会食
玲にとって友人と呼べる相手は数少ない。花南の婚約者だったその男は、少ない友人の中のひとりだった。
「やぁ」
にこやかに笑って、片手を上げる。気の置けない友人相手の軽い挨拶は、どうしてだろうか、あれから十数年経った今でも、自然に笑うことができているのだ。
「久しぶりだね、晴崇」
「そうだったかい?」
「前に会ったのは、二か月前だよ。君は元気そうだね」
「玲も元気そうでよかったよ」
如才ない挨拶の中に、何一つ嘘はない。
御堂晴崇という名の友人は、差しだした玲の手を、なんの衒いもなく握り返した。
***
月に一度の会食は、学生時代の名残である。昔は花南も交えた三人で、よく食卓を囲んでいた。店の料理人に比べたら美味いとは言えないが、家庭料理としては食べられなくはない程度の腕前の妹の手料理に舌鼓を打ったこともある。本当は、愛する女の手料理など、他の男に食べさせたくないのだが、お前は花南の兄だから特別だと自分の手柄を譲ってやるとでも言いたげな友人に、玲はありがたく相伴に預かると笑ってみせたものだった。
今は場所を専らレストランに移している。店を決めるのは玲の役目で、日取りは決まって二十四日。妹、花南の月命日だ。
「先月はすまなかったね」
「家庭を持つ男の勤めだろう? 国際的でいいんじゃないか?」
「国際性では君に敵わないけどね」
毎年十二月は、毎月の食事も取りやめになる。年末の決済がという仕事上の理由はもちろん、玲が家でのクリスマスパーティを優先するためだ。どれだけ忙しくても、クリスマスイブとクリスマスの二日は必ず仕事を休み、イブから仕込んだごちそうをクリスマス当日に家族に披露するのは玲にとって欠かせない年中行事なのである。晴崇の方もそれが分かっているから、肩を竦めて構わないさと答えるまでが形式美だった。
「コースを三名で予約した御堂だが」
店を決めるのは玲だったが、予約を取るのは晴崇である。客が近づいてきたのに合わせて恭しくガラス戸を開けたボーイに告げると、取り澄ました顔が上向き、愛想のいい笑顔に変わった。
「お待ちいたしておりました。お席へご案内いたします」
同じ程の笑顔を返して歩を進める友人の後ろを飄々とした様子でついていく。値段にこだわらず、おいしい料理が楽しめるのならば、どこへでも喜んでいく玲と違い、庶民育ちを主張する穂はこんな高級なレストランに来れば肩が凝って仕方がないというだろう。
この友人との会食にだけ、伏し目がちの辛そうな顔で見送りに来る穂を見る度に、後ろ髪を引かれる思いで玄関の扉を閉める。いつもならば、行って来いと見送りもせずに声が掛かるだけなのに、不安そうな面持ちで袖口を指で掴み、気をつけて、と呟かれればさしもの玲でも胸が締め付けられようというものだ。
できれば早目に家に帰って、眠れずに待っているだろう穂を抱きしめてあげたい。愛に溢れた玲の台詞を、花南が聞いたら驚くだろう。あんなに薄情だった兄さんが、と言ってころころと鈴を転がしたように笑うに違いなかった。
通されたテーブルには、三人分のカトラリーが置かれてある。さすがはホテルの最上階だ。綺麗に磨き上げられた壁ガラスから見える夜景は、百万ドルと謳われるそれと遜色がない。
一等景色のいい席を外して座る椅子を決めた玲に合わせて、テーブル付きのボーイが椅子を引く。向かい側では晴崇が案内役のボーイに椅子を引かれて座っていた。
ひとつ余った席にたいして、教育の行き届いたボーイたちは何も言わない。彼が大企業である御堂カンパニーの代表取締役であり、彼が行く先々では、空白の席をひとつ用意してあたかも人がいるかのように振る舞わなければならないという不文律を知っているのだろう。
言わずもがな、花南のために用意された席である。
上流階級になればなるほど、珍妙な注文を付ける客は多い。
手が付けられないと分かっていながら皿を出し、冷えた料理を食事の終わった皿として下げる真似事だけならば、人畜無害な依頼の範疇だろう。
もちろん、彼は別に、本当に花南がそこにいると妄想を酷くしているわけではない。ただ席と食事を用意するだけである。それは生を信じて幻想にすがるというよりは、墓前に捧げる花に似たものだった。
「魚介のコースを頼んでおいたんだ。年始の会食が続いていてね。肉よりは魚の気分だったんだよ」
「構わないよ。魚なら、ワインは白にしようか」
「白もいいけど、まずは待ってくれ。とっておきのシャンパンを用意しているんだよ」
人差し指をピンと立て、企み事を暴露するように笑う。軽く椅子に座りなおしながら眉を上げ、玲はそれに乗って顔を近づけてみせた。
「何か、いいことでも?」
「最近仕事が忙しいのかな? 自分の誕生日を忘れるものではないよ、玲」
晴崇は意外そうな顔をして、呆れたように身体を仰け反らせる。玲はそういえばと頷いた。玲の誕生日は三日後だ。晴崇は毎年律儀に覚えていて、こういった贈物に代わる何かを用意しているものだった。
付き合いとしては二十二年。月に一度、食事を共にするだけの間柄になっては十八年が経つ。その間ずっと続けられてきたことだ。思いがけない失念に、うなじの辺りがちりりと騒めいた。
最近の穂の忙しさに引きずられ、余計な勘繰りをしたらしい。もしや何か、〈ノアの方舟〉の方で動きがあったのかと考えて、探りを入れようと洒落っ気を出したのが悪かった。
「もう祝われるような年でもないんだけどね」
四十になる男を、祝おうとする友人も少なかろう。玲がひねり出した自然な会話の道筋に、晴崇はそれもそうだと明快に笑った。
玲は舌先で裏から歯列をなぞることで気分を落ち着ける。
「だが、私にとって君はただの友人じゃないんだ。弟になるかもしれなかったんだから、いつまでだって兄を祝わせてもらったっていいだろう?」
花南と晴崇が、何事もなく結婚していたら。それはいつまででも晴崇の理想像としてそこにある。玲はいつまででも用意され続けている花南用の空席をみやり、軽く頷いた。
「悪いけれど、お返しは期待しないでおいてね」
「分かっていますよ、お義兄さん」
晴崇は微笑み、玲もそれに返す。
一区切りついたところを見計らってやってきたボーイに声を掛け、楽しそうに注文をする。とっておきと片目を瞑ってみせるほどのシャンパンは、前もってレストランに赴いて、チーフソムリエに探しておいてもらっていたらしい。例のあれをと伝えれば、ボーイは心得たように熟練のソムリエをテーブルまで呼んだ。
「こちら、御堂様ご所望のエクストラ・ブリュットでございます」
「やあ、菱本さん。貴方がいると聞いたものだから、つい無理を言ってしまったよ」
「とんでもございません。とても楽しく探させていただきました」
晴崇は一家そろってのワイン通である。ソムリエとの会話から、出来の良い年の中でも厳選された素材で作った、ということだけは分かったが、別段興味をそそる内容でもなかった。
高級志向であることは間違いないが、高級であることが無条件においしいわけではないと、玲は穂から教えて貰ったのだ。安酒だろうが高級なものだろうが、自分がおいしいと思うものが、今の玲にとっての価値基準だった。
「そうやっていると、君が良いところのお坊ちゃんだったってことを思い出すね」
皮肉を込めて、玲は言った。今でこそ、人を統べる立場としての振舞いを身に着け、恭しい態度を自然と受け取っているが、出会ったばかりの彼は、貧しい暮らしを営む婚約者の小さな部屋に居座って、こたつで暖を取り悦に浸るような青年だった。
御堂と言う名が冠する通り、御堂グループの一族ではあったが、それは伯父一家のものであり、自分の進路は自分で決めると酒を飲むたびに熱い能弁を披露していた。それは偽りのない彼の本心であったはずだし、それを証明するかのように、彼の所属する学部は理学部で、植物を専門に研究していたことを玲は知っている。
彼が今の地位についたのは、十年ほど前のことである。伯父一家や重役に付いていた親族の者たちが亡くなったため、跡目を継ぐ役割が回ってきてしまったのだと言った。遥か天の上から転がり落ちて来たような幸運の駒を、玲はなんでもない顔で祝福してみせたが、そこに彼の作為がなかったかと聞かれれば、あったのだろうと言うほかはない。
「まあ、一般と言われればそうでなかったことくらいは、自覚しているよ」
晴崇は意外そうに右の眉をひょいと上げ、苦笑と共に玲の揶揄を甘受した。これ以上の言葉は重ねられない。実を言えば、揶揄した本人の方が一般とは程遠い生家とつながりがある。しかしながらそれは亡き母の生家であり、玲も晴崇もその話を持ち出すことを忌避していた。互いに不可侵の領域だと認識しているのだ。僅かな沈黙で話題を水に流した後、晴崇は仕切り直しとばかりに泡の弾けるフルートグラスを掲げてみせた。
「本当は、玲の生まれ年で探したかったんだけど、思いついたのが先日だったからね。代わりに、85年の当たり年のシャンパンを見つけてもらったんだ」
「85年で十分だよ。生まれ年だなんて気障な真似、しないでくれて助かった」
友の気遣いに乗り、玲も同じように細長いグラスを摘まみ上げる。視線の高さまで上げられたそれからは、なるほど芳醇な香りが漂ってきた。
「ハハッ。まあ、飲んでみるといい。癖が強いが、玲ならきっと気に入る」
玲の好みは把握されている。得意そうに勧める晴崇がそう言うのであれば、期待値は自然高くなった。
薄いガラスの縁に口を付け、鋭く香る匂いと共に口に含む。玲の目が見開かれる様を具に見ていた晴崇は、お眼鏡に適ったようだと鷹揚に頷いた。
「全く、君の慧眼には恐れ入るよ」
白旗の代わりに手を上げて、玲は本心からの賛辞を述べる。もう一度口に含み、今度はゆっくりと舌の上で転がして香りを味わった。癖は強いが、嫌味がない。辛口の特徴である鋭い飲み口がシャンパンの癖を適度に
均しているのだろう。
世辞を言うことがない玲の性格を熟知している晴崇は、気に入った様子を嬉しそうに眺めていたが、玲が視線で促すと、手元を傾けて食前酒を口にした。
「うん、やっぱり、いい味をしている」
満足そうに頷いたところで、オードブルが運ばれて来た。そうだ、食事はまだ、始まってもいなかったのだ。空席に光るカトラリーの美しく磨き上げられた銀にちらりと視線を向けた玲は、ほんの僅かの間、レストラン特有の雑音に耳を傾ける。俯瞰するような感覚を確認するのは、己を客観視して気を落ち着けるための癖のようなものだった。
不意に、息子が持つ二つの顔を思い出した。あんな風に、自分の中にも二人の玲がいるのだろうか。二心のような後ろめたさが、玲の首筋を撫で上げていく。この場合、裏切っているのは友になるのか、妻になるのか。
頭の隅で考えながら、よく目を通さずに口に運んだ前菜は、ほどよく冷やされた質のいい海老の味がした。
***
傾けたグラスが空になり、玲は今度こそ白ワインを注文した。
美食を楽しみ、会話とほどよい酒精を楽しむのが上流階級に求められた優美さである。このレストランも例にもれず、上品な空間を提供するためのものであり、ほどよくゆったりとした速度で運ばれてくる品は、これでようやくメインになった。
折よく、ピアノの伴奏者がフェードアウトしていった店内のBGMを引き継いだ。このレストランは毎夜ショパンの生演奏を披露することで有名である。流れてくる幻想即興曲を耳に入れながら、玲はちらりと晴崇を見やった。
パンを片手に濃厚なソースを心行くまで味わっている姿は品がよく、様になっている。試しにこの姿をカメラに収めたとして、この世の全てを憎んでいる男だと誰が理解するだろうか。
最後に運ばれて来たのは美しい白の平皿に、上品に盛り付けられたア・ラ・モードだった。添えられたコーヒーの深い香りが食事に興奮した気分を安らげてくれる。
とめどなく続いていた会話も途切れた。緊張をしていなかったことを思い出して、別の緊張が鎌首を擡げてくる。瞼の裏に浮かんだのは、家で待つ穂の細い肩だった。
穂を前にしたときの玲は、おそらく晴崇を少なからず憎んでいるだろう。愛する妻を悲しませる相手は、誰であっても許しがたい。人生を勝手に捻じ曲げた相手に怒りを覚え、公権力を手に追いつめて滅ぼしてやると言う穂の信念は理解できるものであったし、それをされるべきほどのことをしでかしているのだと応援さえした。
翻って晴崇と食事をしているときの玲はといえば、昔と変わらずに仲の良い友人関係でいるときも、〈ノアの方舟〉の創始者として信者の前に君臨している彼を垣間見るときも、負の感情を持つことなく笑顔で声を掛けることができるのだ。
どころか、唯一の理解者として玲はそこにいるといっても過言ではない。花南を亡くして狂ってしまった晴崇を、当然のように受け入れている自分がいる。それは友への同情や憐憫ではなく、明確な共感から齎されるものだった。
彼を狂わせた妹の笑顔を思い出す。
玲を生み出した両親からできたにしては、花南は心優しい娘だった。それは僻みを持つ者から見れば度し難い程のお人よしで、大学の長期休みには必ず海外に赴き、自身の所属するNGO団体のボランティア活動に励むほどだった。
折角の休みに共に居られないことを晴崇は歓迎していなかったが、花南の希望が優先だと投げやりに肩を竦めていたものだ。たまに寄越された便りは現地の写真が印刷された絵ハガキで、晴崇に送るついでのおこぼれを玲も貰ったことがある。
人種の違う貧困児たちと映る妹は、白い歯を見せて美しく笑っていた。
花南が命を落としたのは、そのボランティア活動の際に起きた不幸な事故だったという。アフリカの中でも赤道に近い地方で、井戸を掘るために派遣された矢先のことだった。発展途上国では人身売買も珍しくはない。特に年端も行かない少女はその標的にされる。同じアジア系のボランティア団体の目撃情報によれば、目の前で連れ去られそうになった少女を助けるために割って入ったために、逆上した売人に連れ去られたという。
遺族として亡骸が入った棺を受け取りに行った玲は、そう大使館の職員に説明を受けた。
だが、どこへ売っても足のつく商品を、売買したがる者はいない。政府の必死な捜索で捕まえられたその奴隷商人たちは、厄介な日本人は森の隅で開放したと主張した。
その主張は果たして正しかった。だがそれは、結局のところ救いにはならなかった。
解放された花南は、居場所も分からぬ異国の地で放り出されたにも関わらず、かなり冷静に行動したらしい。山で迷った時のセオリー通り、水場を探して森の中に入ったのだ。
その選択は正しかったように思われた。幸運にも、すぐに見つけた川を辿って出た先は、現地の少数民族の村だった。その村は二十人程度が暮らしている小さくてとても親切な村人たちがおり、片言の公用語で事の経緯を訴えた花南を大層哀れみ、十日後に食料を積んだトラックがこの村を訪れること、それに乗せてもらえれば花南も知っている街へ行くことができること、そのトラックが来るまでの間は、村長の娘夫婦の家に滞在すればいいということを、訛りの強い公用語と多くの身振り手振りで伝えてくれた。
安堵した花南は、おそらく大きな礼を述べただろう。すぐさま現地の言葉で礼を告げる言葉を尋ね、慣れない発音で何度も繰り返したに違いない。日本語と英語と、公用語と現地語と、持ちうる限りの伝達方法を使って感謝を述べて、始終煙草をふかしている村長の黒い手を握っただろう。
しかしながら。
容易にその光景を想像した玲に、壮年の外交官は気の毒そうにそう言った。
間の悪いことに花南が村に滞在中のある日、少し離れた川向かいにある別の村の人間が、襲撃を仕掛けて来たのだと、彼は続けた。
玲の許可があったから、そのとき晴崇は同席を許されていた。婚約を済ませていたこともあり、沈痛な面持ちの女性事務官が上に掛け合って許可を取ってくれたのだ。
残念ながら、玲は行き別れた妹を可愛いと思っていたし、志半ばで散ってしまったことを可哀想だとも思っていたが、その時の玲はまだ、現在妻を大切にしているのと同じように誰かを大切にすることを知らなかった。
ああ、と溜息のような声が漏れ、僅かに瞑目した際に、いつもと同じく癖のような俯瞰で広い部屋を見渡したことを覚えている。晴崇は茫然としており、扉付近に控えている二人の年若い女性事務官は涙ぐんでいた。目の前にいる壮年の外交官はおそらく世間でいうところのエリート官僚というやつだろう。この人も大変そうだな、と他人事のように玲は考えた。責任ある立場にいて、だからこそこうして玲たちに花南が死んだと説明をしなければならなくなっている。気分のいい仕事ではないが、仕事の一環だから部下に任せて逃げるわけにもいかない。もしも花南の持つ正義感の十分の一でも、彼の中に職務に対する正義感があったとすれば、彼は望んでその責務を己の肩に乗せているかもしれないが、上司としての彼の為人は、玲にとってさほど興味のないことだった。
葬儀はしめやかに執り行われ、晴崇はじっと何かに耐えている表情で花南の傍に居た。喪主は玲が引き受けた。父にも相談したのだが、別れた妻が亡くなったことも知らずにいた自分には花南に合わせる顔がないと固辞したからだ。
父は口座に養育費が振り込めなくなっただけで、元妻が再婚したのだろうと思い込み、援助を中止したことを悔いていた。他の男と幸せになったことなど確認したくないと感情的になり、事情を探ろうともしなかったのは父の落ち度だ。知っていれば花南を引き取るなり、資金援助を増やすなり、できることはあったはずだ、自分が許せぬと肩を落とした父の背に見た思わぬ正義感に、花南の姿が被って見えた。
周囲が思いがけないほどに意気消沈している間、玲はいつも通りだった。ただ、死後の経過時間が長かったこともあり、ぴたりと閉ざされた白木の棺を眺めていると、妹がもう帰って来ないことがじわりと玲の心臓を掴んでくるような気分にはなった。
友の望んだ、花南の幸福な未来はすでに儚く消えてしまった。善人の良心を踏みにじる出来事が、世界には溢れかえっている。花南は玲にそれを教え、そして、晴崇を狂気に染めた。
もしも穂を亡くしたならば、と玲は思う。まず間違いなく、玲は同じように狂うだろう。花南のように理不尽な死を与えられたならばなおさらだ。
そんなことになったならば、玲はどうするだろうか。穂がいない世界に用はない。だが、ただ死んでしまうのももったいないような気がする。
穂の亡骸を抱えて、どこかへ消えてしまおうか。
その唇に毒を塗り、口づけを施して共に死んでしまおうか。
それとも、この手で柔肌を引き裂いて心臓を飲みこみ、血肉を食んで骨の髄までしゃぶりつくしてみせようか。
その妄想は甚だしい背徳感と共に甘美な誘惑でもあった。その手段が違うのは、個性や能力といった部分に寄与しているだけにすぎない。晴崇が玲と同じものを持っていれば、玲がやるようにやっただろうし、その逆もまた然りなのだ。
とどのつまり、彼と玲とは似た者同士なのである。類は友を呼ぶと言う典型的なパターンそのものだ。
晴崇は花南を愛し、玲は穂を愛した。大きく彼らの道が別たれたのはそこである。
もしも今、穂が晴崇を殺そうとやってきたら、玲は穂を止めもせず、晴崇を庇いもしないだろう。玲はただ傍観者になることで穂を妨げない。
そのときもし、晴崇が穂を害そうと動いたならば、玲はすぐさま晴崇を止めるだろう。穂を庇い、積年の友に牙を剥くかもしれない。
例えばそのときに玲が晴崇を殺してしまったとしても、それで穂が死ななかったのであれば、玲は後悔をしないだろう。玲にとって優先順位はいつだって穂が一番で、二番は二人の息子たち。友人という立ち位置にいる人間のことはそれらを大きく引き離して、良く見積もっても七番目といったところなのだから、穂を失うことに比べれば、それは何ほどのことでもない。
「七番目でも、数えられるだけ上の方なんだけどなぁ」
イチゴのムースを味わいながら、玲はつい、呟いてしまった。
「また、君お得意の謎かけか?」
また始まったといいたげに笑いながら、晴崇はからかうような視線を向けてくる。
「そんなんじゃないよ」
友人との会話は、気兼ねなく楽しむものである。頭を使って考えることもなく、始終和やかな会話だけを軽快に交わしあうものだ。だから玲の混線した思考回路などに、晴崇を付きあわせるという選択肢は存在しない。
「いや……出ようか」
「そうだな」
代わりのように退席を促せば、特に追及することもなく首肯が返ってきた。
「今日も楽しかったよ、ありがとう」
「こちらこそ。来月は僕の番だからね」
晴崇の手がポケットに入れられる。抜き取ったのはこのホテルに置かれているコインロッカーの鍵だった。それを受け取り、番号を確かめる。そして無造作にポケットに入れると、同じ場所から取り出した別の番号がついた鍵を差しだした。
コトリとテーブルクロスの上に鍵を置く。番号を確かめもせずにそれに手を伸ばした晴崇は、それを胸ポケットの中に仕舞い込んだ。
「君、お会計を」
引き換えに取り出されたのはカードである。通りすがりのボーイは礼儀正しい笑みを浮かべ、恭しく黒色のカードを受け取った。
これが、この食事会の最大の目的である。
玲がもらった鍵を開ければ、KANANが詰まった鞄が入っていて、玲が渡した鍵を開ければ、KANANが取り出されて空になった鞄が入っている。
友好を深めるというのが名目に過ぎないのだと思わせられるこの瞬間、玲は晴崇に心臓を握られているのだということをまざと思い出す。憐憫と憎悪に近い、淡い感情が玲の中でひらひらと舞う。糸で吊るされたカードのように、ひらりひらりと風に舞って、表と裏をかわるがわる見せつけてくる。
「それじゃあ、また来月」
軽く片手を上げて、晴崇は先に席を立った。それを見送り、玲が席を立つ。
彼はきっと、玲のこの感情を理解しないだろう。
おいしかった料理の味は、もう思い出せない。重い鞄をロッカーから引きずり出した後は、すぐに帰って穂と一緒に眠ってしまいたかった。幸いなことにここは都内でも大きなホテルである。乗客を待ち構えたタクシーはいくらでもエントランスの前に停まっているはずだ。それだけを頼りに歩き出した玲の耳に、指を間違えたピアノから、不協和音のノクターンが入りこんできた。