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KANAN Ⅰ  作者: 真柴 亮
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団欒 2


「そういえば、玲は大丈夫なのか?」

 食事の後片付けを手伝いながら、コウはふと思い出して尋ねた。次々に洗われていく食器を拭くだけの手伝いである。洗った皿を(すす)いでいた穂は、かけられた声に反応して顔を上げた。

「ん?」

「何かできることがあるなら手を貸すが」

 経営コンサルタントの会社を経営しているのだと聞くが、話に聞いている限り、玲のしていることは多岐に渡っている。こんな時間にも帰ってくることができないくらいに困っているのならば、何か手伝えることがあればいいと申し出てみたが、穂は目を丸くして首を振った。

「平気平気。コンサルティングしてる会社のメインコンピューターが壊れたらしくって、その中に入れてたソフトの復元やら、なんやらで忙しいだけ」

 むしろ、イレギュラーを好む彼からすれば、トラブルそれ自体を楽しんでいる節もある。ひとつだけ難を言えば、嫁の穂が一番大事でその次が子どもたちだと公言して(はばか)らない玲が、家族との時間を削って仕事をしなければならなくなった、ということだろうか。

 対処を終えて帰ってきた玲を宥める仕事が一番手が掛かるんだと零しながら、穂はテーブルまで拭き終わり、お風呂のお湯が入ったと子どもたちに入浴を促した。

「まあ、夫婦の仲がいいのは、いいことなんだがな……」

 ここへ来るようになってからそろそろ三か月になる。その間に見た、コウの人生二十年間の常識では考えつかないような夫婦の戯れを思い出して渋面を作った。

「あたしだって、別段あんなイチャコラをやりたいわけじゃないんだけどさ」

 どちらかといえば気風が良い性格なのは穂の方だ。照れ屋でひねくれものの妻を、思う存分甘やかしたいというのが玲の希望であることは、コウにも分かっている。

「母さん、時間は大丈夫?」

 着替えのパジャマを抱えたるいが声を掛ける。時計を見た穂がぐっと顔を顰めた。

「げっ、もうこんな時間!?」

「お母さん、お仕事? 行ってらっしゃい、頑張ってね!」

 掛け時計が指し示す時刻は、九時半である。慌てた声をあげた母親に、風呂の準備を終わらせてやってきたユイが見送りの言葉をかけた。

「ごめんな、明日の朝には間に合うように帰ってくるから!」

「大丈夫。朝ご飯まで心配しなくていいからね。オレが作れる」

「お母さんのコーヒーも用意できるよっ! この前るい兄に教えて貰ったの!」

 ばたばたとエプロンを外し、出掛ける用意をしながら、穂はそれに応えた。忘れ物がないか確認し、子どもたちを置いていくのに不自由がないか日用品の確認をしている母の背に、兄弟が口々に母を安心させる文句を披露してみせる。少し離れた場所に立っているのは、動く母の邪魔をすまいという気づかいだろう。彼女の動線上にいないことが役に立つと彼らは知っているのだ。

「母さん! ソファの上に手帳忘れてる!」

 鞄の中身をチェックしていた穂に、るいが慌てた声を上げた。

 黒地に金で「警察庁」と書かれた手のひらサイズのそれは、裏に「麻薬司法警察」と書かれている。彼女の公的な身分を表す特別な持ち物であり、これから向かう先には、必ず持って行かなければならない通行許可証のようなものでもあった。

「おっと、助かった! サンキュ、るい!」

「どういたしまして。母さんこそ気をつけて」

「これさえあればなんとかなるさ」

 今日のところは子どもに見せられないような物騒なものは必要ない仕事だ。着こんだジャケットの内ポケットに手帳を仕舞い込むと、穂はじっとるいを見下ろした。小柄な長男は見た目に反して随分としっかりしている。それでも、心配をしないわけにはいかない理由がるいにはあった。

 母の視線を受けて、るいは安心させるためにほんわかと笑う。

「大丈夫だってば。お風呂入って、ユイの宿題見て、あとは寝るだけだし」

「るい兄は、髪も乾かすの! ちゃんとボク見張っとくよ!」

 るいは生来身体が弱い。風呂上りに湯冷めしただけですぐに風邪を引くのだから、面倒がって髪を乾かさないで寝れば、効果は覿面(てきめん)だ。両親が口を酸っぱくして言っていることを、小さな子どもは胸を張って請け負った。

「そうだな、るいの見張り、よろしくな」

「うんっ」

 やる気に満ちている子どもの気を削ぐ必要もあるまい。頼んでみれば、使命感に満ちた笑顔で大きく頷いた。

「るいも。無理はせずにな」

「分かってる」

 兄の方はいつもながら落ち着いている。今日はコウもいるから、なおさら心配することはないと分かっているのだろう。悪いな、とコウを見上げれば、苦笑交じりに頷きが返ってきた。

「まあ、なんとかやる」

「ごめんな、頼むわ。大体のことはるいができるだろうから、何かあったら手を貸してやってくれ」

「その程度でいいなら、問題ない」

 朴念仁の自覚がある自分に、母親の代わりが務まるとも思えないが、危険防止の監視役か何かあったときの連絡役程度ならば役に立つだろう。

 安堵の息を吐いているコウにニッと笑った穂は、靴を履いて向き直ると再び子どもたちと顔を合わせた。

「じゃあ、行ってきます。ユイ、るいの言うこと聞いて、良い子にしてるんだぞ」

 何も言わなくても、兄だいすきっ子に育った弟は、るいさえいればご機嫌でお留守番をしてくれる子だった。それでも、決まり文句を口にして、頭を撫でるのは母親としての役目だと律儀なことを考えているからである。母の愛情を素直に受け取ったユイは、にこっと笑って手を振った。

「いってらっしゃーい」

「行ってらっしゃい、気をつけて」

「ん、行ってきます」

 るいがやや心配そうな面持ちなのは、穂がこれから向かう仕事が何か、知っているからだろう。だが、その表情は、玄関の扉が閉まるのを最後に掻き消えた。いつまでも心配を浮かべていると、弟に気付かれてしまうという配慮である。

「さ、ユイ、お風呂入ろうか」

「うん! あのね、今日ね、ボク学校で……」

「待って待って。お風呂でゆっくり聞かせて。ユイのお話聞きながら服脱ぐと、オレ風邪ひいちゃうから」

 脱衣所に向かう道すがら、るいが慌てて弟の話を止める理由に驚いて、コウは軽く目を瞠る。だが、この子ならあり得ると思うあたり、コウも慣れて来たようだった。

「さて、問題は今日のノルマだな」

 ようやく、ここに戻ってきた目的を思い出したコウは、リビングのソファに腰を下ろし、ガラスでできた机に山積みになっているテキストを開く。

 文字を追うのは苦手ではないが、久しぶりではある。ずぶずぶと沈んでいく背中をソファに預けて、コウは静かに文字を追い始めた。




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