品評 1
首尾よく撤収できたことは、最後の一報としてかかってきた連絡で聞いた後だった。移動時間として予測した時間に五分以上の誤差はなく、穂は寒い中を帰ってきた三人に労いを込めて声を掛ける。
「おかえり、お風呂沸いてるよ」
夜中であることを差し引いても、三人とも足音がしない。着こんだパーカーが起こす摩擦音が唯一所在を主張するだけである。寒さにかじかんだ全身が、緊張の切り所を失っていただけだったのだろう。穂が声を掛けたことで気が緩んだのか、その緊張は一気に解けた。
「っはーッ! 寒かった! おい、るい。お前先に風呂入れ!」
途端ににぎやかになる玄関先に、迎えに出た穂は笑みを禁じ得ない。その隣をすり抜けるようにしてキロが奥の部屋に早足で向かった。すれ違いざま、トンと軽く肩を当ててくるのは親愛の証である。長年の付き合いでそれがハグの代わりだということは分かっていたから、それに答えて遠ざかる背中を軽く叩き返すことにしていた。
「待って、未来兄! 報告! 報告まだ!」
「そんなの後! また寝込むぞ!」
誘導がてら中に入りつつ、後ろをついてくる二人はまだ騒がしい。コートを剥ぎ取る勢いで風呂場に押し込まれそうになったるいが慌てて声をあげている。両腕を広げて抵抗を試みている息子の顔は冷風に晒されて真っ白になっていた。
「いいから行っとけ。風邪引くぞ」
未来の危惧は完全に正しい。それを知っているからこそ、到着時間を逆算してお湯を張っておいたのだ。含み笑いを漏らしながら穂が言うと、るいはこちらを見て、はにかむように笑って見せた。
「ただいま、母さん」
「はい、おかえり。先に風呂行って来い。どうせ、一日やそこらでお前の記憶がかすむわけがないんだから」
「うん……、じゃ、行って来ようかな」
コートをハンガーにかけながら、今度は素直に頷いた。自分の言うことは聞かないのかと半ば拗ねたような顔で未来はどっかりとリビングの椅子に座る。こちらはこちらで、用意しておいた湯のみの一気に呷った。器は湯のみだが、中身は適度に温めた日本酒である。案外甘党の未来に合わせて、梅シロップを少々混ぜておいた。気に入ったらしく舌を突き出して雫まで飲もうとする頭を叩き、出しっぱなしにしておいた酒瓶を指さしてやる。嬉しそうにいそいそとそちらへ向かう未来は、これでしばらくキッチンから動かないだろう。身体を温めるだけならばこの方が早いというのが未来の主張だ。身体の弱いるいを遠慮させずに風呂に追い込むための方便であることを知っている穂は、息子の健康のためにもありがたく用意を整えさせてもらっている。
「おれもいく」
防寒具を脱いで身軽になったるいが、着替えにタオルにと動き回っていた後ろから、帰ってきて一目散に奥の部屋に向かったキロが、ラフな部屋着に着替えて戻ってきた。おそらく、コートの下は堅苦しいスーツだったのだろう。早く脱ぎ捨てたいという欲望のままに突っ走ったキロは、さらに欲望そのままに、弟分に声を掛けていた。
手にはちゃっかりとタオルがあり、るいの服の裾をはっしと掴んでいる。言葉遣いが固い青年なりの、一緒に入ろうという誘い文句を、るいは正確に読み取ったようだった。
「二人で入るの、狭くない?」
渋い顔をしてみせるのは、中学生なりの抵抗だ。元々は玲の持ち部屋だっただけあって、大人二人が入ればそれなりに圧迫感があるが、小柄なるいと細身なキロであれば狭いと眉を顰めるほどでもないと分かっていながらの台詞である。生まれて半年も経たない内からの仲であり、年の離れた兄弟のようで、本人は照れくさいのだろうが見ている穂は微笑ましい。
「いく」
るいもるいで、本当に嫌がっているわけではない。ちょっと唇を尖らせて嫌がるポーズをしてみせても、掴んだ服の端をくいっと引っ張られ、再度ねだる台詞が出てくればあっさりと頷くのだ。
「分かった」
不承不承、軽く溜息を吐きながらではあるが。
「しっかり温まってこいよー」
見送りの台詞を風呂場に投げつつ、穂はキッチンに戻る。風呂から上がった子どもたちに、ポトフを用意しているのだ。作ったのは玲だが、作ってほしいと頼んだのは穂である。玲の作るポトフはおいしい上に身体が温まる。ポトフの具材は、日によって切り方が変わっていた。今日の気分はごろごろ野菜の方だったらしく、人参もじゃがいもも大きく切られている。野菜の間から頭が見えるウインナーは一本がそのままだ。玲がこだわって選んだウインナーは、噛めばうまみいっぱいの肉汁が溢れて口の中が幸せになる逸品である。
最後の仕上げにパセリを振ってね。
ウインク付きで言われた言葉に逆らうことはしない。胡散臭い笑みはいかんともしがたいが、こと料理についてのアドバイスには従うに限る。
スープ皿にポトフをよそい、刻んだパセリを乗せてテーブルに運ぶと、未来がスプーンを用意して待ち構えていた。
「やった! 野菜が大きい方が食べ応えあってうまいんだよな!」
「分かる分かる。あたしもこっちの方が好きなんだよ。じゃがいもとか、ほくほくでうまいよなぁ」
ずっと室内で書類仕事を片付けていた穂は、身体を温める必要はなかったが、せっかくのおいしいポトフである。自分が食べた方が玲も喜ぶし、と手前みそのような言い訳をしながらご相伴に預かるのはちょっとした楽しみだ。
しばらくふたりでハフハフとポトフを頬張っていると、烏の行水で戻ってきたキロが羨ましそうな視線を向けて来た。
「用意するから、ちゃんと頭拭け」
「ん」
遠目にも落ちそうな雫が見えている。指摘すると大人しく椅子に座り、肩にかけていたタオルでがしがしと頭を拭き始めた。
「キロ、今日の晩、何食べた?」
放って置くと寝食をないがしろにするのはいつものことだ。忙しさにかまけて栄養補てん食品でも齧っていたのだろうと思えば、今日はそれさえも口にしていないらしく、
「たべてない」
という簡潔な声が返ってきた。
「ポトフだけじゃ足りないだろう。ちょっと待ってろ」
忙しさの原因の半分は自分である。せめて食くらい補充させてやろうと冷蔵庫を開ければ、作り置きの焼きおにぎりが冷凍庫から現れた。これでいいかと電子レンジに放り込み、解凍ボタンを押してから他の物も物色する。最近、コウが寝泊まりすることが増えたとはいえ、家庭用の大きな冷蔵庫は宝の持ち腐れと言える程度に物が入っていない。結局、焼きおにぎりの他にあったのは、ラッキョウとクリームチーズと卵くらいだ。奥の方に隠されていたプリンは、玲が明日のおやつに買ってあるものだろう。なくなっていると分かればさめざめとうるさい。これを食べるのは得策ではないと判断した穂は、数も足りないから、と見なかったふりをして扉を閉めた。
「碌なもんがねえなあ。卵でも焼くかぁ?」
腹の足しにはならなさそうだが、栄養にはなるだろう。卵を二つ片手に持って、棚からボウルを出す。
「おちゃづけ」
後ろで焼きおにぎりの解凍具合を見に来たキロが、白い丸皿の上で回っている三つの三角を眺めてぼそりと呟いた。
「ん? それをか? 確かに、鮭茶漬けならどっかにあったと思うけど……」
ポトフにお茶漬けとは、汁物で被っていないかと渋面を作る。だが、その渋面はすぐに解かれた。本人が食べたいと言っているのだからそれでいいだろう。自省するように頭を振って、穂はすぐにお茶漬け用の深皿を取り出した。
(駄目だな。人間ってのは、すぐに贅沢に慣れる……)
食事の取り合わせなど、穂も昔は度外視していたものだ。栄養バランスや品揃えを考慮する余裕など、時間的にも金銭的にもなかった。あったのは空腹を満たせればいいという最低限の欲求である。残り物があれば何であれ食卓に乗せたし、それが汁物で被っているという発想さえなかったものだ。
環境の相違というものである。それは、指摘したところでどうにもならない。改善できない環境に居る者には、晴れの日の傘のようなものだということを、穂は身をもって知っていた。
「お、出て来た出て来た。るいー、ポトフあるぞー」
つらつらと考えながら、保存庫の一角にある乾燥物用のラックを覗き、目当ての鮭茶漬けの元を手に戻ってきたところでるいが出て来た。手にはドライヤーが握られており、暖かいパジャマに厚手のパーカーもきちんと着こんでいる。
「父さんの? 食べたいけど、ちょっとでいいや」
「りょーかい」
いつの間にポトフの皿を空にしたものやら、キロがるいの手からドライヤーを奪い、ソファに足を広げて座っていた。コンセントを挿して戻ってきたるいが、諦めたように大人しく、足の間に腰を下ろす。すかさずキロがスイッチを入れ、激しいモーター音とともに温風を髪に当て始めた。
幼い頃から面倒を見ている延長で、キロはるいを甘やかすことが趣味のようだ。もう甘やかすような年でもないと思うが、キロの気分転換になるのならばと多少のことには目を瞑っている。趣味の発端として、玲が穂にしていることを見て真似ているのだという現実からは目を逸らしておいた。
キロがるいを構っている間にと、穂はやかんに水を入れて湯を作る。レンジで温め終わった焼きおにぎりは器に入れられ、ほかほかと湯気をたなびかせて出番を待っていた。
途中、ポトフのおかわりをねだりに皿を差しだしてきた未来に苦笑しつつ、鍋の前を明け渡す。上機嫌で最初と同じ量のポトフに加え、ウインナーをもう一本追加する横顔は、遠慮を見せているのかかたくなに穂と視線が合わない。肉が欲しかったのだろう。我が儘に慣れていない人間の身勝手など可愛いものだ。別に咎めだてをする気もなく、まだおかわりはあるからなと声を掛けておいた。
寸胴鍋には食べきれないほどのポトフが入っている。残ったとしても、コウがいるから、明日には食べきってしまうだろうという玲の思惑が伝わってくる量だったが、これでは今晩中に食べきってしまうかもしれなかった。




