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記憶のない僕らは  作者: 青山 立
第1章 記憶を失った主人公と研究員B
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(105) Area 1 Rewind 記憶のない人間

 --記憶のない人間-- #僕


 二一〇二年 秋


「おまえみたいなキオクナシはな、余計なこと考えずに、ただ黙って働いてりゃいいんだよ!」


 冷たい言葉が古びた工場内に響く。


 言い返すことなどできない。いや、そんな気力など出ない。


 そう、こんなことは日常茶飯事だ。それならそれで、こんなことは慣れてしまえれば楽なはずなのに、諦めたはずの心の何処(どこ)かがまた凍る。


 工場の片隅で、僕は立ち尽くしていた。

 窓の外に見える薄汚れた落書きだらけのビルの壁が、この街の治安の悪さを物語っている。


 体が重い。

 僕はゆっくりと振り向き、作業台に向かう。

 積み上げられた箱に入った小さな部品を手で握る。

 手の中にあるはずの部品を感じることができない。

 足元から崩れ落ちて、ここにいる感覚があやふやになる。

 感情が麻痺して動かなくなっていく。


 その時、突然背後で何かが床に落ちたような物音がした。


 現実に引き戻された僕は、手の中の部品を握り直すと、『考えても仕方がないこと』と呪文のように何度も自分に言い聞かせて、流れてくる何になるかも知らない機械の一部に、その部品を組み付けた。


 僕には記憶がない。


 この地区では「キオクナシ」——つまり、MCP(記憶制御された者メモリーコントロールドパーソン)は珍しくはないが、それでもMCPに対する世間の風当たりは強い。


 MCPに対する理不尽と思われるような非MCP(記憶制御されていない者)の冷たい態度は、ここでは当たり前のこと。反論することは容易ではない。なぜなら、MCPは犯罪者だからだ。


 MCPである僕らは、いくら身に覚えがなくても、過去の自分が選んだ()()()()()()()を生きていくしかない。


 僕は、自分の身体はただの器で、まるで自分自身が知らない人間であるような感覚に襲われる。いいや、きっと、本当はそう思わないと立っていられないだけ。


 僕は、知らない人間の身体という名の空っぽの器に入った記憶のない存在。そして、そう、これはきっと長くて醜い夢で、目が覚めれば記憶のある誰かに戻れるんだと、来る日も来る日も願っている。


 ここに来て、一体どのくらいの時間が経ったんだろう。

 

 今ではずいぶん昔のことのように感じるが、数ヶ月前、この工場で働き始めた頃に、MCPでいるというのが、どのようなことなのかを『回復者』の男が話しているのを聞いたことがある。


『回復者』というのは、記憶を取り戻した『元MCP』のことだ。


 MCPが記憶を回復する時に、MCPだった時の記憶を失ってしまう場合がある。その『回復者』はMCPだった時の記憶を保持していた。


 『回復者』は光を失った目で虚空を見つめながら『キオクナシでいる間は、夢を見ていても、夢から覚めても、自分がどこにいるのか、誰なのかわからない。目覚めている、生きている確信が持てない。自分が存在していないようで、地に足がついていない、そんな感覚が、何をしていても、どこにいてもつきまとうんだ』と言っていた。


   ◇     ◇     ◇


 工場の入り口の上に掛けられた時計の針が一時を指した。

 いつの間にこんな時間になったんだろう……。


「お疲れ様でした」


 僕は誰に向かってという訳でもなくそう言うと、帰る準備を始めた。返事は聞こえないが、何も言い返されないということは帰ってもいいということ。


 一体、今日は何月何日だったっけ?


 向かいの通りで街灯がカチカチと瞬いた。一瞬、瞼の裏に僕に似た目を持った女性が映った気がした。夜空はかすんでいて、水たまりに石ころを落とした時に広がる波紋のように、月光が揺れる。


「今日は満月かな?」


 夜の闇にぼんやりと浮かび輝く月を見上げながらポツリと呟くと、僕は足早に歩を進めた。


   ◇     ◇     ◇


 工場から四キロほど離れたDA3の端の運河沿いには、管理人もいない寂れた掘っ建て小屋(バラック)がある。そこが今の僕の住処だ。まともなキッチンなんてない、家というにはあまりにも粗末な建物だけれど、雨風がしのげる壁と屋根があるだけましだ。


 僕は疲れ切った体を引きずるように歩いた。


 バラックにたどり着くと、鍵のないドアを開け、コートを部屋の片隅にある椅子にかけて、小さな部屋の窓際に敷かれたマットレスに沈み込むように倒れこんだ。灰色のマットレスは、冷たく硬いコンクリートの床を感じられるほどに薄い。


 唐突に寒気がして、体を抱え込むように丸くした。


 ブランケットは手を伸ばせば届くところにあるのに、そこまで手を伸ばす気力さえ出ず、それ以上動くことができなかった。


 こんな生活、一体いつまで続けるんだろう?


 窓の外の月は明るい。夜の闇はどこか青白く、月光が空気中に舞う塵に反射して、白い砂の海底に似た輝きを放っている。

 僕は、眩い月明かりに左の頬を照らされながら、独り静かに眠りについた。


 闇にすべてが包まれる。

 遠くに声が聞こえる。


 "消えたい、消えたい、消えたい……"


 あなたは誰?


 雲が流れ、月光が夜空を照らした。

 何も覚えていないんだから、悲しみなんて感じなければいいのに。


 僕は……誰なんだろう……。


 夢の中では、誰かがいつも僕を呼ぶのに、なぜかその声は言葉にならない。

 温かくて、優しくて、でも突き刺さるように痛々しくて、ひどく寂しそうな声を追いかけるようにして、僕は眠る。


 風が冷たい秋夜(しゅうや)のことだった。

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