薄幸令嬢と老紳士の秘密の大罪 ~偽装結婚のつもりがあなたに恋をして……~
「すまない……。だがこれは一心に君を助けたいと思うが故なんだ――。」
「分かっています……えぇ。この狭く陰の渦巻く貴族社会において、これが最良の手段であったのだと――。」
申し訳なさげに老紳士は目の前にいる女の肩を抱き、誰にも聞こえないようにそっと小声で話しかけた。
そして目の前に居る女もこの国で始まりを表す花嫁の色である真っ青なドレスに身を包み、ここから始まる全てを受け入れる覚悟を示すように、返事と共にそっと目を閉じるのだった。
「では、誓いの口付けを――。」
神父の言葉を合図に二人はキスをした――振りをする。
この結婚はあくまでも偽装……誰にも知られてはならない。
「夫、モーリス・ヴァレリー・ティボー・ドゥブレー侯爵様。妻、ドロテ・レジーヌ・ティボー・ドゥブレー夫人。愛し合う二人にこの先、大いなる幸の多からんことを――。」
最後に聞こえた神父の祈りの言葉に罪悪感を感じ、チクリとドロテの胸が痛む。
神様に――しかも教会での儀式において嘘を吐いたことは大罪である。
誰もが知る教会からの教えでも「神の御前では、いついかなる時も純真無垢な神の子であれ」と習う。
「わたしも共犯なのだ。例え地獄に落ちようとも、この罪をわたしも生涯背負って行こう……。だからそんなに悲しそうな顔をしないでおくれ。わたしは君を少しでも幸せにしたくて妻に迎えるのだから……。」
結婚式を終えた二人はこれから共に過ごす男の邸宅へと戻り、リビングに置かれたソファに腰を落ち着けていた。
「いいえ、違うのです。私自身、罪を背負う事は覚悟していました。けれどもこんなにも私に良くしてくださるあなた様に罪を背負わせてしまう事を申し訳なく思い……嘆いているのです。」
「ハハッ! そんな小さな事を気にすることは無いさ。わたしは既にもういつ召されるとも知れぬ老いた身……。あんな状況から美しい君を救い出せたことだけで、わたしは共に罪を背負うことさえ価値あるものだと感じているぐらいさ。」
「ドゥブレー侯爵様……。いえ、モーリス様!」
「いいんだよ。昔のように『おじ様』と呼んでくれたって。ここに居るのは二人きりだし。結婚したとはいっても形だけのもの……。」
その言葉にドロテは首を横に振る。
「それでも――今日から私はモーリス様の妻です。妻が夫を『おじ様』だなんて呼んだら変じゃありませんか。」
「君は本当に――いや、いいんだ。そうだね、ドロテ。名前を呼び慣れていないと万が一の時に困るかもしれないものな。」
「そう――ですね。」
ドロテは優しく自分の名前を呼ばれたことに、照れるようにはにかんだ。
神の教えに背いてまでして行われた偽装結婚によってチクチクしていたドロテの胸の痛みも、モーリスのお茶目な表情にもうだいぶ和らいでいた。
「ドロテ――これからは自由だ! 君の好きなように生きなさい。本来は幼少期に貴族令嬢が受けるべき教育だって受けさせよう。わたしの死後、妻である君に全財産を渡すようにしてある。だから生涯金に困ることは無い。恋愛だって――。」
そこまで言ってモーリスはドロテの表情を見てハッとした。
「君とわたしは公には夫婦だ。だが、今でも変わらずわたしは父親のような気持ちで君を想っているんだよ。国の定める貴族法によって、残念ながらわたしの死後にしか君は結婚することはできないが……。こんなドロテには誰よりも幸せになって欲しいと願っているよ。」
モーリスはドロテをそっと抱き寄せ、額にキスをした。
「おじ様……。」
気が緩み、ドロテは不意に呼び慣れた言葉が口から漏れた。
「フッ……。大人になったと思っていたけど、やはりドロテはまだまだ子供だな。」
「もう……。」
モーリスはドロテから懐かしく呼びかけられて笑みが零れ、喜びから潤んでいたドロテの目端からは雫が落ちた。
「ドロテをあの忌々しい家から助け出す為に結局は『結婚』という手段をとる事しかできず、結婚するにあたってもすんなりとはいかず時間はかかって君を苦しめてしまっていたが……やっと心からの笑顔を見ることができたね。」
「そんな――っ! 私の為に、父へと払う多額の手切れ金をご負担していただいたのに――恩はあれども私には不満などございません。申し訳ないだなんて思わないでください。」
「ありがとう――。でも恩を返そうと思うならば君が幸せになることだけ考えておくれ。わたしの財産は全て君のものだが、爵位は既に甥に行くことが決まっている。跡継ぎを作らなければなんて考えなくてもいい。」
「えっ――――!!」
モーリスからの言葉にボンッと顔を紅潮させてドロテは驚いた。
自分のことを娘のように想っているとは言ってくれるものの、ドロテは貴族が結婚したからには跡継ぎを作らねばと思っていたからだ。
特にまだ実子のいないモーリスと結婚したのだから若い自分がこれから頑張らねばと――。
「この結婚はあくまでも偽装だ――。本当は養女にでもしたかったのだが……君のお父上がそれを許さなかった。そればかりか君を家に縛り付け、自分の邸に訪れた貴族男性たちにあてがって娼婦の真似事をさせて金を稼ごうなどと考えて――――。」
次第にドロテの父親に対する怒りを思い出し、自然と握られたモーリスの拳はプルプルと震えていた。
震えるモーリスの拳をドロテは両手で包み、ニコッと薄く微笑んだ。
「もう……いいんです。その前にこうやっておじ様――モーリス様に助け出されたんですもの。体面を良くする為にと開かれたチャリティーパーティーで『病弱でかわいそうだから引き取られた養女』として出させられた時以外では冷遇され、外出は禁止。大人になるまでずっと使用人のような扱いでした。父と継母の間に生まれた弟からも――でも、今は――大丈夫、なんです!」
結婚式を済ませたばかりのドロテはまだ不安が拭いきれず、『幸せだ』とハッキリと断言することができなかった。
元々爵位の継承順位の低かったドロテの父は初め、豪商の娘と連れ添っていた。
そして娘であるドロテが生まれ、それなりに幸せであった――はずだった。
ところが親が死んで男爵位を継いだ長男が時をそう開けずに死に……爵位を廻って争った末に次男や三男も相次いで死に……。
予想だにせずして、末っ子であるドロテの父の下へと転がり込んできたのだった。
一度は捨てざるを得なかった貴族という地位に返り咲き、爵位持ちとなったドロテの父は変わった。
平民だったドロテの母を捨て、我が子であるはずのドロテさえも即座に捨てたのだった。
「今までは金の為と思ってお前と一緒に居てやったが……貴族である俺様が平民なんかと居ちゃあおかしいだろ? だから今度、俺様に相応しい貴族令嬢と結婚するんだ! あっ! 相手方には初婚だって言ってあるから間違っても押しかけてくるんじゃねーぞ。いいな? 分かったか!?」
――と、吐き捨てて手の平を返して家を去り…………。
自分に跡取りとなる息子が生まれて暫くすると、今度は引き取りたいと申し出てドロテや祖父母をも騙して奴隷扱い……。
庶子であるドロテの事はもう、娘とも思っていないのだった。
父に捨てられた事で深く傷ついたドロテの母は心労により既に死んでいた身だったのもあり、父が娘を引き取ることは当然で、父の記憶の無かったドロテは最初喜んでいた。
なのに――裏切られたのだ。
「私は、優しいモーリス様のもとに居られさえすればそれだけで幸せです。あの地獄から救い出してくれただけでもう……充分。」
そう言ってドロテはモーリスの頬にお礼のキスをした。
この胸にじんわりと温かく広がっていく想いがただ恩に対するものなのか、それとも恋というものなのか……ドロテはまだ知らない。
初めて心から優しくしてくれた老紳士に、初恋も知らないドロテは人生で初めての甘酸っぱい苦しみを味わうこととなっていく。
「こんなヨボヨボの爺さんとではなく、君に似合う若者と本当の幸せをドロテが掴む将来が訪れるのが楽しみだ。」