武器 1
子どもたちを置いて、玄関を出る。
親としての罪悪感があるのは、エレベーターに乗りこみ、独特の浮遊感を身に受けているときまでだ。鉄の扉が左右に開いて、吹きつけてくる夜の風の中に足を踏み入れてしまえば、自動的に気分は切り替わる。
地下の駐車スペースには行かず、エントランスから出ると、そこには既に迎えの車が停まっていた。
白色のありふれた軽自動車は、街灯に照らされてひっそりと佇んでいる。周囲に溶けこんだ車に走り寄り、穂は素早く助手席に乗りこんだ。
「待ったか?」
「そんなには待ってねえよ。玲に子どもたち預けらんなくなっちまったんだろ? もうちょいかかると思ってたから、思ったよりは早かったぜ」
運転席に乗っていたのは、年若い男だった。車のドアが閉まると同時にエンジンをふかし、ウインカーを出して道路に走り出る。一連の動作は手慣れていて、穂はなんらの警戒を持つことなく助手席に身を沈めた。
少し走れば主要道路だ。バブル期に乱立された高級マンション街は、自動車にとって利便性の高い場所にある。橋を渡れば辺りの雰囲気は一変し、明かりのついた都会の街並みが広がっていた。
「千代田でいいんだっけか?」
「ああ。今日は裏口から入ってくれ」
「了解」
彼の名は未来と言ったが、あまり名前を呼ばれるのが好きじゃないという彼に合わせて、穂はなるべく彼の名を口にしないことにしている。
出会ったときはまだほんの少年だったはずの彼も、大学を卒業して二年になった。小生意気だった子どもが、なくてはならない大事な協力者になっているのは頼もしいが、一体いつまでかかっているのだと嘆きたいような気分にもなる。
「最近千代田に詰めてるけど何してるんだよ。連日連夜じゃねえの」
時間が足りずに手を借りることにしたが、なにを協力するために呼び出したのかも知らされないままで迎えにきた男は、そろそろ聞いてもいいだろうと言いたげな視線を投げかけてきた。何も言わずとも、こちらの動向を把握しているのは、彼が面白半分に穂を尾行しているからだろう。今に始まったことではなく、注意するのにも飽きた穂は、説明する手間が省けたと思うことにしている。おおよその見当はついているのだろうが、詳細は分からないはずだ。説明を求められ、もちろんだと頷くも、数時間前に出て来た部屋を思い浮かべてしまえば、苦虫を噛み潰したような顔になるのは仕方がない。思い起こしたのは、この国の根幹を司る千代田区の不夜城にある一室であり、その中でもほんの一握りの者しか存在を知らされていない場所だった。
内閣府預かりの特務室で、KANANという薬物のみを追いかける非公式の組織、通称〈蒼〉の捜査室だが、専らリーダーを務める穂しか使わないので、こぢんまりした部屋である。普段は誰に入りこまれても良いように殺風景な部屋を装っていたが、最近の忙しさにかまけて乱雑さを放置しているため、現在の状態は惨状とも言うべき様相だった。
「ここ数か月で、都内に出回っている薬物の量が倍増してんだよ。あっちこっちから上がってくる調書に目を通してるんだが、量が尋常じゃねえ」
「ああ、それなら知ってる」
夜の街の中でも特に治安の悪い裏路地をふらつけば、おおよその状態は見て取れる。穂の言う通り、薬物のバイヤーの姿を見かける機会は多かった。特に、それまで取りまとめをしていたリーダーを失った渋谷は、隙がある今が格好の餌食とばかりに荒らされている。何度か取引現場を目撃し、その場でヒャクトオバンしたこともあるほどだ。
それを伝えると、穂の表情は渋面を作った。だが、それ以上は何も言わない。
スリルを求めては、単身危険そうな場所に飛び込むのが、彼の日課だ。悪趣味だと穂は眉を顰めているが、それが彼の性分なのだろう。それが高じて、彼は今、穂の協力者としてここにいる。
彼が喜んで協力するほどのスリルを、穂は常に傍に抱えている。彼女の半生に因縁深い、KANANという悪魔の薬のせいで。
「それが、KANANの可能性が?」
「ないとは言い切れない、と言ったとこだな。広島の方のヤクザがらみだって見方が濃厚らしいが、そこがKANANの親玉と手を結んだ可能性もないわけじゃない」
関東一円の麻薬取締捜査官から集まる数多の調書にくまなく目を通し、少しでもKANANの影がちらつけば捜査をさせる。それが穂の仕事であり、生涯をかけても必ず成し遂げると決めた役目なのだ。
「そういう作業こそ、あいつが居れば役に立つのにな」
「キロの得意分野ではあるなぁ」
ちらりと横目で外を見る。助手席の窓からよく見える建物は、彼らの間では通称「イシ」と呼ばれる建物だ。国会中継の前に、ニュースで良く見るそこは、別名になぞらえてそう呼ばれるようになっていた。
彼が頼りにしたのは、この国会議事堂と縁の深いもうひとりの協力者である。彼に比べればかなり無口なきらいのある、キロと呼ばれているその人物は、今日は都合が悪く来られないらしい。
「ああ、でも、あいつも見込みあるぞ」
あいつ、と言いながら穂が示したのはコウのことである。今頃渡した課題をこなしているだろう男は、地道な作業に向いた性格をしているはずだ。
「あいつ、どうなんの?」
希望を込めた穂の台詞に、早口でしゃべる彼が短く問いかけて来た。名を呼ばないのは、まだ正式に仲間と呼べないからである。穂が見つけてきて、まだ三か月あまり。未来やキロと会わせるには時期尚早かと、面通しをしていない分、警戒も強い。
「下地もある。経歴も今のところ問題ない。〈蒼〉(あお)に加えようと思ってる」
「〈蒼〉に?」
胡乱な表情には、自分は入れないのに、という咎めが籠った揶揄が含まれる。何度も聞いたそれを聞き流していると、畳みかけるように続きの文句を口にした。
「いくら誰かさんに似てるからって、そんなに信用していいとも思えないけど」
「なんだ、お前、結局はそこが気になってんのかよ」
昔に死んだ仲間に似ている。
それが、穂がコウに声をかけた理由だった。声をかけてみたら、似ているのはシルエットや雰囲気だけで、顔や声は似ていなかったが、出会った場所が場所だっただけに、ついそのまま連れて帰ってきてしまったのだ。当然、玲にはとんでもなく怒られた。愛する妻が若い男を連れて帰ってきたと言う嫉妬も混ざっていたけれど、概ね警戒心を持てと言う内容だったため、穂は甘んじてその説教を受けた。
「あいつには目的があるんだ。そういう奴は裏切らねえよ」
「そうだとしても、〈蒼〉のメンバーにして、足手まといになったらどうするんだよ」
「そこはまあ、それなりに鍛えるさ」
平凡に見えて、磨けば光りそうな原石の気配もする。偶然とはいえ、なかなかの拾いものだったと穂は思っているが、自分も〈蒼〉のメンバーに入りたいと言い続けている彼にしてみれば面白くない話だろうというのは分かる。
「これがうまくいけば、一気に動かせる頭が増える。そうなった場合の繋ぎ役として入れるんだ。お前の代わりをさせようってんじゃない」
「それならまあ……いい、けど」
「あいつらがコトを起こすまで、そんなに時間はないんだ。打てる手段は全部打つ。今度こそ、何が何でもとっ捕まえてぶん殴ってやるんだから」
仇討ちだなどと、大層なことを言うつもりはない。だが、ほんの少し、殺されたあいつのために引き金を引きたいと思う。頬杖をついて外を見た穂から、会話終了の合図を見て取った未来は、ステアリングを左に切ってから溜息をついた。
「……それに、そんなに似てねえよ」
「え?」
「いや、いい」
ぽつりと呟いた声は、聴きとってほしかったわけではない。
なんでもねえよ、と繰り返して、穂は車窓から街を見た。彼らが揃って警戒を見せるような心配はないのだと主張したい。いくら穂でも、昔慕っていた相手と似た背格好をしていたというだけで仲間に引き入れようとしたわけではないのだ。
オレンジ色の光が街を明るく照らしている。たまに交じる白色は、新しい街灯だ。この色をした寂しい道路で、穂はコウを見つけたのだ。