチガチに固まってしまった。


 そんな僕を見つめながら、永薪さんはゆっくりと首を横に振って、

「詳しい事情は知らない。何も聞いていない」

 と言った。


 それから間もなくして食事が終わり、僕が「ごちそうさま」と言うと、永薪さんはさっと立ち上がり食器を片付け始めた。

 片付けを手伝うため、僕も続いて席を立とうとしたが、永巻さんは僕の肩に静かに手を置くと「ここで休んでいなさい」と言って、慣れた手つきで二人分の食器をトレーにまとめて、暖簾の向こうに消えていった。


 静かな食堂に、カチャカチャと食器を洗う音が響く。

 食堂のカウンター横に佇む大きな古時計が、六時の鐘を鳴らしはじめた。


 ボーン・ボーン・ボーン・ボーン・ボーン・ボーン


 夕暮れの小さな食堂に、すりガラスを抜けた淡い光が差し込んでいる。繰り返す古時計の音に揺られながら、僕は夢の中にいるんじゃないかと思わずにはいられなかった。


 ここでの生活はこの時計の音のように、ゆっくりと進んでいくのだろうか?


   ◇     ◇     ◇


 食事の後、僕は椅子に座ったまま、うつらうつらしていて、時間の感覚を失っていた。


 外が薄暗くなってきた頃、僕は食堂の二階に案内された。二階には部屋が三室あった。


 階段を上がって左右に和室が一室ずつ、そして廊下の突き当たりに洋室が一室あり、その洋室が僕の部屋として空けられていた。部屋のドアは半開きになっていて、空いたドアの隙間から木製の机とベッド、そしてスタンドライトが見えた。部屋に入ると、ドアで隠れていて廊下からは見えなかった部屋の左側には、洋服のかかったラックがあった。


「おまえの部屋だ。この部屋にあるものは、好きに使えばいい」


 永薪(えいまき)さんはそう言うと、クローゼットの扉を開けた。そのクローゼットは、古い押入れをリフォームして扉をつけたような造りで、中は上下二段に分かれており、上段には毛布やシーツが、下段には冬服が半透明のプラスチックケースの中に綺麗に畳んで入っていた。


「ありがとうございます」


 僕は返事をしながら、部屋を見回した。


 八畳ほどの四角い部屋で西側と南側に窓があり、空気を入れ替えていたのか両窓とも開いている。窓は二重窓になっていた。二重窓がこの地域には珍しいものだということは、ずいぶん経ってから知った。

 ベッドには既に布団が敷いてあって、掛け布団や枕にはベージュ色のカバーが掛けてあった。


 この部屋はさっき食事をした食堂のダイニング部分の真上にあるようで、西側の窓の外に沈んだばかりの夕日の残照が覗いて見えた。


 机とベッドの傍までいくと、昨日からの疲れがどっと出てきて、足元がふらついた。机に手をついて、倒れそうになる体を支える。


 手をついた机の端に『海』という文字が刻まれているのが目に入った。

 少し落ち着くと、僕はゆっくりとその文字を指でなぞった。


「う、み……」

 耳の奥で、小さく波の音が聞こえる。


「海は好きか?」

 僕が考えていることを探るように、永薪さんが尋ねた。


「たぶん、好きだと……。いや、好きだったんだと思います」

「そうか」

「すいません。なんだか上手く考えられなくて」


 僕は自分の気持ちを、好きとか嫌いとかを、自然に感じることができなくてもどかしかった。自分という存在がわからなくなり、息が詰まってしまいそうだった。


 海という言葉を聞いても、海に関する知識しか出てこない。何かを好きと感じるには、今までの記憶や思い出が必要なのかもしれない。思い出して感じたり比較できるような記憶がなくて、自分の気持ちを上手く捉えられず、曖昧にしか答えられない。


「初めから無理をする必要は無い。今日はとにかくゆっくり休むといい」


 僕の行き場のない気持ちを察したのか、永薪さんはそれ以上に問うことはせず、静かに部屋を出て行った。


 ドアが小さく音を立ててパタンと閉まり、僕は一人になると、今日一日の出来事が走馬灯そうまとうのように蘇ってきた。


 できればもう少しゆっくり部屋を見て回りたかったが、体が重くていうことを聞かなかった。とにかく、眠くて眠くてどうしようもなかった。


 仕方なくベッドに腰掛けると、座ってさえいられず、すぐに横なってしまい、目を閉じるとあっという間に意識が遠のいていくのを感じた。


   ◇     ◇     ◇


 何時間経ったんだろう。目が覚めると窓の外は真っ暗で、部屋の空気はすっかり冷えていて肌寒く感じた。


 喉がひどく乾いていて、頭がズキンズキンと痛んだ。すぐには体を起こすことができず、横たわったまま、しばらく頭を抱えていた。


 何分経っただろう、できるだけ我慢してみたけど、痛みが治まらない。

 薬をもらいに行こうと思い、なんとか起き上がると、水の入ったグラスとサンドイッチ、そして、痛み止め薬が、机の上に置いてあるのが目に入った。


 眠っている間に、永薪(えいまき)さんが持ってきてくれたのだろう。


 お腹は空いていなかったが、薬を飲むには何か少しでも食べたほうがいいだろうと思い、サンドイッチを手に取った。きっと、さっき様子を見にきてくれたばかりなのだろう、頬張ったサンドイッチの中身の卵がまだ少し温かかった。


 机の上に置かれた時計が十一時半を指している。窓から覗く夜空に浮かぶ雲が、月に掛かるカーテンのように揺れては形を変え、流れていく。


 出会ったばかりなのに、どうして、こんなによくしてくてるんだろう……。


 サンドイッチをなんとか半分ほど食べ終わると、薬を飲んで、僕はまたベッドに横になった。


 夜の闇は世界中の音を吸い込むように深く、時間がだけがゆっくりと流れていく。


 この時の僕は、何も知らない空っぽの存在だった。

 そして、これからの生活を想像して、少し臆病になっていた。


 それでも、ちらちらと雲間から顔を覗かせる月を見上げていたら、静かに、また眠りに落ちていた。


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