過去 2
「…………は?」
理解を拒否したい。脳裏に浮かぶのはそんな言葉だ。
「な!? は?だよな!? マジで訳分かんねえだろ!?」
開いた口が塞がらないコウに、我が意を得たりと未来が背中を叩いてくる。遠慮のないそれはかなり痛かったが、それに対して文句を言えるような心境ではなかった。全身が怖気立っている。目の前にいる三人が明るい顔をしているのが救いのようなものだ。陰鬱な顔をされていたら、きっとつられていただろう。
「玲と付き合ってる間に、私もKANANの中毒にされたんだよ。玲のときはラムネに見せかけたお菓子だったんだけど、私のときは香として焚く奴の実験台にされたんだ」
注射タイプができたのはそのすぐ後で、今ではその三種類が主流となっているから、新しいタイプは作られていない。新しい知識であるはずが、豆知識に聞こえるのは、齎される情報が膨大だからだ。もしくは、脳が現実逃避を始めたか、である。
「そうまでされちゃあ、流石に私も怒るだろ? 気に入らねえことだらけじゃんか!」
気に入らないで片付けていいのかどうかはさておいて、コウはとりあえず相槌に頷いた。さっきからさておきすぎだろうと思うが、仕方ない。用意した心臓がやはり二十では足りなかったのだ。
「ってわけで、在学中にるい産んで、そっから卒業してまずマトリになって。経験積んだところでユイ産んで、育休利用して勉強して、国家公務員試験受けて今に至るっと! いやあ、何年越しだぁ? 権力手に入れるのも、苦労するもんだ」
隣で忍び笑いを漏らしている未来の様子を察するに、この過程でも無茶をやらかしたのだろう。深く聞くと犯罪の片棒を担がされそうだと判断したコウは、深く聞くのを早々に諦めた。
破天荒な性格は、持って生まれたものらしい。穂の話を聞いていると、人の性格と言うものは環境によって育つものだけではないのだとしみじみと理解する。
気に入らない。
たったこれだけの動機で人生を復讐に捧げる羽目になるとはその頃の穂も思っていなかっただろうが、それにしては不用意なことをしすぎではないか、というのがコウの感想だった。
「なんでそうなる……」
つい項垂れて呻き声を漏らすコウに、玲はご機嫌で「面白いでしょう」と自慢げに言ってくるが、コウは呆れているのであって褒めているのではない。
言うべき台詞も見当たらず、手にしていた缶ビールを乾いた咽喉に流しこむ。手の温度で温くなった炭酸は、切れの悪い後味を残して胃に流れ込んでいった。
「ああ、疲れた。……玲」
それは俺の台詞だと言いたくなるようなことを言いながら、穂がグラスを手放した。名前を呼んで手を差し伸べる。甘える風もなくごく自然に、穂は玲を呼んだ。その手を受け止め、こちらも自然な動作で抱き上げる。
ぎょっとしたコウが顔を上げてまじまじと彼らを見たときには、穂は既に寝息を立てており、その顔を隠すように顔を引き寄せた玲が、うっそりと笑ってこちらを見ていた。
「ちょっと寝かせてくるよ」
「あ、ああ……」
行って来いと頷いたが、それに異を唱えたのは穂だった。
むずがる子どものような声を上げて、ソファの端を掴んで離さない。仮眠をするだけのつもりだから、ベッドに寝かされると起きられなくなるとでもいいたいのだろうか。コウがなんとなくの予想を立てていると、同じことを考えていたらしい玲が大きな溜息をついて穂をソファに寝かせた。気を利かせた未来に従って、ソファの傍から離れて座る。座った場所の居心地を整えていると、玲は寝室から急いで持ってきた毛布で穂を包み、いくつかクッションの位置を調節して妻の寝顔を完全に隠しきった。
その前を陣取るという念の入れようには感心する。何につけても独占欲を隠さない玲の行動は、あからさますぎていっそ清々しい。
「俺も寝ようかなー」
帰ろうと言い出さないのはいつものことだ。何かにつけて理由を作っては、未来はここに泊まって行く。
欠伸を噛み殺しながら立ちあがった未来を見送り、大きな溜息をついた。一気に身体が弛緩して、脳の働きも低下する。働かせすぎだと咎めるかのごとく、軽い頭痛がしてくる始末だ。何度か深呼吸をすることで痛みを振り払い、手にしたグラスを傾けて氷を鳴らす。
カランと涼やかな音を立てたグラスに視線を落としたコウは、今更ながら自分が置かれた状況を理解した。穂がいるとは言え、そこで寝ている。睡眠中の人間をカウントしないとなると、玲と二人きりということになるのだ。気まずいことこの上ない。こんなことなら、未来に便乗して仮眠をとりに行けばよかったと思ったがもう遅い。
「ねえ」
ギクリと身を強張らせたコウを嘲笑うかのような絶妙なタイミングで、玲が声を掛けて来た。
恋だの愛だのを声高に叫ぶ玲とは、反りが合わないだろうというのは最初から分かっていたことである。そして、コウは、この何もかもを見透かしている男に確かな苦手意識を持っていた。
「君、推理小説って楽しめる方?」
「え? あ、ああ……大概の本は……」
趣味が読書といつ言ったか。言わなくてもどの行動でバレたのか。趣味が何かくらいは知られてもどうということはないが、開示していない情報が筒抜けになっている不気味さは拭えなかった。
だが、質問した側としては、別段コウが読書を趣味にしているかどうかを前提にしたものではなかったらしい。
「全部分かるって、とってもつまらないんだよ」
唐突に言われたことが理解できず、コウは眉根を寄せた。穂の話は情報過多で難しいが、玲の話は情報が少なすぎて難しい。押し黙っているコウを一瞥した玲は、手慰みに穂の髪を梳いてぼんやりと言葉を付け足した。
「推理小説の最初の一ページを読んで、事件の概要が全て分かってしまったとしたら、その本を読む気になれると思う? 僕にとって世界は全て、そんな風だった」
一を知れば十が分かる。そして、玲にとっての「一」は、他人のそれよりもはるかに些細なことで事足りた。全てが予定調和に進んでいく世界は、味のしない食事のようなものだ。
「でも、穂だけは違った。僕の予想をはるかに飛び越えるんだ」
だから彼女がこの世の何よりも大切な人になった。想定外、という未知の世界が、玲の心を弾ませる。
「一体誰が想像する? 国家権力を持ったから悪を倒すんじゃない。悪を倒すために国家権力を利用しようとするなんて」
そこまで言われて、コウはようやくそれに思い至った。穂の経歴に混乱が生じるのは、そこが逆転しているからだ。警察官になったから犯人を逮捕するのではなく、逮捕したい犯人がいるから警察官になったと考えれば簡単になる。驚くべきなのは、自分の目的のために手段を問わないやり方を、思いついて実行するその能力全てだ。思いつくという才能と、それを実行する才能は本来別である。それらを併せ持ち、使いこなすには、また別の能力が必要になっただろう。その能力の名は努力と言い、それを高く維持することは、人間にとって実に難しい。
「穂は、首謀者を殺すだけでは一家全滅だと言った」
穂のモチベーションはそれだろうかと尋ねたつもりだった。
「そうだろうね。僕も穂も、必然的にるいも、KANANの中毒者になった」
コウの問いは正確に玲に伝わった。鷹揚に頷きながら膝を組みかえ、利き手で穂の髪を撫でる。コウの視線は窓に逸れた。習い性のようなもので、他意はない。玲はそれについては言及せず、コウの横顔に話しかけた。
「君は気付いてる? KANANの精製方法は分かっていないんだ」
「それは、穂から貰った文書に書いてあったから……」
これだけは覚えておけと渡されたものは、大半が試験をパスするための試験専用要点集だったが、その二割程度は〈ノアの方舟〉やKANANに関するものも入っていた。付け焼刃の知識でもないよりましだろうと読みこんだ記憶はまだ新しい。
玲の言葉の意図が掴めずに曖昧に頷いたコウを見つめて、玲は静かに囁いた。
「だから、作り方を知ってる唯一の彼がいなくなったら、中毒者は皆KANANが手に入らなくなって狂い死ぬ」
「……!」
何故そんなことに思い至らなかったのだろう。種明かしをされれば分かるのに、説明を聞くまで何が起こっているのか分からない。推理小説のトリックでも暴かれたような気分だった。
「穂は強い。けど、今まで泣かなかったわけじゃない。何度も、何度も泣いて、それでも歯を食いしばって僕たちが生き残る道を探してくれている」
ぶん殴る、と言い放ちながら、内心では祈るように生き残る道を模索している。せめて、るいだけは。自分は死んでもいいから、るいだけは。それを玲が許さないから、穂が目指すところは全員で生き残る道なのだ。
「なんでるいが中毒者なのか、考えたことはある?」
「それは流石に……。聞いたら失礼かと思って、聞かなかった」
「そう。だったら、ユイは? あの子が中毒者じゃない理由は?」
「うっすら、とは……」
気にしたことがないわけではなかったが、深く考えたことはなかった。自分がどれだけ浅慮で動いているのかが目に見えて晒されている。屈辱よりも情けなさがコウを苛み、唇を噛みしめて後悔に耐える。だが、玲はコウを責めようとしているわけではなかった。
「穂は賢い人間だ。僕がKANANを受け入れたのは、僕が悪いと思っていたからだった」
そんな玲を、穂は真っ向から否定したのだ。
「僕が彼の狂気から逃げる選択をしていればよかった。何もかもがどうでもよくて、何をされるか分かっていたから受け入れて。そんな僕を、穂は叱った。そして僕に、僕が悪いんじゃないって教えてくれたんだ」
落とすように静かに、玲は微笑んだ。
「目から鱗が落ちるような気分だった」
何もかもを理解できる玲は、だからこそ、意外性というものが理解できていなかった。あれほどの衝撃は滅多にないだろう。脳天を揺さぶられたかのような新鮮な感覚は、陶酔を覚えるほどに爽快だった。
「だから、自分がKANANの中毒者にされたときにも、悪いのは彼だと言いきったんだ」
名前を聞かさないようにしているのは分かった。それをコウに教えることに対する信頼が、玲の中にないのだろう。それは仕方のないことで、当然のことでもあった。
「そんな穂が、一度だけ、自分が悪いと泣いたことがある」
そんなことはないと必死で慰めたけれど、穂がそれに肯ずることはなかった。
「それは……いつ?」
なんとなく、玲は促されるのを待っている気がして、コウは尋ねる。玲は淡く微笑み、ゆっくりと瞬きをした。
「るいが、中毒者だと分かったときだよ」