深夜 1
最初は復讐のために始めたことだった。
幸せになれるはずだった人から、幸せを取り上げた奴がいることが赦せなかった。どうあがいても幸せになれないと絶望した自分を掬い上げてくれた優しく強いあの人の幸せは、決して踏みにじられていいものじゃない。
―――『フォース』を頼む
そう言って、いつも通りニッカと笑った顔は、何度も繰り返し反芻するから覚えてしまった。
コウ、と呼びかけるだみ声が耳に残っている。家を捨てた自分の居場所を作ってくれた人は、コウと愛称で呼ぶことで新しい自分を作ってくれた。戦えというよりも、守れと言ってくれた人。そう言えば、コウが息がしやすくなるのだと理解してくれていた大きな背中に本当はいつまででも甘えていたかった。
あの峠道で、穂に会えたのは僥倖と言うほかない。竜兄が殺されたという事実を教えてくれただけでなく、復讐さえさせてくれる人物は、彼女の他にいなかっただろう。
あの日、名前を聞かれて初めて自分から「コウ」と名乗った。家の名前でも、親がつけてくれた名前でもなく、幼い頃に教わった初対面の人に名乗る決まり文句を、初めて使わなかったことは、誰も知らないだろう。
おかげで、コウとしか呼ばれなくなって久しい。短く耳馴染の良い音は、今の自分を表すのに十分な響きだった。
今は何のためにこうしているのだろうか。
少なくとも、復讐のためだけではない。
竜兄の仇討ちを忘れてはいないが、それだけではなくなっている。
穂は俺に、竜兄を殺した奴らのことを教えてくれた。
宗教団体〈ノアの方舟〉。
全ての民を天国へ導き、救い上げる女神を崇めることで、地獄であるこの世から救われるという、キリスト教由来の教義を持つというのが表向きの情報である。
しかし、普通の新興宗教を装っておきながら、〈ノアの方舟〉はその裏で、宗教ではなくKANANという薬物によって人を殺そうとしている組織だった。
KANANは女神から齎された「乳と蜜」の結晶であり、それを与えられることは女神によって与えられる洗礼である。KANANに選ばれた者はすなわち女神に選ばれた特別な騎士であり、この地獄に生きて、女神の代わりに人を天国に送るのが聖なる役目であるという。KANANに選ばれなかったものは、女神の洗礼によって無条件で天国に行くことができる選ばれた民であり、それはなににも代えがたい平凡な良い幸福である。
つまるところ、地獄から天国へ人々を救うと嘯いて、薬物を使って大量に人を殺そう、というのだ。
全く、ふざけた教義だとしか思えない。
KANANに選ばれた、もとい、薬物に適合した者も、初回の投与で生き残ったというだけで、薬物特有の禁断症状がある。KANANの依存性は非常に高く、常用していなければ禁断症状でも死に至るのだ。KANANが日常的に手に入らなければ、服用の先に待っているのは死しかない。通常の薬物のように、脳の収縮といった悪影響はない、と注釈がかかれてあったが、それがどうしたというのだ。
仇討ちを抜きにしても、居なくなってもらわなければ、世の中の平和が消えてしまうではないか。
コウは、荒んだ気分を振り払うように文字から顔を上げ、指で目の間をぐっと押さえた。
穂に渡された、必須の基礎知識が書かれた紙の束はあと半分ほどある。文字に集中していた疲れが溜まっていたのか、存外心地がよかった。
「コウ兄、休憩?」
澄んだ声を掛けられて、コウはぎょっと目を開けた。近くで聞こえたと思えば、すぐ目の前にきょとんとした顔がある。中学生なのに小学生にしか見えない華奢な身体に似合った綺麗な顔がいきなり視界に飛び込んできて心臓に悪い。仰け反ったコウに、不満そうに唇を尖らせながら、るいは大人しく身を引いた。
「寝たんじゃなかったのか……」
「ユイは寝たよ。オレは起きて来たの」
なるほど、よく分からない。
時計を見ると、日付を跨いだころだった。十時に就寝したから、少なくとも二時間は寝ていたらしい。ベッドに戻る気はないようで、暖かいパーカーを着こんでいるるいは、ひょいっとソファに上がり、コウの隣に座りこんだ。
クッションを抱えて、足を上げた座り方はかわいらしい。こてんと身体をこちらへ預けてきた子どもの好きにさせ、コウは手にしていた課題を一度手放した。
「寒いのか?」
「ちょっとね。大丈夫だよ、薬が切れそうなだけ」
薬が切れそうならば、新しく飲めばいいのだろうか。薬には一日何錠までなどの服用の規定があったはずだが、それはどうなのだろう。
そう考えたところで、コウは気が付いた。
身体が冷たくなってくる。
それは、KANANの禁断症状として現れる、初期症状ではなかったか、と。
〈ノアの方舟〉とKANAN、そしてこれらを打倒しようと穂が〈蒼〉を作った。穂と玲、それにるいは、KANANの中毒者であり、〈ノアの方舟〉の被害者である。
今のところ、彼らの情報としてコウに教えられているのはそういった表面上のことだけだ。これ以上詳しいことは、説明が面倒だから課題に出された情報を全て理解してから、と言われている。
少ない情報ではどうにも距離を測りかねていると、るいがふふっと笑った。
「大丈夫。明日の朝には、母さんが注射してくれるから」
「そうなのか」
「それにね、オレの身体、体温調節が下手らしいんだ。汗腺がほとんど機能してないんだって」
だから、身体が冷たいのは、そのせいもあるのだと伝えたいらしい。心配しなくていいという意味のそれに、コウはむしろ心配すべき事項ではないかと瞠目する。
だが、生来身体が弱いるいにとって、そういったことは日常的なものなのだろう。風邪のひとつも滅多に引かないコウから見れば、驚くべきほどに熱を出す子どもは、どう扱っていいか分からない危うさがあった。
「……眠れないのか」
ややあって、コウは尋ねた。すると、るいは目を丸くしてコウを見上げてくる。まじまじと視線を合わされて、コウは彼の虹彩が薄蒼であることに気が付いた。異国の血が混ざっているというよりは、日本に一握りいるという青い虹彩の遺伝子を持っているのだろう。透き通った青錆びのような色は、華奢な少年によく似合っていた。
「綺麗な眼を、しているな」
「え?」
思わずといった風に呟いたコウの声を、るいはしっかり聞きとったらしい。丸かった目をきょとんとさせ、それからまた、ふふっと笑った。
「コウ兄、ほんと、面白い!」
くふくふと笑う子どもが、ソファの上で身を捩る。何か変なことを言ったかと眉を寄せていると、それも面白かったらしく、子どもの笑い声はもう一つ高くなった。
「……お茶でも、淹れようか」
「お茶? なんで?」
唐突に出された提案に、るいは笑いながら何故と尋ねる。ソファから立ちあがったコウは、顔を赤くして笑っている子どもを見下ろした。
「寒いから、寝られないんだろう」
人間の身体は、睡眠時に一旦体温が高くなる。そこから低くなる過程で入眠するのだ。身体が冷たいままであれば、寝たくても寝られない、という仕組みである。
ならば、熱いお茶でも飲んで身体を温めてから布団に入れば寝られるのではないかという配慮だったのだが、さて、子どもにどこから説明したものか。
口下手な自覚のあるコウがるいにも分かりやすい説明を考えているうちに、るいの笑いは止まった。柔和に眦を下げた顔で、こちらを仰ぎ見ている。なんだ、と問いかけるように視線を向ければ、少年は小首をかしげてこう言った。
「それだったら、ハチミツ入りのホットミルクがいいな」
今度はコウが目を丸くする方だった。
(そうか、この子にとって飲料は、そんなにも種類があるものなんだな)
自分とは違う環境で育った子どもとは、こうも発想が違うものなのか。驚かずにはいられないコウにクスリと笑い、るいはソファから立ちあがる。
「父さんと母さんには、内緒ね?」
しーっと人差し指を一本立てたるいに、コウはなるほどと頷いた。たまにしか許されない特別なものなのだろう。自分がまだ家に居た頃、弟の他愛ない悪事を黙認する共犯者になったときの気分を思い出しながら、コウはそれを了承してやることにした。
「やった! コウ兄だいすき!」
飛び跳ねてよろこんだ子どもが、抱き着いてくるのは遠慮したかったが。