深夜 2
ホットミルクを飲むるいを、ひとりで放っておくのはコウの良心を咎めることのようだ。自分用に濃い緑茶を淹れた彼は、穂に与えられた課題を一時中断して、子どものナイト・キャップに付き合ってくれるらしかった。
作ってやると立ちあがった手前、冷蔵庫から牛乳を出し、小鍋に注いで火をつけるまでは無事にできたものの、洋風のものには縁遠かったコウは中火にかけた鍋が瞬く間に白い泡を吹き上げて、沸騰するあたりで白旗を揚げた。
結局のところ、吹きこぼれる前にさっと火をとろ火にしたのはるいであり、そこから先は、マグカップになみなみと注ぎ込んでハチミツを垂らしたのもるいである。
それでも、自分用にポットから緑茶を淹れて、向かいの席に座ってくれたコウに、るいはにこにことマグカップに口をつけた。
「あの子は寝てるのか?」
夜中である。閑静な住宅街の、高層マンションの最上階となれば、静けさは地上の比ではない。慣れぬ場所ともなればなおさらで、空気が動かない沈黙に耐えきれなかったのだろう。そわそわと落ち着かない風情でコウが尋ねたのは、懸命に探し当てたのがすぐに分かる話題だった。
「ユイのこと?」
少しからかってみようかと好奇心が鎌首をもたげたが、折角話をしようとしてくれた彼の好意を無碍にするのも酷というものだ。緊張が見て取れる青年を安心させるようにおっとりと答える。
「ああ」
「良く寝てるよ。ユイは一度寝たら朝まで起きないから」
昼間元気に遊ぶ弟は、布団に潜ればすぐに寝てしまう。お陰で小さな頃から寝かしつけには困らなかった。隣で横たわり、とんとんと布団を叩いているうちに可愛いおしゃべりは眠さに溶けていき、頃合いを見計らってお休みと声をかけるとすこんと寝てしまう。前髪を掻き分けて額にまじないのキスを落とすと、ふわんと幸せそうに笑うのだが、本人は覚えていないというので、寝入りばなの無意識なのだろう。
「……そうか」
話題に出してみたものの、接点のない相手ではうまく繋げられなかったらしい。可愛い弟のことを反芻しつつ返事を待っていたが、返ってきたのは無難な相槌がひとつきりだった。
失敗した気まずさを誤魔化すように緑茶をすすったコウに、るいは小さく微笑む。
「良い子なんだよ。明るくて、とても聡い」
「聡い?」
るいは青い目を細めてコウを見上げると、ふわりと柔和に微笑んだ。
「ユイは、コウ兄に話しかけないでしょう?」
母と兄が笑顔で出迎える相手に興味を示さずにいられる子どもはめったにいない。ましてやあんなに明るい無邪気な子どもなのである。いつ話しかけられるのかと身構えて、杞憂に終わったことに奇妙な顔をするコウを、るいは何度となく見ていた。
「あの子は良い子だよ。そして、聡い。オレたちが、あの子だけは巻き込みたくないって思ってることを知ってるから、オレたちが望む通りに、何も知らない振りをするし、コウ兄のことも見ない振りをする」
歪なことは、自覚していた。家族四人が揃って歪さを理解しながら、互いを思いやってその歪さを守っている。
コウの目がゆっくりと細められた。彼が何を思っているのか、るいには分からない。憐憫か、畏怖か、それとも困惑か。推し量ることはできただろうが、るいはあえて目を伏せて、表情を読むことをしなかった。
自分たちが狂っていることは分かっている。
そして、復讐を目的にここにいる彼もまた、多少なりとも狂気を裡に飼っているのだ。拒絶する、ということは考えられなかった。
「……良い子、なんだな」
やがて、コウが出した答えは、思ったよりも肯定的な音を含んでいて、るいはほんのり冷めたホットミルクを嚥下して、くふりと笑った。
「うん。良い子なんだ」
穂がコウを連れてきてから、るいは緩やかに、だが確実に、変革の気配を感じ取っていた。コウが早晩連れてくる大勢の「仲間」は、〈蒼〉という組織の在り方を根本から変える熱量となる。その齎された熱が激しく燃え盛る炎となれたときに、これまで用意してきた火種は一気に爆発する。
その変化は、好ましい。〈ノアの方舟〉を倒すには、必要不可欠な変化である。
一方で、その変化は、るいたち家族の在り方の変化でもあった。
おそらく、るいがコウにユイのことを話すのは、これが最後だろう。そして、今日のような他にどうしようもない事情がない限りは、ユイがこのマンションにやってくることもない。
だからこそ、この夜に沈黙の不文律を知っておいてもらう必要があったのだ。それは、穂でもなく、玲でもない、るいの役割だった。
「でも俺は」
コウが呟いた。遠慮がちではあるが、聞かせようとしている声音に、るいはきょとんと顔を上げる。
「なぁに?」
何を言うのか。
るいはやはり予測をせず、素直に彼の言葉を待った。
「俺は、お前も、良い子だと思うぞ」
兄弟の片方だけを褒めるのはよくない。
そんなマニュアル通りの思考回路から出された台詞であっても、コウの声は優しかった。言いにくそうな固い声音は、彼の性格がそうさせたのだろうが、不器用な彼の言葉は、ミルクに溶かされたハチミツのように、ほんのりと甘く、胸を温かくしてくれた。
ふふっと笑ったるいは、へにゃりと顔を笑みに崩した。
「だからオレ、コウ兄って大好き」
慕わしげな子どもに、コウは困った顔を見せる。無条件に懐く子どもを扱いかねているのは分かっていたが、るいはやめようとは思わなかった。