丸山真男で考える文学の行方
丸山真男の「日本の思想」を読みました。面白かったです。
丸山真男に関しては思う所が色々あるのですが、個人的な事柄と絡めた部分だけ話そうと思います。というのは「文学」のあり方です。
「文学」というのは今はほとんど存在しません。あるとすれば「芥川賞」という形式でしか存在しません。しかし、それも私は一種の害悪にすらなっているのではないかという危惧を持っています。また、文化というのは結局は少数者の為のものであり、そこから人口に膾炙していくのでしょうが、大衆が心の底から文化を掴む事はありえない。現状を見ると、ますますそういう気持ちが募ります。
丸山が言っている事の一つに「タコツボ型」「ササラ型」というのがあります。タコツボ型は、それぞれが専門領域に籠もって、タコツボのような状態で、相互の交通がない状態です。「ササラ型」はほうきの先っぽのように、先は分化しているのですが、根の方に戻りますと全体が一緒になっている。「ササラ型」は、そういう共通の精神的地盤がある状態で、西欧の学問なんかはそれにあたると丸山は考えています。
日本の学問はタコツボ型で相互の交流がない状態と丸山は見ています。それでもう一つ、個人的に重視したいポイントですが、マスコミによる画一的な号令・伝達というのは、タコツボ型にとっての相互の交流とは違うものとして考えられているという事です。…つまり、タコツボ型の、それぞれに孤立している状態に対して、上から覆いかぶさるようにマスコミ(メディア)からの情報が発信されたり、吸い取られたりするのですが、それらはステレオタイプな情報のやり取りであって、健全な内面的交流ではないという事です。
この問題は、私には身近なものです。それで、自分の話をします。
私は小説家志望の人達と以前、付き合っていました。自分もその一人だったからです。それで、彼らと話してみて気づいたのは、彼らのほとんどが文学そのものには興味がないという事です(一人だけ例外はいましたが)。では、彼らは何に興味があったかと言うと、新人賞・芥川賞を取って作家としてデビューする事です。
これを図にすると下のようになります。
芥川賞
↑ ↑ ↑ ↑
作家志望 A B C D
要するにこの状態というのは「タコツボ型」だと思います。この図でAとB、CとDのような横の相互交流というものはありません。
もちろん私的な交流はあります。事務連絡だったり、男女関係もその中に含まれます。しかし、文学そのものとは何か、自分達は一体何を目指して、どう進んでいくかという事に関する内面的な議論というのはほとんどありませんでした。何故ないかと言うと、みんなの目が上の「芥川賞」に行っているからです。
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もう少し違う切り口から考えてみましょう。
私は丸山と同時にシュテファン・ツヴァイクの「昨日の世界」を読んでいます。ツヴァイクは二十世紀前半を代表するインテリの一人で、良きヨーロッパが失われていく過程を「昨日の世界」で描いた後、自死しました。第二次大戦の最中でした。
ツヴァイクは当時の代表的な作家らと付き合いがありました。ロマン・ロラン、ポール・ヴァレリー、リルケ、ロダンなどです。そうした人達と内面的な交流を持っていました。
ツヴァイクの記述では、ヴァレリーらに、彼らにふさわしい名声が届いたのは五十の年を越えたあたりだったそうです。それまでは少数の同輩から評価されていただけでした。
ツヴァイクの文章を読むと、秘境的というか、小さな隠れたサークルにおいて濃密な、精神的交流があったのがよくわかります。彼らは、大抵、文筆生活を邪魔しない職に付いていたようです。もっとも、今の世の中とは違い、階級社会の色が濃かったからですから、彼らは「社会の底辺」ではなかったという事も考慮に入れる必要があるでしょう。彼らは貴族的な人達でしたが、華々しいエリートというのも少し違う。社会の一部分でひっそりと、内面的な熟達を遂げていったのです。
それと比べて、我らが作家志望のサークルは…そうではありませんでした。それというのは、能力が違うとか才能が違うというよりもっと根源的な問題があった気がします。つまり、目的が違うという事です。
ヴァレリー、ロマン・ロラン、ツヴァイク、アンドレ・ジッド、リルケ。そういう人達の名前を上げただけでも教養のある人はあるイメージが自分の中に浮かぶでしょう。そこで重視されているのは、内面の熟達であり、精神の尊重です。
彼らは内面的な交流を行いつつ、精神的なものを深めていくという方途を辿っていました。彼らに名声が訪れたのは随分後だった。彼らは外面的成功は別段望んでいなかったし、望んでいる人間がいたとしても、二次的なものだったという事です。そこには、文化というものを堅持する小さな集団がありました。
我が作家志望グループはどうかと言えば、目指しているものは新人賞であり、芥川賞でした。だから内面的な交流は必要ありませんでした。彼らは、自分達の抱えているものを深めていく為に互いに話し合う必要を感じなかった。問題は、賞を取る為にはどうすればいいかという事であり、その中の誰彼が賞を取ったり、その後成功したりすれば、それを祝うという事。それは全く外面的な事柄を目的にした集団だったと思います。
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丸山真男の話と繋げるなら、文化というものの保護・創造という事柄は、「作家ーー出版社ーー大衆」という線形のシステムの中には現れ得ないだろうという事です。これは「クリエイターーー企業ーー大衆」という風に話を広げてもいいと考えています。丸山も、政治的なシステムにおいては民主主義を擁護しつつ、文化の問題に関しては精神的貴族主義を推奨しています。このあたり、丸山真男という人はただ頭の良さとか、理論だけではないセンスの良さ・審美眼を持っていると言ってもいいかと思います。
現代の文化の消失という現状は、私が体験したような、作家志望ないし作家と呼ばれる人が、じっくり自分達の内面を深めていく事が全然不可能であるという事態に現れていると思います。彼らは賞を取る為にあくせくしている。デビューしたならデビューしたで、忘れられないように、出版社や大衆相手に色々な真似をしでかさなくてはならない。実際、私の知っているデビューした作家は、デビュー後、本人の作風ではない通俗的な作品を書いて発表していました。
文化というものは、そもそもある程度は後ろ向きに、丸山の言い方では「精神的貴族主義」で育っていくものだと思います。今は作家志望らはみな上方のメディアに取り上げられる事だけを夢見て運動しています。その過程で、新人賞に受かるかどうか、芥川賞を取れるかどうかという作られた権威だけが価値観で、自分達の価値観で事を運ぶ事ができません。
また、賞を主宰するの出版社であり、出版社は企業であって営利企業なので、大衆に受けるものでなければ利益が出ないという風になっていきます。文化という領域においては開かれているからこそ閉じるものがあるべきだ、と言うべきです。しかし、この点に目を向ける人はほとんどいません。一つには文化という言葉が何を意味しているのかがわからないからですし、精神を目指す人間がほとんどいないからです。
要するに、なんだかんだでみんな「売れたい」のであって、それぞれの人間は自分達の目指すものが、世俗的な価値観によって査定され、それを認証せねばならぬ状況なのに、文化的なものが実現化されている振りをする。その結果現れるのは、我々が見ている風景、アートとかクリエイティブという形でごまかされた全てのもののサブカル化です。
ここでは文化も精神もありません。今は、そうしたものを目指す人は、孤島のように、ただ己のみを基軸に、波に飲まれるのを待っている状況です。
丸山に戻るなら、丸山はタコツボ型を日本の孤立した学問領域について当てはめていました。ヨーロッパのそれはササラ型であり、共通の知的地盤があると考えていた。
私が自分なりに、丸山の意見を組み替えるなら、タコツボ型は時間的にも分断されていると思います。ササラ型は、過去からの知的な遠大な流れがあるので、それらが底流として存在する。理系と文系はまるで違うという現代日本の馬鹿げた意見というのは、西欧の知識人には理解できないものではないでしょうか。知性がそれ自体として前進する事が許されている、という伝統がヨーロッパにはあると思います。
ヨーロッパ上げ、日本下げ、が気に食わないというなら話を変えましょう。…しかし、どのみち、芥川賞によって「文学を広める」というやり方は、文学のサブカル化という結論以外には辿り着かないと思います。そもそも、文学について語っている人達が、私には何を語っているのか理解できない人達ばかりです。彼らの語るのは芥川賞であり、直木賞であり、プルーストでもドストエフスキーでもダンテでもソフォクレスでも西行でもありません。それらについて語る場合があれば、必ず「通俗化としての〇〇」になります。解説本の形を借りての内容の希薄化というのがわかりやすい例でしょう。
さて、問題としたいのは、孤立したそれぞれの個が、目指すべきは上方のメディアという舞台しかないという事です。文化の成熟はそれとは逆方向にあるので、大衆に迎合するものをどれほど作り出した所で、それは文化というものにはなっていかないと思います。
今、お笑い芸人が社会の頂点にいると言っても過言ではないですが、「お笑い」は、規範からはみ出したものを「笑う」事によってそれを正すという作用があります。お笑いを享受するには、勉強する必要も考える必要もありません。それは大衆がそのまま自分達を肯定してくれるツールであり、そこからはみ出たものは「笑われ」て、異質扱いされるのですから、これほどありがたいものはないでしょう。難解な事柄に取り組んでいる孤独者がいても、「何難しい顔しとんねん!」という「ツッコミ」で話が終わります。
文学というジャンルにおいても、そこに携わる人達が目指すものが、結局は精神というものの無理解、通俗への無限の解体である以上、この方向で良いものができるのはあまり期待できません。仮に、瞬間的に良いものが生まれたとしても、才能ある個人がいたとしても、すぐに大衆・メディアによって消費されるので、それらは育つ事ができません。幼芽のまま摘み取られるようなものです。
だから、本当に精神とか文化というものを成熟し、成長させようとするのであれば、世界から孤立し、孤立した個人が、孤島が寄り添うように互いに励まし合って、自分達の内部にあるものを伸ばしていくしかないのではないかと思います。しかし、私の見る限り、優れた素質を持つ人も、互いに連絡する事なく、ただ晴れ舞台に立てない不可能を感じ、孤立を余儀なくされ、後退していき、消えていくという状況です。今はタコツボ型である事を意識して、分化した状態からササラ型の本源である知的地盤を作っていく必要がある時期かと思います。しかし、これは金銭・大衆・メディアという世の中の趨勢に逆行する行為なので、不可能に近い難行なのは間違いないでしょう。それでも敗北を覚悟しつつも闘う事に意味はあると思います。この闘いの意味を理解するのは、現在の大衆ではない事も、はっきりしている事柄だと私には思われます。